図書館に咲いた一輪の花

こんかぜ

本編

 その日は、ひどく蒸し暑い夏の夜だった。


 学校に忘れ物をした私は、古びた校門からこっそり敷地内に侵入して、誰もいないだだっ広いグラウンドを横切る。


 耳をすませば野球部の暑苦しいかけ声が聞こえてきそうで、額ににじむ汗の量が少しだけ増えたような気がした。


 野球と言えば、そろそろ甲子園の時期なのだが、果たしてウチの野球部は大丈夫なのだろうか。


 また去年みたいに初戦敗退で大量に砂を持ち帰ってきたりしないだろうか。そろそろ小さな砂場でも作れそうなくらい甲子園の砂が集まってきたところなんだけれど。


 ……まあ、別に文化部に所属しているわたしには何の関係もないことだから、またレジ袋いっぱいの砂を持ち帰ってきたところで憐憫の情なんて湧かないけどさ。


 そのまま本校舎の横を歩いていくと、木や雑草がうっそうと生い茂るジャングルの中にポツンとたたずむ大きな館が目に入る。

 あれが我が校における最大の誇りでもある大図書館だ。県立高校にしてはかなり珍しい施設で、蔵書数は驚きの10万冊以上。


 ……なんだけど、そもそも現代っ子が集うこの高校において、わざわざ埃くさい図書館で埃くさい本を借りる物好きな生徒がいるはずもなく、今年はもう8月だというのに、これまで貸し出された本の総数は驚異の5冊。


 さっきは我が校における最大の誇りとか大見得切ったけど、たぶん「我が校における最大の埃」の方が立場的には合ってると思う。掃いて捨てられちゃいそうだもんね。この図書館。


「やっぱ、開いてたか」


 金属製の禿げたドアノブに手をかけると、魔法でもかけたみたいにあっさりと開く。さすがは戦時中からあったとされる大図書館だ。セキュリティの格が違う。


 私がここにやってきた理由はと言えば、前述したように忘れ物を取りに来たからだ。クリーム色の可愛いペンケース。家に帰ってから忘れたことに気づいて、取りに帰るのが面倒くさくてなんやかんやで放置してしまっていた。

 

 ……が、さすがに学生として筆箱がないといろいろ困ってしまうことがあるから、こうやって夏休み中の貴重な夜間を使って取りに来たというわけだ。


 図書館の中に足を踏み入れると、真っ先にツンとした酸っぱい匂いが鼻を突いた。古すぎて腐りかけた本の匂いだ。


 いちおう図書委員である私が毎日掃除しているのだけど、この悪臭だけは窓を全開にして換気してもなかなか取ることはできない。だからもう半ばあきらめている。

 

 鼻をつまみながらカウンターのあたりを探してみる。たしか夏休み前に一回だけ委員の仕事でここに座ったから、たぶんその時に置き忘れたのだと思う。


 念入りに探すと、多種多様なしおりが入っている箱の近くにそっと筆箱が置かれていた。うん。クリーム色の見た目と、憎たらしいカエルのキーホルダーがついている。完全に私のだ。


 長いこと図書館に放置していたから、匂いとか移ってしまっていないだろうか。これから毎日学校に持ってくるたびに古臭い匂いと格闘するのはまっぴらごめんなのだが……。


「ま、及第点か」


 匂いを嗅いでみたけれど、そこまでひどくはなかった。私は持ってきたバッグの中に筆箱を入れると、踵を返して図書館を後にしようとする。


 悪臭の方に気を取られていたせいであんまり感じなかったけれど、そもそもここは深夜の古びた図書館だ。なにか霊的な存在とバッタリ出くわしてもおかしくない。

 一か月くらい前に友達に無理やり見せられたホラー映画が脳内でフラッシュバックする。セットも衣装も演技もなんか安っぽいB級映画だったけど、びっくり要素があるせいで変に頭に残ってしまっている。


