第5話


 夜も深まり、それまでまばらに飛翔していた野鳥も暗闇の中に潜み始めた頃。

 焚き火の前で一言も発さずに見張り番をしていたハイドは、それまで瞑想するように閉じていた瞼をゆっくり開いた。

「そろそろ、か……」

 気持ち良さそうに寝息を立てているユーリ達を瞳に映しながら、ハイドは己にしか聞こえない声量でぼそっと呟く。

 どうやら深い睡眠に入っているようで、三人共ちょっとした物音やふとした拍子に聞こえる獣の鳴き声程度ではまるで起きる気配を感じさせなかった。それだけ疲弊しているのかもしれない。

 だが、こっちにしてみれば非常に好都合。これ以上に万全な状態はない。

(交代は一人二時間ずつ……すでに一時間以上は経っているから、残りは約五十分と言ったところか。まあ、これだけあれば余裕だな)

 途中で気付かれるとまずいので、あまり派手な真似はできないし、下手に殺気を出すのも危険なので、一人ずつ音も立てずに息の根を止める必要性はあるが、幸い暗殺術はかねてより体に叩き込んであるし、十分どうにかできる。

(というか、昼食の時にあんなみっともないヘマをやらかしてしまった以上、ここできちんと仕留めておかないとな。でないと『謀略のハイド』の名が廃る)

 それに明日の夕刻には経過報告がある──万が一にも失敗に終わるようなことはないと思うが、もしもという可能性も僅かながらにあるし、なるべく今の内に済ませておきたい。

 なんだか締め切りに追われる作家のような気分になりつつ、ハイドはその場でゆっくり立ち上がり、忍び足で歩を進める。

 そして迷いのない足取りで、一切の音を殺しながら近付いた先には、まるで赤子のように体を丸めながら熟睡しているユーリがいた。

 最初にだれを狙うかは、事前に決めてあった。

 このパーティーの中心は、言わずもがなユーリに他ならない──ならばその核さえ壊してしまえば、仮にファイやアリアを仕留め損ねたとしても、勝手に自滅してくれるはずだ。

(人間なんて仲間が一人死んだけでたやすく折れてしまうくらいに脆い連中だからな。それが一番信頼している奴となれば、もはや魔王城に行く気も失せるだろう)

 逆に、仲間の仇討ちのために奮起する人間もいるようだが、話を聞くにそんな復讐心に燃えるような執念深い奴には見えない。

 だとすると、やはりここは最も魔王様に執着しているユーリを先に始末するのがベストだろう。

 そうこうしている間に、ユーリの寝顔が間近に見下ろせるくらいの距離まで縮まった。

 凄腕の戦士ならば、接近しただけで飛び起きそうなものなのだが、幸いというべきか、ユーリにその気配はない。それだけハイドを信頼しているという証左なのだろうが、出会ってまだ一日も経っていないのにここまで無防備になるとは、どれだけ甘ちゃんなのだろうか。

 しかも相当熟睡しているのか、涎まで垂らしているときたものだ。こっちにしてみれば手間がかからずに済むのでありがたい限りなのだが、こんな連中のために遠方からわざわざ足を運んできたのかと思うと、無性に悲しくなってきた。

(いや、これも魔王様のためだ。さっさと任務を遂行して、城に帰還しないとな)

 気持ちを新たに、ハイドは懐からナイフを取り出して、刃先をユーリの首元へと向けた。

 このナイフには大型の獣すら昏倒させてしまうほどの猛毒が塗られている。

 そういった意味では首以外の場所でも十分に効果は期待できるのだが、刺した瞬間に悲鳴を上げられては他の二人が飛び起きてしまう危険がある。そう考えての首狙いだった。

(それじゃあな、勇者ユーリ。他の仲間もすぐにお前の元へ送ってやるから、安心して死ぬといい)

