第10話


「いってぇ~。ちきしょう、あのくそ僧侶……っ」

 そこは町外れの、とある公園の中だった。

 その敷地内で一人ベンチに座りながら、ハイドは元の姿で怨嗟の言葉を呟いていた。

(あいつのせいで体はボロボロだわ、辺鄙な場所にまで飛ばされるわで散々な目に遭ったぜ……。この恨み、絶対忘れねぇぞ……!)

 傷んだ肌をソフトタッチで撫でながら、顔相を険しくさせるハイド。

(にしても、とっさに空に逃げて正解だったな。攻撃自体は完全に避けられなかったが、どうにか衝撃波に乗って離脱することができたし、あの僧侶もオレを倒したと思い込んでいるに違いない)

 その代わり、もう同じ作戦は通用しないだろうが。

 そもそもあいつ、遠慮がなさ過ぎるのだ。偽物とはいえ、仮にも慕っている者の姿をした相手にあそこまで躊躇なく攻撃できるとか、一体どんな神経をしているのだろう。まあ相当逆鱗に触れてしまったようだし、それだけ怒りをぶつけたかったのかもしれないが。

「しかし、あんな貧乳勇者のどこがいいのかねー。どう見てもお子様じゃねえか」

「だれがお子様なのー?」

「どぅわっ!?」

 いきなり背後から聞こえてきた声に、ハイドは思わずベンチから飛び退いて後ろを振り返った。

「ユーリさん!? いつからそこに!?」

 そこにいたのは、ついさっきハイドが口にしていた人物、ユーリその人だった。

「今さっきだよー。薬屋さんに行った帰りに散歩がてら近くを歩いていたんだけど、その時に一人でベンチに座っているハイドくんが見えたから声をかけてみたんだー」

 そう言うユーリの腕の中には、確かに薬屋らしきマークの入った紙袋を抱えていた。この町で解散する前、旅に必要な物を揃えてくるとは言っていたが、薬のことだったのか。

「で、お子様ってなんのこと?」

「ああいえ、途中で風船を木の枝に引っかけて困っているお子さんがいたので、その時のことをふと思い出していたんですよ。あ、ちなみに風船は無事に取れました」

「そうだったんだー。それは良いことしたね、ハイドくん♪」

 にこっと心底嬉しそうに微笑むユーリに、ハイドも精一杯の笑みを作りつつ、

(ふぃー。やばいやばい。とっさに吐いた嘘だが、なんとか誤魔化せたぜ)

 と額に掻いた冷や汗を拭った。

 今回はたまたま「お子様」という部分しか聞いていなかったからよかったものの、もしも「貧乳勇者」のところまで聞かれていたらどうなっていたかわからなかった。今後、発言には重々注意しておこう。

「って、よく見たらハイドくん、全身傷だらけじゃない!? 一体なにがあったの!?」

「あ、えーっと、ここに来る前に派手に転んでしまいまして……」

 まさかアリアを殺そうとして返り討ちにあったとは言えず、それらしい嘘を吐いて言葉を濁すハイド。

「そうなの? それにしてはずいぶんボロボロだけど……。まあひとまず、さっき買ったばかりの薬草があるから、これを使って」

「すみません。ありがたく頂きます」

 ユーリから薬草を受け取って、そのまま口の中で食む。本当はすり鉢などで細かくした状態のものを傷に塗り込んだ方がよく効くのだが、今ここにそんな物はないし、体内に取り込んでも一応効果はあるので、とりあえずはこれでいいだろう。

「服もだいぶ傷んじゃってるね。このままだと動きづらいだろうし、新しいのを買った方がいいかも」

「そうですね……」

 確かに、あちこち汚れているところやほつれているところ、果ては穴の空いた部分まである。汚れくらいは洗えば済む話なのだが、ここまでひどい状態だと直しようがない。ユーリの言う通り、新調するしか他ないだろう。