 普通の幽霊ってあんな風に脅かしたりしないもんだよね。もっとこう、気づいたらそこにいる、みたいなさ。


 向こうだって別に人間を驚かすことを生きがいとしているわけではなさそうだし、もし出てくるなら気さくに話しかけでもしてくれればいいんだけど。

 そしたらこっちだって陽気に「ハローっ!」って返したりできるんだけど。


「……あれ?」


 ドアノブに手をかけてひねろうとする。だけど接着剤で固めたみたいに全然回らない。さっきはすんなり開いたのに、どうしてこんな急に……。


「きゃあっ!?」


 ふと、突風が吹いて窓をガタガタ揺らす。ただでさえ古い建物だから、こういう自然現象にはめっぽう弱い。ともすれば外れてしまいそうだ。


 ……やばい。さっきまでホラー映画のことを考えていたからだろうか。そんなことを考えていたから霊を呼び寄せてしまったのだろうか。


 ぶっちゃけ私はそういうのが苦手だ。だから本当は筆箱を取りに来るのだって昼間の方がよかったんだけど、昼間も校門は閉まってるし、なんなら侵入しようとしたときに明るいからバレやすい。


 消去法で夜間に取りに来るしかなかったんだけど、やっぱりというか案の定というか、私が一番恐れていた事態に遭遇することとなってしまった。


「くっ、うーん、開かない……!」


 がむしゃらに引っ張ってみるけど、まったくピクリとも動かない。最悪ドアをぶっ壊してでも……と考えたが、ここでお化けにびくびく震えるよりも、後になって学校側から請求書が届く方がよっぽど怖かったから、その考えはすぐに捨てた。


 そんなおびえる私に、さらに追い打ちをかけるように雷が落ちた。ぴしゃーん、と鋭い音を立てて本校舎の避雷針に落ちるのが窓越しに見えた。


 それと同時に――。


「……あの」


「ひゃああああああぁぁぁぁっ!?」


 後ろからふいに声をかけられ、情けない声をあげながらドアに抱き着く私。おそるおそる視線を合わせると、そこに立っていたのは私と同じくらいの年齢の女の子だった。


 つややかな黒髪はロングに伸ばして、白磁のような肌にはシミ一つない。顔のパーツも整っているおかげで客観的な美少女としては100点満点の風貌だった。


「あの。佐城綾香さんですよね?」


「え、えっ、えっ? あ、うん、はい」


 急に名前を呼ばれてビビる。とっさに受け答えをしたけれど、私の瞳はロボットみたいに彼女の一挙手一投足を見つめ続ける。


 すると、少女はにこやかに笑いながら、胸に抱えている本を差し出してきた。表紙には「羅生門」と書かれている。これがどうしたのだろうか。


「この本、借りてもいいですか?」


「……は、はい?」


 少女はカウンターの上に置いてあるバーコードリーダーとパソコンを指さしながら、困ったような顔で告げる。


「あの、わたし機械音痴で、あれの操作方法が分からなかったんです」


「あ、ああ。そうだったの……っていうか!」


 一瞬彼女と普通の会話を繰り広げそうになった自分を思い留まらせる。そうだよ。よくよく考えたら、いやよくよく考えなくてもこの状況はおかしい。奇天烈極まりないよ。


 なんで女子生徒が夜の図書館にいるの? そしてどうして私の名前を知ってるの? あとなんで現代っ子のくせに羅生門なんか借りようとするの?