 手向けの言葉もそこそこに、ハイドは口角を歪めながら、ナイフを勢いよくユーリの首元へと振り下ろした。

 が。

「う~ん……」

「──っ!?」

 ナイフを振り下ろした瞬間、折悪しくユーリが寝返りを打ったせいで、まったく標的ではなかった地面へと突き刺さってしまった。

「ちいっ!」

 思わず舌打ちしつつ、すぐさまナイフを地面から抜いて、運良く逃げおおせたユーリの姿を探す。

 寝返りを打ったあと、そのまま何処かへ転がっていったユーリは、なぜだかハイドから数メートル離れた先──ちょうどファイが寝ているそばで止まっていた。

「寝相の悪い奴め……。だが、次こそは必ず殺す……っ」

 苛立ちのあまりナイフの柄を過剰に握り締めつつ、ハイドは気配を殺しつつ再度ユーリの元へと歩む。

 と、ユーリとその横にいるファイのそばまで来たところで、ハイドは思わずピタッと動きを止めた。

「えへへ~。こんなところに、気持ちのいいクッションが~」

「はぅん! タコが、巨大なタコがあたしの胸に……!」

 そこには、なにかしら夢でも見ているのか、寝ぼけてファイの胸を正面から揉みしだいているユーリがいた。

 当のファイも夢の真っ只中にいるようで、どれだけ胸を豪快に揉まれてもまるで起きそうにない。むしろ口では嫌がりながらも、体の方はまんざらでもないようで、時々ビクンと痙攣を起こしては荒い呼吸を繰り返していた。

 そのせいもあってか、ユーリのセクハラもだんだんエスカレートしていき──

「あ~。このクッション、先端が一番気持ちいい~」

「やっ! そ、そこは、ダメっ! 敏感なところだから……っ」

 ユーリに双丘の頂を攻められ、普段の男勝りな性格から考えられないほどの艶っぽい声を上げて身悶えるファイ。

 今さらではあるが、ここまでのことをされておきながら、なぜ目を覚まさないのであろうか。

 ユーリもそうであるが、ファイも武術を極める者ならば、もう少し危機察知能力を持った方がいいのではないかと敵ながらに思ってしまう。

 にしても、これが噂に聞く百合というやつか。

 初めて目にするが、なるほど。なかなかに興味深い。

 以前、魔族の男連中が陰でひそひそと話しているのを偶然聞いてしまった時は特になんとも思わなかったのだが、まさかここまで心を掴まれようとは。当初はくだらないと鼻で笑っていたハイドではあったが、あの時の無知な自分を叱責してやりたい気分だ。

 ただ惜しむらくは、これが魔族の女性同士だったならもっと知的好奇心が満たされていたであろうに、実に残念である。

(──って、いかんいかん! なにを見入っているんだオレは……!)

 ついうっかり任務中だということを忘れて目を奪われてしまった自分自身に対し、叱咤の意味を込めてハイドは軽く頬を叩いた。

 こんなところでぼーっと突っ立っていてどうする。今はまだ大丈夫だが、二人が目を覚まさない内に始末せねば……!

「うふふ~。これ、カバーを取った方がもっと感触がいい~」

「あぁんっ! タコの足が、あたしの服の中にぃ……!」

 そうこうしている間に、ユーリの魔の手がとうとう服の中にまで侵入したようで、うねうねと指が胸をいじくる度に、ファイがこれまでにないくらいの切なげな嬌声を上げていた。

 依然として繰り広げられている淫靡な光景になんとも言えない気分になりつつも、ハイドはそっとユーリのすぐそばに屈み、その頭を片手で押さえ付けた。今度こそちゃんと首を刺すためである。

 押さえ付け過ぎると痛みで覚醒しかねないので、ある程度加減しないといけないが、ユーリも横を向いたまま比較的じっとしてくれているので──その間も、しっかりファイにセクハラを働いてはいるが──どうにか刺せそうだ。

(今度こそお終いだ。あばよ、ゴミ虫め)

 そう胸中で別れを告げて、ナイフを振りかぶった直後──

「──んんっ!」

「うおうっ!?」

 なんの前触れもなく突如片腕を振り上げてきたユーリに、ハイドは思わず驚愕の声を上げて仰け反った。

 本能的に危険を察知したのか、それとも単に寝返りを打っただけなのか、ともあれどうにか直撃を避けることはできたが、完全に回避できたわけでもなく、振り上げたユーリの腕がハイドの手に接触してしまい、そのままナイフを弾かれてしまった。

「っ! このやろう……!」

 憎々しく悪態を吐きつつ、すぐさまナイフを拾いに行くハイド。

 弾かれはしたものの、そこまで遠くに飛ばされていなかったようで、割と近い場所にナイフは落ちていた。

 もしもこれが林の奥まで飛ばされていたら、危うく暗闇の中で探し回るところだった。まさに不幸中の幸いである。

(くそっ! また邪魔されるとは! 一体どうなってんだ、あいつの寝相は……!)