「そうだ! よかったら私が服屋さんまで案内するよ。ちょうどここに来る途中でちらっと見かけたし」

「え、いいんですか? 他に用事があるのでは?」

「もう全部済んだから大丈夫だよー。それにこのまま放ってもおけないし」

「う~ん……」

 さて、どうしたものか。

 本人は至って善意で言ってくれているのだろうが、服くらい自分で買えるし、なにより気まずい。しかも本来なら敵対関係である相手に服選びにまで付き合ってもらうとか、はっきり言って罰ゲームとなんら変わりない。いっそ拷問レベルまである。

(いや待てよ。ここは逆に付いて来てもらった方が、こいつを仕留める機会が増えていいんじゃないか?)

 服も体もボロボロな状態だし、また態勢を立て直してから改めて挑もうと考えていたのだが、決して動作に支障があるわけではないし、それに図らずもこうして二人きりになれたのだから、これはチャンスと思うべきではないだろうか。

 しかも相手は他でもない、一番の抹殺対象であるユーリなのだから。

「……そう、ですね。それでは、一緒に付いて来てもらってもいいですか?」

 しばし間を置いて、そう願い出たハイドに、

「うん! 私に任せて!」

 と、ユーリは快活に胸を叩いて頷いた。



 そんなわけで、ユーリと一緒に服を買いに行くことになったハイド。

 ユーリが言っていた服屋までは、公園から歩いて十五分ほどで辿り着けるらしく、今は商店や民家がぽつぽつと並んでいる道を歩いていた。

 それはさておき、途中まで町外れの道を歩いていてひと気も少なかったのでさほど気に留めなかったのだが、やはりこうもボロボロだと目立ってしまうのか、少々周りの視線が煩わしくなってきた。

 と、そんなハイドの心中を察してか、右隣を歩くユーリが気遣うように顔を覗き込んで、

「どうするハイドくん。今からでもなにか羽織れる物でも買っておく?」

「いえ。じきに着くでしょうし、このまま我慢します」

 それに、と言葉を継ぎつつ、ハイドはユーリの右手を繋いで一緒に歩いている、五歳くらいの男の子に目を向けた。

「今はそこにいる迷子の母親を見つける方が先でしょうし」

 そうなのだ。

 実はここまで来る途中、母親とはぐれて泣いている男の子と遭遇し、見かねたユーリが一緒に母親を探すためにこうして連れてきてしまったのである。

「ごめんねハイドくん。こっちの方を優先させちゃって。しかも荷物まで持ってもらっちゃって……」

「お気になさらず。事情が事情ですし、それに荷物ぐらいいくらでもお持ちしますよ」

 ユーリから受け取った紙袋を片手で抱えつつ、にこりと笑顔で応えるハイド。

 本当は唾を吐き捨てたくなるほど面倒に思っているのだが、とはいえ抹殺対象であるユーリのそばから離れては意味がないし、仕方なくこうして迷子探しに付き合っているハイドなのだった。

「おかあさん、見つかるかなあ……」

「大丈夫! 私達が絶対見つけてあげるから! だから泣かないで君も一緒に探そ?」

「お姉さん……。うんっ。ぼく、がんばって探す!」

 涙を拭いて元気にそう言った男の子に「よしよし。良い子だね~」と優しく空いた手で頭を撫でるユーリ。

 そんな二人のやり取りを微笑ましく眺める風を装いつつ、ハイドは内心唾棄していた。

(……物好きな奴だ。こっちにはなんの関係もないのに、わざわざ迷子のガキの面倒を見るだなんて)

 そういえばアリアの思い出話だと、魔物に襲われそうになったところを助けてくれただけでなく、町の危機にも貢献したのだっけか。ハイドを助けた時もそうだが、こうして真っ先に迷子の面倒を見るあたり、どうやら筋金入りのお人好しのようだ。