 いまはスマホとかで調べれば羅生門なんて名作は読み放題なんだから、わざわざ古臭い媒体で読まなくてもいいだろうに……。


「あの、えと……綾香さん?」


「えっ? あ、そ、そうだ。本、借りたいんだよね」


 でも、すべてがイレギュラーな状況すぎて、一周まわってどうでもよくなっていた私であった。


「――はいっ!」


 心配そうな顔から一転して満面の笑みを浮かべる女の子。なぜか同じ性別の私ですらちょっとクラっと来た。なにこの子。すごい可愛い。


「って言っても、ぶっちゃけ私もよく判らないんだよね……パソコン」


「へぇ、これって『ぱそこん』って言うんですか」


「……え? もしかしてパソコン知らないの?」


「噂には聞いたことがあったんですけど、こんなに間近で見るのは初めてです」


「噂って……電気屋にいけばこんなのいくらでもあると思うんだけど」


「電気屋……? 電気を売ってるお店ですか?」


「はい?」


 少女は心底不思議そうに首をこてん、とかしげている。もしかしてこの子、どこかしらの貴族のお嬢様で蝶よ花よと育てられた箱入り娘なのだろうか。

 いまどきパソコンと電気屋を知らないのなんて、私のひいおばあちゃんくらいだと思っていた。いや、ひいおばあちゃんですらパソコンという言葉は知ってたけど。


「え、えっと……これがパソコン。パーソナルコンピューター。いろいろできる便利な機械で、これの場合はリーダーとつなげることでバーコードが読めるようになる」


 と、なんとなく説明したところで、先ほどの彼女のセリフでちょっと引っかかるところがあったので聞いてみる。


「あれ、でもあなた、最初に私に話しかけたとき、これでバーコードを読み取れることは知ってたみたいだけど」


 聞くと、少女は羅生門を胸に抱いて何とも難しそうな顔をする。


「私の知ってる図書館はカウンターに人が立ってて、その人が貸し出し作業をしてたんですけど……どうやら機械にすべてやってもらう時代になったのか、と思って」


「う、うーん……まあ機械にすべてやってもらうっていうか、結局手作業なのは変わりないけど」


「そうなんですか?」


「このバーコードリーダーで一個ずつ読み取らないといけないし」


「へーっ! これを読み取るだけでいいんですね! すごいです!」


「……そ、そう?」


 別に自分がこれを開発したわけではないけれど、ちょっとだけ誇らしい気持ちになる。なんだか彼女と話していると、これまでの常識が非常識に思えてきて調子が狂ってしまう。


 ……うーん。パソコンと電気屋を知らなくて、さらに最近の図書館の貸し出しシステムさえ知らないと来たか。この古びた図書館ですら最近になってデジタル化が進んできたというのに。


「あ、それで……この本なんですけど」


「あっ、忘れてた。ちょっと貸して」


「どうぞ」


 彼女から本を受け取りつつ、パソコンを立ち上げる。パスワードは司書の先生がカウンターに貼っておいてくれたから迷うことはなかった。


「えーっと、こっからどうするんだっけ……」


 デスクトップ上でマウスカーソルを彷徨わせていると、私のとなりに少女が割って入ってきた。ふんわりといい香りが漂う。


「わ、すごい。小さな箱の中にたくさんマークがあります」


 思えば、この礼儀正しい喋り方から考えると、やっぱり彼女はどこかのお金持ちの娘とかなのだろうか。そんなキャラの強い子はウチの高校にいなかったような気がするんだけど。