 実は元から起きていて、こっちをからかっているだけではないのかと疑いたくなりつつも、ハイドはナイフを拾って再度ユーリの方へ──

(って、あいつまた移動してやがる!?)

 振り返ってみると、そこにはいつの間にやらアリアのところへと移動していたユーリが、呑気に寝息を立てていた。

 ほんの少し背を向けただけなのに、一体どうやってあそこまで移動したのだろうか。ファイからアリアのいるところまで、十メートル近くは離れていたはずなのだが。

 もしかして、瞬間移動とか?

「バカバカしい。そんなオレですら見たことも聞いたこともない魔法、現実に存在してたまるか」

 なんともくだらない考えに自分でツッコミを入れつつ、ハイドはナイフを握り直してユーリの元へと赴く。

 不覚にもこれで三度目となってしまうが、あまり時間はかけられないし、今度こそ確実に仕留めておきたい。

 とはいえ、一体どうしたものか。前みたいに頭を押さえ付けただけでは、また反撃を喰らいかねない。しかも下手をすれば、ナイフの刃が自分に向かう危険性すらあるわけで、そうなれば猛毒が全身を巡って即死亡だ。

 となると、このナイフはあまり使わない方がいいかもしれない。

 自分で仕込んだ毒で死んでしまうとか、冗談にもならないし。

(くそっ。当初の予定では、これで一突きするだけで簡単に始末できたはずなのに、どうしてこうなった……)

 心中で悪態を吐きつつ、ハイドはナイフを懐へと仕舞って、ユーリの元へと歩みながら黙考する。

 ナイフがダメとなると、ここはやはり魔法だろうか。

 しかし一口に魔法と言っても色々あるし、当然ながら派手に音が鳴るようなものは使えない。一応音もなく相手を殺す魔法もあるが、いかんせん即死させる類のものはないので、こっちも論外だ。

 なにかもっと良い方法……音もなく、かつユーリが目覚める前に手早く屠れる手段があればいいのだが……。

「……にしても、今日は少し冷えるな」

 時折吹く冷たい微風に、ハイドは両腕を抱いて身震いした。

 夕方までは比較的温かったのだが、夜気が濃くなるにつれて次第に気温も下がってきた。

 この地域は少し寒暖差が激しいとは聞いていたが、こんなことならもうちょっと防寒具を購入しておくべきだったかもしれない。

(いや、待てよ?)

 と、ユーリの寝顔が見下ろせる地点まで来たところで、ハイドの頭の中にある考えが浮かんだ。

(そうか。一気に殺すことはできなくても、こいつの全身を氷で覆うなりして体温を奪ってしまえば……)

 人間は寒冷地などで体温が二十七度以下になると凍死すると言われている。

 ゆえに、魔法でユーリを氷漬けにさせてしまえば──なおかつ全身を覆って声も出せないようにしてしまえば、ファイやアリアに気付かれることもなく殺すことができるのではないだろうか。

 だがしかし、一つだけ懸念がある。

 それは、ユーリの怪力だ。

 こんな細腕で数十メートル離れた先から狙い通りに槍を投擲してみせた彼女ならば、氷漬けにされてもどうにかしてしまいそうな気がする。

 もしそうなれば、だれが氷漬けにしたかなんて一目瞭然だろうし、いくらお人好しのユーリとはいえ、さすがに犯人であるハイドを見逃してはくれないだろう。

(とはいえ、今のところこれくらいしか妙案は思い付かないし、下手に近寄れないともなると、この方法が一番な気がするな……)