「確か、この近くではぐれたんだよね?」

 そう訊ねたユーリに、男の子は「うん」と小さく頷いて、

「おかあさんの買い物が終わるまでボールで遊んでいたんだけど、気が付いたらよくわからないところに来ちゃって……」

 そう語る男の子の片手には、少し汚れたゴムボールが握られていた。

 大方、転がっていったゴムボールを追いかけている内に知らない場所まで来てしまったのだろう。まだ幼児とはいえ、バカな奴だ。

「そっかー。じゃあこの近くにいたらお母さんにもその内会えるかもしれないね」

「そうですね。おそらく向こうもこの子を探しているでしょうし。そういえばユーリさん、よくこの子を見つけられましたよね。建物の隙間に屈みながらすすり泣いていたせいか、ユーリさん以外の人は全員気付かないまま素通りだったのに」

「私、昔から困っている人を見つけるのが得意なんだ~。そういう直感みたいなものがあるっていうか、考える前に体が動いちゃうんだよね~」

 なるほど。お人好しは昔からというわけか。難儀な性格だ。

「しかし、どうしてそこまで人に優しくできるんです? こう言ってはなんですが、必ずしも見返りがあるわけでもないでしょうに」

「見返りなんて関係ないよ。ただ困っている人を放っておけないだけ。それを余計なお節介だって言ってくる人もいるけど、たとえお節介でもそれで救える人がいるなら、私はこれからも困っている人を全力で助けるつもりだよ」

 そう語るユーリの表情は、微塵も自分に恥じていない、実に晴れ晴れとしたものだった。

 見ていて虫唾が走るくらいに。

(戯言だな。偽善もいいところだ)

 なにやら誇らしげに語ってはいるが、どうせ良いことをしている自分に酔っているだけだろう。

 完全に善良な人間なんて、この世にいるはずがないのだから。

(でもこいつ、確か前に魔王様と話し合いたいとかなんとか言っていたな。まあ所詮夢物語でしかないとは思うが、しかしもしも本当に直接会えたとしたら、こいつは……)

「あれ? あそこにいる女の人、さっきから妙にきょろきょろしてない?」

 と。

 しばらく迷子を連れて歩いていたところで、不意にユーリが前方を指差して問いかけてきた。

 見ると確かに、買い物袋を持った二十代半ば程度の女性が、ひどく焦った様子でしきりに周囲を見渡していた。それも、さながら小さい子を探しているような仕草で。

「ねえ君、もしかしてあの人が──」

「おかあさんだ~っ!」

 と、ユーリが言い終わる前に、男の子が繋いでいた手をほどいて件の女性の元へと一目散に駆け出した。

 どうやら向こうも先ほどの大声で気付いたようで、男の子が駆け寄ると同時に母親も慌てて飛び出して力強く抱きしめていた。

「よかった~。無事に見つかって~」

 母親の胸の中でわんわん泣きじゃくる男の子を心底嬉しそうに眺めるユーリを横目に、ハイドも「そうですね」と相槌を打つ。

 どうせこいつも数いる偽善者の一人でしかないのだろうけど、もしも人間がユーリのような奴ばかりだったら、少しは魔族との関係も違っていたのかもしれないなと、心のどこかでそう思いながら。



  ☆



「わ~。よく似合っているよ、ハイドくん♪」

 そこそこの客入りで賑わうとある服屋。そこの試着室で新しい服に着替えたハイドは、ストレートに称賛の言葉を送ってきたユーリに、

「そ、そうでしょうか……?」

 と困惑を表情に滲ませて応えた。

「うんうん。前のも悪くなかったけど、やっぱりこっちがいいね。ハイドくん白髪だから、赤いマントとか似合うんじゃないかなって前々から思ってたんだよね~」

「ですが、少々目立ち過ぎでは?」

「そんなことないよー。むしろ前の格好の方がちょっと地味だったくらいだよ。それに中の服を全身黒に近い色にしたおかげで、マントの赤が良い感じにマッチしてるし」

「はあ。そういうものでしょうか……?」

 試着室の壁に備え付けられている鏡で全身を確認しつつ、未だ釈然としていない表情で呟くハイド。

(見た目なんて今まで気にしたこともなかったしなあ。今まで機能重視だったし)

