益母の呪神
棺之夜幟
一章
第1話
十年くらい前の話。俺はまだ十二歳の少年で、中学に上がったばかりだった。その日は夏休みも始まったばかりの七月下旬だったが、稀に見る酷暑で、最高気温は三十五度を記録していた。汗で貼り付く布は父親が捨てたノースリーブ。襤褸切れを身にまといながら、俺は村を囲む山の一つを人知れず上っていた。山道としては整備されていない、獣が通ることしか考えられていない雑木の隙間、新品のキャリーケースを引きながら、歩き続けた。雨が降っていないことが救いでもあり、また苦行でもあった。沢を見つける度、そこに足を漬けて休ませた。
「窮屈だろ。ごめんな」
俺はそう独り言を吐いて、ケースの表面を撫でた。指先の水分と油分が、ピンクのプラスチックに指紋を残す。
キャリーケースの中で死んでいる妹は、十歳になったばかりだった。彼女はピンク色が好きな、母親にそっくりの可愛らしい少女だった。その顔を父親が拳一つで弾き飛ばしたのが一週間前。昏睡したまま痙攣が止まらなくなって、短い息をするようになったのが一昨日の、彼女の誕生日。俺の布団の隣で冷たくなっていたのが、昨日。街で買って来たらしいキャリーケースを投げ渡し、「適当に捨てて来い」と父親が言ったのは、今朝のことだった。
妹の死体を抱えながら、何処に行けば良いのかもわからないまま、俺は山の中を彷徨っていた。当時の俺が住んでいた村は、山に囲まれていて、死体を埋めてもバレない程度の場所は選び放題だった。だからこそ、俺は、妹を埋める場所に迷っていたのだ。選択肢があればあるほど、迷いは強くなっていく。そうしてるうちに、山の中を延々と彷徨うことになってしまった。
喉が渇く。腹も減る。学校がある日は給食を食べられたので問題が無かったが、今は夏休み。家にいても真面な食事は得られなかった。毎年の夏は、山の向こうにある高級別荘地のゴミを漁って過ごしていた。今日だって、何も問題が無ければ、俺は妹と生ゴミを分け合っていた頃だ。
暑い。暑い。沢の水を飲んだというのに、ずっと喉が枯れている。唾はもう出ない。何処に何をしに行くのかも忘れ始める。脳の機能は既に止まっていて、殆ど反射的に足を動かしていた。ゆらゆらと揺れる視界の中で、一瞬、キラッとした硬い光があった。それは硝子が太陽光を反射させる時の、特徴的な白い光。山を覆う中に、硝子や鏡を生やす木があるなどとは聞いたことが無い。光の刺激で呼び起こされた俺の精神は、その人工物を探す。もしも家屋があるなら、そこに妹を置いて行けばいい。人が住んでいようがいまいが関係ない。運良く人が出入りする場所なら、俺以外の誰かが妹の死体をどうにかしてくれるだろうし、廃屋ならば妹は静かにその家で眠るだけだ。
本当に人がいない廃屋だったなら、ベッドに妹を横たえて、身形を整えさせてやろう。布団をかけてやって、夜まで付き添ってやるのだ。
そんな自己陶酔に陥るくらいには、俺は理性を夏の熱に溶かしていた。光を追うだけの体力は残っていた。雑木を掻き分けて辿り着いたのは、古びた西洋風の屋敷だった。表面は手入れされていないが、窓から見えるいくつかの部屋は掃除されているように見えた。図書室の本に、美しい魔女が住む屋敷の話があったが、現実にあれば似たようなデザインをしているのかもしれない。ただ、違和感があったのは、屋敷の塀には有刺鉄線が張り巡らされ、幾つかの窓には鉄格子がはめられていたのだ。まるで誰かを閉じ込めるように存在するその屋敷は、鉄格子で出来た門だけが、外と通じていた。真新しい南京錠が銀色に輝く。門の表面を撫でると、太陽光で熱を帯びた鉄が指先を焼いた。
この門の向こうに住んでいる人は、きっと、毎日肉か魚を食べて、清潔な布団の上で眠っている。突然父親に殴られることもないし、隣で妹が死んでいるなんてことも無いのだろう。見知らぬ誰かに対する憎悪を煮詰める。
焦げ付いた思想の中、俺はキャリーケースを門の傍で手放した。
「ここならきっと、お前を大事にしてくれるよ」
少なくとも、こんな豪勢な家に住んでいる人間が、人間の死体を粗末にはしないだろう。俺は振り返らずにその場を離れた。足がもつれて、塀を伝って歩く。硬いレンガは、冷たく見えても、熱を帯びていた。
風が吹く。何処からか、爽やかな柑橘の香りが鼻孔を擽った。同時に、鉄の臭いが水っぽい空気に混じって漂う。噎せ返るような血の臭い。キャリーケースから漏れ出たものではない。臭いの発生源は、塀の向こうだった。俺は指先で塀の上を撫でた。有刺鉄線は見た目ほど厳重ではなく、塀の向こうを視界に入れることが出来る程度には、隙間があった。腕の力で、上半身を引き上げる。
塀の上から見たのは、屋敷の一角、広々とした芝生の庭だった。屋敷の壁を伝い、背の低い果樹が実を付けていた。それらの隙間、鉄格子の無い窓が一つ、開けられていた。
むわり、生臭い血の香りが、外の空気と入れ替わる。
――――窓を開けて、風を受ける少女。白いワンピースの裾と胸は赤く、彼女の手には刃渡りニ十センチ程度の包丁が握られていた。太陽光を反射させるほどに白い少女の皮膚と、黒く光を通さない瞳のコントラスト。絹のような黒髪は、夏風に漉かれて上下する。
伏せられていた彼女の目線が、数秒の後に上を向く。
目が、合った。少女は血色の薄い唇を結び閉じて、俺を見ていた。ずり落ちそうになる体を支えて、俺は塀にしがみついた。その様子を、少女は黙って見ていた。
「き、君、どうしたの? 怪我、してるの?」
赤い服を指して、俺はそう問いかけた。すると彼女は一瞬目をつむり、部屋の奥に身を隠してしまった。気が抜けて、俺も塀にしがみついていた手を放して、背中を地面につけた。妙に空が青く感じた。その感情は新鮮さを煮詰めたように刺激的だった。
血の臭いに鼻が麻痺する頃、その空に丸い影が浮かんだ。それはポトン、ボトンと音を立てて、地面に落ちた。
「夏蜜柑……?」
鉄臭さの中に混じっていた柑橘の香りの正体が、二つ、俺の傍に落ちていた。
「食べて良い」
じっとりとした甲高い声が、塀の向こうから聞こえた。同時に、塀の表面を擦る乾いた音が耳の穴を擽った。
「代わりに、僕に協力しろ」
あの少女の声だと、すぐにわかった。きっとあの細腕では塀を上ることは出来ないのだろう。声だけが俺の下に降り注いだ。
「約束してくれたら、今日のおやつのアイスクリームも、お昼ご飯の素麺も、甘いリンゴジュースもくれてやる」
子供を誘惑する魔女のように、少女の声は、飢えた俺を混凝土越しに誘っていた。甘美な言葉を飲みこむように、俺は「わかった」と叫んでいた。
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