 ならばもう、ここは腹を決めて、ユーリを葬ることだけに集中するしか他あるまい。

 となれば、さっそく氷を生成して──

「えへ~。今度はおっきいマシュマロだ~。美味しそう~」

「はうん! い、いけませんわユーリさんっ。そんな大胆な……!」

 と。

 手のひらに魔力を込めようとしたところで、ハイドはあやうくずっこけそうになった。

 というのも、先ほどまで大人しく寝ていたはずのユーリが、そのすぐ横で眠っていたアリアにまたしてもセクハラを働いていたのである。

 それはもう、アリアのたわわに実った乳房を後ろから鷲掴みにして。

「ん~。でもこのマシュマロ、ちょっと固いかも? いっぱい揉めば、少しは柔らかくなって食べやすくなるかな~?」

「あんっ! ユーリさん、そんな激しい……! わたくし、このままだと絶頂してしまいますわ……! でも、もっと力強く! 情熱的にお揉みになってくださいまし……!」

「痴女か!」

 いけない。ついうっかり声に出して突っ込んでしまった。

 だが幸いにも、今の声で起きた者はいなかったようで、周囲を確認するもだれ一人として目を覚ます様子は見られなかった。

 おかげで助かりはしたが、しかしこいつら、どんだけ危機管理能力が低いのだろう。よく今まで無事に生きてこられたものである。

 それはそうと、またもやこうして百合シーンを間近で見られようとは思ってもみなかった。

 しかも今回はアリアの豊満な胸が揉みしだかれるという、なんとも淫靡な光景──やはり魔族でないのが惜しいところではあるが、とはいえ、ファイの時とは段違いに迫力があって見応えがあった。

 やはり女はナイスバディに限る。世の中には貧乳を好む珍妙な輩もいるようだが、巨乳派のハイドにしてみれば邪道もいいところだ。

 あんな寸胴のどこがいいと言うのか。出ているところは出て、引き締まっているところはちゃんと引き締まっている方が断然良いではないか。グラマラス最高!

(──って、バカかオレ! 今はこんなことを考えている場合じゃないだろ!)

 ハッと我に返ったと同時に、頭を小突いて邪念を散らすハイド。

 恥ずかしい話だが、眼前の光景に熱中するあまり、思考がおかしな方向へと振り切ってしまうところだった。煩悩に正直な自分が憎い。

 とはいえハイドもまだまだ性に真っ盛りな男の子──こういったものに心を奪われてしまうのは、ある程度仕方のないことではある。

 しかしながら、あくまでも今は任務中──魔王様以外に優先するものなんて、この世に存在しない。そこをきちんとわきまえねば、四天王の一人として立つ瀬がない。

 ゆえに、魔王様に仇なす者たちを、ここで必ず仕留めておかなければならないのだ!

「あ~。こっちには美味しそうな飴がある~。ペロペロペロ~」

「あはぁんっ! 耳の穴を攻めてくるなんて、なんてテクニシャンなんですの……! いいですわユーリさん……。そのまま、あたくしのグチョグチョに濡れた下の穴も弄んでくださいまし……っ!」

 ……早く仕留めないといけないわけなのだが、なんだろう、このなんとも言えない脱力感は。

 二人の淫らなやり取りを見ているだけで、なんだか覚悟が鈍るというか、やる気が削がれていく。

 しかもアリアが聖職者とは思えないほどの反応を見せてくるものだから、ついつい視線がそっちに行ってしまうというか、どうしても目が離せない。

 いや、決してこのままずっと眺めていたいとか、そういったわけでは全然まったく微塵たりともなくて。

 というかこいつもこいつで、なぜユーリにここまでされて全然目が覚めないのだろう。ファイの時とよりも過激なセクハラを受けているはずなのに。

 これは、あれか。好きな人ならば、どれだけ凌辱されようとも構わないということなのだろうか。

 なんだか満ち足りた表情すら浮かべているし、アリアにしてみれば悪夢どころか最高の淫夢でしかないのかもしれない。もう聖職者というより、生殖者と言った有り様である。

 とまれかくまれ、夢に没頭してくれている今こそ絶好のチャンス。今の内にユーリを氷漬けにしてしまおう。

 と、そこまで考えて魔法を発動しようとしたところで、ハイドはピタッと動きを止めた。

(ちょっと待てよ? どうせならこのまま二人同時に氷漬けにした方がよくないか?)

 ユーリ一人を始末することに固執していたが、どうせここまで密着してくれているのなら、アリアもろとも氷漬けにした方がいいような気がする。

 いやむしろ断然その方が効率もいい。二人まとめて氷漬けにするとなると、その分消費する魔力の量も増えてしまうが、なに、大した手間ではない。

 いっそ一人残されたファイの後始末も楽になるし、一石二鳥だ。

(かははっ。仲間のそばに行ってしまったのが運の尽き──そのまま永遠に夢を見続けるがいい!)