 いや、この品とて丈夫でありながらまるで羽のように軽量なので、機能としては申し分ないのだが、さりとて色が少々派手(特にマントが)というか、あくまでも後衛に徹するべき魔法使いがこんな目立つ服装をしていていいのだろうかと疑問に思ってしまうのだ。

「個人的な感想になるけど、ハイドくん割とイケメンで長身だし、そういった服の方が似合うと思うよ? 舞台役者さんみたいで」

 そう言われると悪い気はしないが、今までオシャレに気を遣ったことなんてなかったので、やはりいまいち良さがわからなかった。

(本当はさっさと適当に選ぶつもりだったんだが、まさかこいつがここまで服装にうるさい奴だったなんてな)

 この服屋に来た当初は、それこそ自分だけで手早く衣類を購入するつもりだったのだが、機能だけを見て選ぼうとするハイドになにかしら見かねるものがあったのか、服に手を伸ばそうとする度にユーリが横やりが入れてくるせいで予想よりも遅くなってしまったのだ。

 まあこれはこれで着心地がいいし、色さえ目を瞑れば良い品だとは思うが、しかし自分のセンスがまるでダメだと言われているようで、あまり面白くはなかった。

(とはいえ、オレもファッションに詳しいわけじゃないしな。客観的に見てこれがいいのなら、これにすべきなんだろう)

 とにもかくにも、機能さえちゃんとしていればそれでいいわけで、そもそも服くらいでうだうだと時間を浪費したくはない。

 現状、最も優先度が高いのは、ユーリの抹殺なのだから。

「わかりました。ユーリさんがそこまで太鼓判を押すなら、これに決めます」

「うんっ。その方が絶対いいよ!」

 ハイドの決断に、笑顔で力強く首肯するユーリ。なにがそんなに嬉しいのやら。

「それじゃあ、さっそくお会計に行こうかー。服はそのまま着た状態で買えるみたいだし、前の服は店員さんに言えば処分してくれるみたいだよー。楽に済んでよかったね~」

「そうですね。あ、でもその前にユーリさん」

 と、会計に行こうとしたユーリを呼び止めつつ、試着室から出て適当に女物の服を手に取った。

「せっかくこうして服屋に来たわけですし、ユーリさんもなにか買われてみてはいかがです?」

「私も? う~ん。興味はあるけど、お金に余裕があるわけじゃないし、今はなるべく節約しておきたいかなあ~」

「でしたら、僕がプレゼントしますよ。服選びに付き合ってくれたお礼もしたいですし。あ、お金のことなら安心してください。それなりに余裕があるので」

 などと、さも紳士的なことを言いつつ、本心では邪悪なことを企てていた。

(試着室の中ならこいつも無防備になるだろうし、なにより死体も上手く隠せられる。まさに一石二鳥! これ以上ない最高の作戦だ)

 自画自賛するハイド。我ながら自分の才能が恐ろしい。

 具体的には、ユーリを試着室に入れたあとに頃合いを見てナイフで急所を一刺しという作戦ではあるのだが──

「ええっ。い、いいよ。なんだか悪いし……」

「そう仰らず。ただの感謝の気持ちですから」

「でも、ちょっと服選びに付き添っただけで服を買ってもらうというのは……」

(ちっ。けっこう渋るな、こいつ……)

 たぶんユーリなりに遠慮しているのだろうが、しかしそれでは困るのだ。ユーリを試着室に入れないことには成り立たない策なのだから。

(しょうがない。少しアプローチを変えてみるか)

「では、試着だけでもしてみては? ただでさえずっと旅に出ていてなかなかオシャレもできないでしょうし」

「試着、かあ……」

 と考え込みながら、ハイドが持っている服や横に整然と陳列している衣類を気にしたようにちらっと見やるユーリ。これは、あともうひと押しと見た!