 心の内で哄笑しながら、ハイドは両手に集めた氷の粒子を放とうして──


「んん~! この置物、邪魔っ!」

「はぶんっ!?」


 突然ユーリに足払いを受けて、ハイドは踏ん張りも利かずにそのまま尻餅を付いてしまった。

 悲劇はそれだけに終わらない。

 体勢を崩してしまったと同時に、うっかり真上の方に放出してしまった氷魔法が、さながら屋根に溜まった雪が滑り落ちるようにハイドの上半身に降り注いできたのだ。

「待て待て待て! やめろこっちに来んな止まれあぎゃあああああっ!」

 ハイドの叫びも虚しく、自分の魔法で腹部から胸にかけて氷漬けになってしまったハイド。

 災難は続くもので、地面と一緒に氷漬けにされてしまったせいで磔状態になってしまい、身動きが取れなくなってしまった。

「冷たっ!? 寒っ!? ま、魔法! 火! 火ぃ!」

 ガクガクと体を震わせながら、どうにか無事に済んだ両腕を使って、ハイドはすぐさま火の魔法で氷を溶かす作業に入る。

 しかし二人分の魔力を込めて生成した氷はちょっとやそっとでは溶けず、かと言ってあまり火力を上げるとそばの草木に燃え移る危険もあり、時間をかけてじっくり溶かすしか方法はなさそうだった。

(ああくそっ。こんなことなら欲張らずに一人分の魔力にしておくんだった! つーか、どんだけ寝相が悪いんだこのやろうは……!)

 ユーリを一睨みしたあとで、必死に氷を溶かそうとするハイド。

 今度こそ三度目の正直でユーリを始末する算段でいたのに、よもや二度あることは三度あるの方になってしまうとは、完全に予想外だ。

 ここまで妨害されてしまっては、もはや運の巡りが悪いというか、なにをやっても上手くいかないような気すらしてきた。

 もういっそ、ユーリの寝相の悪さが神懸かり過ぎているせいで、そばにすら近寄りたくない気分である。

(今日はもう、大人しくしていた方が無難かもしれないな。毒殺に失敗するわ、寝込みを襲うのも失敗するわ、挙句の果てに氷漬けになるわでさんざんな目に遭ったし。もう心身ともに疲れ果てた……)

 と。

 そんな風に意気消沈としつつ、氷を溶かす作業に専念していた、その時だった。

 ──ぞくり、と。

 虫が背中を這ってくるような嫌な予感が、突如として襲ってきた。

(な、なんだ? なんだ今の感触は……!)

 氷のせいではない悪寒に思わず身震いしつつ、その正体を探らんと辺りを見回す。

 悪寒の正体は意外と近く──すぐ足元にあった。

 先ほどまでアリアとくっ付いていたはずのユーリが、さながらゾンビのように匍匐前進しながらハイドの方へとにじり寄っていたのだ。

「こいつ、まさか目を覚まして……!?」

 いや、よく見ると違う。

 その証拠に、ユーリは依然として瞼を閉じたままの上、幼児のように鼻提灯を膨らませている。眠っているのは明らかだ。

 となると、これまでの経緯から考察するに、またなにかしら寝ぼけているのだろう。

 一体、今度はどんな夢を見て──

「あ~。私の大好きなおいなりさんだ~。すごく美味しそう~」

 まずい。具体的にどういう風にまずいかは口で表現できないし、オイナリサンなるものがなんなのかすらわからないが、とにもかくにも非常にまずい気がしてきた。

 早く逃げないと大切なものが──具体的に言うとハイドのムスコさんがとんでもない目に遭ってしまうような、そんな嫌な予感が。

 そうでなくとも、これまでユーリは仲間に対してとんでもないセクハラを働いている。ここはさっさと逃げるのに越したことはない。

 が、そこまでわかっていても、ハイドには今すぐには逃げられない事情があった。

「ああもうっ! 早く溶けてくれ! あいつが来ちまう!」

 徐々ににじり寄ってくるユーリを視界に入れつつ、ようやく腹部だけとなった分厚い氷を懸命に溶かそうとするハイド。

 いっそ矛先を変えて、ユーリに魔法をぶっ放してやろうか?

 いやダメだ。それでは一時的にユーリを退かせることはできても、目を覚まされた時に状況を説明するのが非常に厄介だ。

 この場で魔法を使えるのはハイドただ一人。

 それでユーリ目掛けて魔法を放とうものなら、自分が犯人ですと名乗り出るのも同義だ。

 もしそうなれば、身動きが取れないのをいいことに、ユーリ達から袋叩きにされるのは確実。こんな体勢では満足に反撃もできやしない。

 だからと言って、このままではユーリになにをされるかわからないし、まさに万事休すと言った状況だった。

 仮にできることがあるとすれば、一刻も早くこの氷を溶かすことくらいだ。

(溶かすと言っても、今のペースだと先にこいつが辿り着いてしまう! なにか、なにかもっと良い方法はないのか……!)

 その時、とある考えが天啓のごとく舞い降りた。

 動けないのなら、相手を進めないようにすればいいのではないか、と。

 つまり行く手に壁などを作って進路を阻みさえすれば、これ以上ユーリが肉薄する心配はないという戦法である。

(さすがはオレ! さっそく魔法で壁を作って──)

 と。

 自分の指先に意識を集中させて、一旦ユーリを視界から外してしまった、その一瞬の出来事だった。


「おいなりさ~ん。私のおいなりさ~ん♪」

「なっ!? こいつ、いつの間にオレの後ろに……!?」


 またもや瞬間移動としか思えない早業で背後へと回り込んでいたユーリに、ぎょっと双眸を剥いて後ろを振り向くハイド。

 ほんの一瞬目を離しただけなのに、この異様な俊敏さ。もはや一種の拳法のように思えてきた。

 酔拳ならぬ睡拳、みたいな。

(って、ダジャレ言ってる場合か! 早くこいつをなんとかしないと!)

 だがこうなってしまった以上、もう壁を生成して進行を止めることは不可能。

 それ以外の方法でユーリを遠ざけないと、色々な意味でやばい。

 とはいえ、敵はすでに間合いどころか、ちょっと腕を伸ばしただけで簡単に触れられるくらいの距離まで迫ってしまっている。

 これでは、下手に魔法を打てばこっちまで害が及びそうだし、となると、直接この手で突き飛ばす以外に方法はない。

 しかし、果たして上手くいくだろうか。いくら眠っている状態とはいえ、相手は武道に覚えのある人間──それもなかなかの熟練者であると見て間違いない。

 そんな相手に、魔法以外はまるで素人のハイドが、純粋な力勝負で敵うものなのだろうか?

 なんだか返り討ちに遭いそうで、正直あまり気が進まない。

「おいなりさ~ん♪」

「うげっ! ちょ、オレにさわんな……!」

 と、あれこれ逡巡している間に、とうとうユーリがハイドの肩を掴んで詰め寄ってきた。

 しかも片方の手だけ明らかにハイドのムスコさん(あの時の嫌な予感は当たっていたわけだ)を狙っており、なりふり構っている場合ではなかった。

 そんなわけでハイドも負けじと乱暴に肩を動かして抵抗を試みるも、まるで退く気配はない。

 むしろ対抗心を燃やすかのように、さらに勢いを増してますます密着してきた。

 ハイドの本能が警鐘を鳴らす。

 このままでは本当に取り返しの付かない事態になってしまう、と。

(ちきしょう! こうなりゃ一か八か、やるだけやってみるしかねえ!)

 そう意を決したハイドは、すぐさま魔法を中断し、ちょうど後転を始めるような姿勢で肩越しに両腕を思いっきり伸ばした。


 ふにっ。


 と。

 ユーリを全力で突き飛ばそうとしたその直後、突然両手に柔らかい感触が伝わってきた。

 それは小振りながらも確かな丸みがあり、揉めば気持ちのいい感触がもにゅもにゅと手に跳ね返ってくる。

 さながら、ゴムボールのように。

(も、もしかして、これは……!)

 非常に嫌な予感がしつつも、ハイドはおそるおそる肩を反らして真後ろを振り向いた。


 お っ ぱ い


 そこには、紛れもないおっぱいが──若干慎ましいが、しっかりと弾力のある胸が、ハイドの手のひらの中に収まっていた。

「       」

 ある程度予想していたとはいえ、目の前の光景に声もなく驚愕するハイド。

 ぶっちゃけなにが起きたのかを理解するまで、少しばかりの時間を要した。

(な、なんでオレが勇者の胸を!? なんか思っていたより柔らかかった! って、感想を述べている場合じゃない! 早く手を離せよオレ!)