「それに、用事はもう済んでいるんですよね? だったらなおさら気晴らしにもいいと思いますよ。試着している間に気が変わって欲しくなるかもしれませんし」

「そう、だね。うん、じゃあちょっとだけ着てみようかな?」

 笑顔で頷いたユーリに、ハイドも心の内で「よっしゃあ!」と快哉を叫んだ。

「けど、なにを着ようかな? こんなにいっぱいあったら迷っちゃうよ~」

「ユーリさんならどれでも似合いますよ」

 さっさと試着室に入ってほしいがために、適当なことをもっともらしく言うハイドではあったが、

「え~? 褒めてくれるのは素直に嬉しいけど、でもそれじゃあ私はともかく、他の女の子に嫌われちゃうよ?」

「えっ。な、なにがダメだったのでしょうか?」

「だって『なんでも似合う』ってことは、言い変えたら『なんでもいい』ってことになっちゃうでしょ? 女の子はいつだってその日の最高の自分を求めているのに、今みたいな言い方をされたら複雑な気分になっちゃうよ。真剣に私のことを考えてくれているのかなって」

 面倒くせぇ。

 服なんてちゃんと着られたらなんでもいいじゃないか。なぜそこまで見た目にこだわる必要があるのか。女の考えることは理解に苦しむ。

 とはいえ、さすがにそんなことをバカ正直に伝えるわけにもいかないので、ここは適当に流しておいた方が無難だろう。機嫌を損ねてしまっては元も子もないし。

「そ、そうですか。では、今僕が手にしている服とかどうでしょう?」

「それ? ん~。悪くはないけど、胸元が空き過ぎていて私には合わないんじゃない?」

 貧乳だもんな。

 なんて、思わず口を衝いて出そうになった言葉を寸前に呑み込み、

「……意外と難しいですね。それじゃあ参考がてら、どういった服が好みなのかを訊いてもいいですか?」

 と服を元の位置に戻しながら、ユーリに訊ねた。

「そうだね~。今はキャミソールが欲しいかな。今着ているのも悪くはないんだけど、同じような物しか持ってないから、たまには違う雰囲気のキャミソールを着てみたいんだよね~」

「え? それならなぜ同じキャミソールを何着も持っているんです? 違うのが欲しいのなら普通に買えばいいのでは?」

「これが一番安かったんだよ~。お金に余裕があるわけじゃないし、高い物を買うより安い物を何着か持っていた方がいいかなって」

 それに魔物と戦っていたりしたら汚れちゃうしね~、とユーリは苦笑混じりに言いながら、銀の胸当ての下に着ているキャミソールを軽くつまんだ。

(言われてもみれば、昨日今日と同じ服を着ているな。いや、オレも人のことは言えないけど)

 というより、ハイドの場合は同じ服でも魔法で殺菌や洗浄ができるので代えの服なんて必要なかったし、そもそも見た目にこだわる性分でもないので気にしたことがなかっただけなのだが、ユーリ達の場合は資金の問題もあって、安物を使い回すしか他なかったのだろう。それも、まったく似たような服ばかりを。

「……なるほど。そうなると、色違いのキャミソールの方がいいってことになりますね」

「そうだねー。って言っても、あくまで希望だからね? 買ってほしいだなんて少しも考えてないから」

「まあ、買うかどうかは試着してからでも遅くはありませんから。ほら、たとえばあれなんてどうです?」

 と、ハイドはたまたま目に付いたマネキンを指差して、そこまで小走りに近寄った。

「これなんて、ユーリさんに似合うと思うんですが」

 言ってハイドが手に触れたのは、これ見よがしにマネキンに着せられていたキャミソールだった。

「へ~。花柄で可愛いー。ハイドくん、なかなか良いチョイスだね」

「お褒めに預かり光栄です」

 実際はこれ見よがしに置かれていたこの店のお勧めらしき物をそのまま選んだだけなのだが、あえて黙っておく。

「では、さっそく着てみます? 何着か同じのがハンガーにかけられていますし」

「え? いいの?」

「はい。先ほども言いましたが、今は試着だけでも構いませんから。色々と試着するだけでも気分が晴れやかになるでしょうし」

「そ、そう? じゃあお言葉に甘えて、少しだけ着てみようかな……?」

「ええ。どうぞどうぞ。その間、この荷物は僕が持ちますね」

「う、うん。じゃあ、ちょっとだけお願いするね?」

 そう爽やかな笑顔で荷物を受け取ったハイドは、少し浮かれたようにそわそわと件のキャミソールを胸に抱いて試着室へと入っていったユーリを静かに見送った。

 その時までは。

「……やれやれ。やっと行ったか。まったく、無駄に手を煩わせやがって。しかしまあ、これで前準備は済んだわけだ」

 と、嘆息混じりに呟いたあと、ハイドは懐に手を忍ばせつつニヤッと口角を歪めた。

(あとは頃合いを見てこのナイフで急所を刺すだけだな。とはいえ腐っても奴は勇者──タイミングだけ間違えないよう気を付けないと)

 狙うとしたら、キャミソールを脱ぎ終えて無防備になった瞬間だろうか。腰に剣を携えたままだが、女子であるがゆえに上半身が裸になったままの状態で剣なんて抜く余裕はないだろう。

 などと思考を働かせつつ、ハイドは気配を殺して試着室の前へと歩み寄った。

 そして、カーテンの向こうで着替えている最中であろうユーリを想起しつつ、ナイフを持ち遊びながら黙考を続けた。

(さて、急所を狙うのはいいが、具体的にどこを刺したもんかな。なるべく一撃で終わらせたいし、狙うとするなら心臓か肺あたりがベターだと思うが……)

 と。

 ユーリの体格を考慮して、ナイフの位置をあれこれと調整していた、その時だった。


「あら~。その服、とても良いじゃない~」

「でしょう? 私も一目見た時ビビっと来たのよ~」


 不意に横から歩いてきた、二人組の中年女性。

 その見るからに肥満体質気味の女性二人に人知れず舌打ちしつつ、ハイドはナイフを懐に仕舞い直してそっぽを向いた。

「特にその胸のリボン、本当に素敵だわ~」

「そうなのそうなの! 私もこのリボンが気に入ったのよ~。でも、ちょっと若々し過ぎるかしら?」

「そんなことないわよ~。とってもお似合いよ。二十歳は若く見えるわ」

「やだもう。さすがにそれは言い過ぎよ~」

 などと陽気に話しながらこちらへと近付いてくる女性二人に、表面は素知らぬ顔しつつも内心では相当焦れていた。

(くそっ。タイミング悪くこっちの方へ歩いてきやがって。お前らブタどもがそこにいたら、下手にナイフを取り出せねえじゃねえか!)

 いや、刺そうと思えば刺せなくもないと思うが、いかんせんナイフを取り出すところを見られたら絶対騒ぎ立てるだろうし、ユーリも何事かと身構える可能性がある。そんな状態で果たしてユーリを上手く刺せるかどうか。最悪、反撃される危険性だってなきにしもあらずだ。

 つまるところ、今はぐっとこらえて二人が通り過ぎるのも待つしかない。

 そうして苛立ちを覚えつつ、二人がすぐそばまで接近してきたところで、

(よーし。こいつらが通り過ぎたらすぐに刺してやる。悲鳴を聞かれるリスクもあるが、勇者さえ亡き者にできたら言うことなしだ)