 改めて状況を認識したハイドは、衝撃のあまり未だユーリの胸に触れていた手を慌てて引っ込め、感覚を思い出すように目の前で両指をわきわきと動かした。

 やばい。未だに胸を揉んだ時の感触が残っている。

 しかも就寝前で薄着だったせいもあってか、しっかりと胸の形を感じ取ることができてしまった。

 生涯初めてとなる、女性の乳房を。

 おっぱいを。

(バカな……このオレが興奮を覚えているだと? ありえん。相手はたかが人間だぞ!?)

 だがどれだけ否定しようとも、この胸の高鳴りは、正真正銘間違いようなく性的興奮によるものだった。

 自分ではわからないが、きっと鏡を見れば、顔も熟れたトマトのように紅潮していることだろう。

 それくらい、全身が発火するように熱かった。

(くっ。人間の胸を揉んだくらいでここまで動揺してしまうなんて。情けないにもほどがあるぞ……!)

 だが、認めるしかない。

 魅力で言うなら魔族よりも圧倒的に劣るはずの人間の女に──しかも標準サイズよりやや小さめの胸に、欲情してしまったことを。

 おそらく初めての経験だったせいもあり、相乗効果で余計興奮してしまったのだろうが、とはいえ胸を揉んだくらいでこんなにも心を乱されてしまうとは。突発的だったとはいえ、バカ正直に狼狽えてしまった自分がこの上なく恥ずかしい。知将としてあるまじき姿である。

 いや、ハイドも曲がりなりにも男なわけで、そういったシチュエーションに常日頃から夢を膨らませていたりもするが、まさかそれがこんな形で叶うことになろうとは思ってもみなかった。

 それも、敵であるはずの勇者の胸で。

 しかも、けっこう鷲掴みにして。

(いやちょっと待て。鷲掴みにしたってことは、もちろん向こうだって感覚は残っているはずだよな……?)

 今の今まで羞恥に悶えるばかりで考えもしなかったが、よくよく冷静になってみると、かなりまずい状況ではないだろうか。

 不慮の事故だったわけだし、あっちにも非があったとはいえ、ユーリの胸を揉んでしまったのは揺るぎようのない事実。

 そこまで思考して、今さらながら背筋を凍らすハイドではあったが、数分経ったはずなのに未だユーリから制裁を加えられる気配はなかった。

 おかしい。それこそ殴られても不思議ではないくらいに、鉄拳どころか罵倒すら飛んでこないなんて。

果たして、これいかに。

(ひょっとして、まだ眠ってくれているのか? だったらまだなんとかなるぞ!)

 微かな希望を胸に、ハイドは再度後ろをゆっくり振り向き──


「むむむ、胸……! 触って……!」


 ばっちり起きてましたあああああああああ!

 どうやら今までずっと恥辱に震えていただけのようで、ユーリは見るからに顔面を真っ赤にさせながら、ユーリは胸を押さえて憤怒していた。

 どうしよう。ただでさえ逃げられない状態なのに、もうフルボッコにされる未来しか見えてこない。

 さようなら、希望。

 そしてこんにちは、絶望。

(待て待て。諦めるのはまだ早い。わざとじゃないんだし、ちゃんと話せば向こうもわかってくれるはず!)

 そうだ。身から出た錆とはいえ、あくまでもこちらは自分の身を守ろうとしただけに過ぎない。言わば正当防衛だ。

 そこをきちんと弁明すれば、なんとか思い留まってくれるに違いない!

「お、落ち着いてください! あれは単なる事故なんです! 決してわざとではありません!」

「で、でも鷲掴みにしてたもん! しかも一度だけじゃなくて、いっぱい私の胸を揉んでたよね!?」

「あ、はい。めったにない貴重な体験だったので、つい」

 いっけね☆ うっかり口が滑べちゃった☆

 なんて、内心テヘペロしている場合か! 

 完全に自業自得だが、これは本格的にまずい事態になってしまった!

「ああいえ違うんです! 今のは言葉の綾と言いますか、決して感触を確かめていたわけでは……!」

 慌てて訂正するハイドではあったが、時すでに遅し。

 ハイドが言い訳を口にする前より早く、ユーリは頭上高く腕を振り上げていた。

「ハイドくんの、スケベええええええええええええっ!」

「げぶらっ!?」

 ユーリの凄まじいビンタがハイドの頬に見事炸裂し、小気味良い音が夜空に響き渡った。

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