 と、密かに決意を固めてナイフを取り出そうとした、その瞬間──

「うおっ!?」

「あら。ごめんなさいねえ」

 突然真後ろから衝撃を受け、前のめりにバランスを崩すハイド。

 その犯人は言うまでもなく二人組の片割れだったのだが、当人は詫びの言葉も早々に後ろを通り過ぎてしまい、立ち止まりすらしなかった。おそらく会話に夢中になるあまり、ハイドのことなんて気にも留めなかったのだろう。

 これでどうにか踏み止まれていたら、さすがに文句の一つでも言っていたところなのだが、あいにくとそんな余裕はなく。

 それどころか、勢いよく前に倒れかかってしまったせいで、ユーリから受け取っていた荷物を落として床に散乱させただけでなく、うっかり試着室の中にまで入ってしまった。

 幸い、とっさになにかを掴んだおかげで転ばずには済んだが、おかげで計画がパーだ。あのババア、今度会ったら絶対ただじゃおかない。

ひとまず、どうにか無事に済んだことにほっと一息ついたあと、ハイドは伏せていた顔をゆっくり上げた。

「す、すみませんユーリさん。ちょっとした事故なんですけど、うっかり中に入ってしまい──」

 顔を上げたその瞬間、視界に映り込んだあるものに、ハイドは思わず目を奪われて固まった。


 おっぱい!

 しかも、生!!!!!!!!


 紛れもなく、そこにあったのは、わずかに丸みを帯びた少女の乳房であった。

 それも、すべてをさらけ出した状態で。

 それもそのはず。なぜなら本来胸元にあるべきブラジャーが、ハイドの手によってがっつり腹部までずり下げられていたのだから。

 つまり、だ。ハイドがとっさに掴んだなにかとは、ユーリのブラジャーだったのである。

 むろん、そんなハレンチな真似をされて、ユーリが大人しく黙っているはずもなく──

「ははは、ハイドくん!? ど、どこを掴んで……!?」

 顔を真っ赤にして大声を上げるユーリに、ハイドははっと忘我から帰って一気に冷や汗を流した。

(まずい! これは、またぶっ飛ばされるパターンだ!)

 脳裏に過ったとある記憶──それは昨夜、うっかり偶発的にユーリの胸を揉んでしまい、釈明も虚しく昏倒させられたシーンだった。

 このままでは、また同じ目に遭いかねない……!

 そう瞬時に思考したハイドは、ユーリが怒りの鉄拳を繰り出すより早く俊敏に仰け反り、そのまま後退した。

(ふはははは! どうか見たか! 同じミスを繰り返すオレではないわ!)

 と、喜んだのも束の間だった。

 後ろ足で試着室から出ようとしたその直後、空になった紙袋に足を滑らせてしまい、背中から床に落ちそうになってしまったのだ。

「くっ──! だが、まだまだあ!」

 予想だにしなかった事態に一瞬動揺しつつ、ハイドは即座に上半身を横に反らして片腕を突き出した。背中を打ち付ける前に、床に片手を突いて体勢を立て直す作戦である。

 これなら体を床に打ち付けたとしても、せめて頭だけは守れるだろう。

 そう思慮して、迫る床に意識を集中しようとしたその時、ちらっと視界の隅に映ったある物に、ハイドは息を呑んで瞠目した。

 それは、ちょうどハイドの下半身──それも図ったように尻の真下に置かれており、このまま行くと穴にジャストフィットしてしまう位置にあった。

 しかも、直立した状態で。

 しかして、そのとある物とは──


『胃もたれ、食べ過ぎに即効く! ニコニコマークの胃腸薬』


「またお前かああああああああああああああああああっ!」

 二度ならず三度も障害として現れた胃腸薬に、あらん限りの声で怒鳴るハイド。

 悲しいかな、宙に投げ出されている上、すでにすぐそこまで床に迫った状態ではまともに回避できるはずもなく。

 そのままズブッと肛門の奥深くまで刺さった小瓶に、産声のような絶叫を上げて悶絶するハイドなのであった。

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