「えっと、このマークの中に本を貸し出せるアプリケーションがあるんだけど」


「あぷりけーしょん……!」


 彼女は未知の言葉を聞いて目を輝かせていた。可愛い。


「……ん、これかな?」


 適当なアイコンをダブルクリックする。と、見覚えのある画面が出てきた。よかった。どうやら当たりを引いたらしい。


「この状態で、本にリーダーをかざして……」


 慣れない手つきで作業を進める。すると、ピッという短い音が鳴って貸し出し記録が更新された。 

 だけど、ここで私は重要なことに気づく。


「……あ、そうだ忘れてた。本かざす前に生徒のラベル読み込まないと」


 そう。このままだと本は正式に貸し出されたことにはならない。何年何組の誰が借りたのか、という情報も登録する必要があるのだ。

 そのために全校生徒にはそれぞれのバーコードが配布されているのだが……年間の貸し出し冊数がアレな現状を鑑みると、もう要らないんじゃないかなって思う。


「えっと、アレ持ってる? 生徒に配られるバーコード」


 指で長方形を描いて意思疎通を試みる。が、やっぱり彼女はぽかんとした顔で私のことを見つめていた。

 ……だよね。パソコンも電気屋も知らない子がバーコードを知っているはずがないよね。失礼しました。


「あの、あれ。白と黒の縦線がわーって入ってるやつ」


 我ながら恐ろしい語彙力だが、仕方ない。もともとバーコードを違う表現方法で表せという方が鬼畜だ。


「う、うーん、よく判らないです。たぶん持ってないと思います」


「そっかぁ……となると、貸し出すのは難しいなぁ」


「え、ええっ……!」


 一転、泣きそうな顔になる少女。なんだかめちゃくちゃ申し訳ない気分になったので、バッグから私の生徒手帳を取り出すと、私名義で本を借りることにした。

 本当はあんまりやっちゃいけないことなんだけど、なぜか私は彼女の顔が歪んでしまうのを恐れていた。彼女の泣きそうな顔を見たくはなかった。


「はい。これ。とりあえず私が借りたってことにしといたから。2週間以内に図書館に持ってきてくれればいいよ」


「あ、ありがとうございますっ……!」


 なんか、すごい表情がコロコロ変わる子だなあ。まるで小動物を世話しているような気分になってくる。

 私から羅生門を受け取った彼女は、それを大切な宝物のように胸に抱きかかえる。そこまでして読みたかったのだろうか。


「――あ。そういえばあなたの名前を知っておきながら、自分の名前を教えていませんでしたね。大変失礼しました」


 ぺこり、と頭を下げてくる。


「私の名前は雪兎明美です。高校1年生です」


「代わった苗字だね」


「よく言われます」


 そう言ってふふっ、と笑みをこぼす明美さん。なんかいちいち挙動がお嬢様っぽくて、彼女の周りにだけ薔薇が咲いているように思えてくる。

 明美さんは改めて胸に抱いている本の表紙をうっとりと眺めると、そのまま近くの椅子に座って本を読み始めた。

 ……うん、そろそろずっと気になっていたことについて問いただしてもいい頃合いかもしれない。


「……えっと、つかぬ事をうかがうんですが」


「? はい、なんでしょうか」


「明美さんって、なんでここにいるんですか?」


 私が問うと、彼女は一瞬哀しそうな表情をしたのち、ぱあっと顔を輝かせた。なんだか無理して取り繕おうとしているように見えたのは気のせいだろうか。

 明美さんのつややかな唇から「それは……」という声が漏れる。


「本が、大好きだからです」


 やがて、はっきりと答える。


「文字を読むのが好きで、物語に触れるのが好きで、この本の匂いが好きだから、ここにいるんです」


「匂い……」


 改めて図書館内の空気を吸い込んでみる。古臭い本の匂い。どこからか水漏れして床の木が腐っているような匂い。そして、かすかに香る爽やかで優しい匂い。これはきっと前方にいる明美さんのシャンプーの香りだろうか。


 さっきまでは嫌な感想した抱かなかったここの匂いが、彼女が加わったことで少しだけ耐えられるようになった。


「あと、純粋にこの本が好きだからです」


 そう言って明美さんは表紙をこちらに見せてきた。さっきから何度も目にしている羅生門の表紙だ。有名な文庫レーベルから出版されている飾りっ気のないカバー。

 最近流行っているライトノベルなんかとは正反対のデザインだ。


「これって、最後は下人が老婆の服を奪って逃げちゃうじゃないですか」


「ああ、そういえばそんな感じの話だったっけ」


「それで、老婆は老婆で過去に罪を犯した人の髪の毛を抜いてかつらを作ろうとしてるんです」


「いま思うとちょっとグロいよね」


「……わたし、すっごくその二人に共感できるんです」


「……ん? そうなの?」


「はい。二人とも生きるのに必死で、かつらを作ったり服を奪ったりして、なんとかして生き永らえようとしてるじゃないですか」


「うん」


「それが、いまの私の状況に、似てて」


「似てる……?」


「人間、生きるためには悪に堕ちなきゃいけない時もある。わかってはいるんですけど、なかなか悪になり切れなくて。そのせいで余計に自分の首を絞めて……」


 言って、少し目を伏せる明美さん。何やら言いたくないことがあるようだ。これ以上の話はかえって彼女を苦しめることになるかもしれない。

 そう判断した私は咳ばらいをして彼女のとなりに座った。古びた机の上に置かれている弱々しい手を握ると、努めて優しい声で語りかける。


「……私ね。はじめは本が好きで図書委員に入ったの」


 私が話し始めると、明美さんはまあるい瞳で私のことを捉える。黒目が大きくて、本当にかわいらしい顔をしている。


「でも、学年が上がっていくにつれて忙しくなって、ぜんぜん本を読む時間がなくなって……そのぶん友達とどっか出かけたり恋を探して合コンとか行くようになった」


「ごうこん……?」


「男子グループと女子グループでどっかお店入ってご飯食べたりするの。それで運がよかったらそのまま男子と付き合えちゃったり」


「ふ、ふ、不純異性交遊ですよ……!」


「あ、あはは。一緒に合コンに行った友達はともかく、私はそんな度胸なかったよ。……それでね」


 少し頬を赤らめた彼女の顔がとても可愛いことになっていたけど、話が進まないから割愛させていただく。


「本を読むことの楽しさとか、感動する気持ちとか、童心に帰って心を躍らせることとか、もう全部忘れちゃったんだ」


「ぁ…………」


「本を読むことなんかよりも楽しいことは世界にたくさん溢れてる。そう思ってからは読書という行為がただの時間の無駄にしか思えなくなった」


 こんなに喋ったのは久しぶりかもしれない。乾いた唇をなめて濡らしてから、言葉を続ける。


「……でも、明美さんはすごいと思うよ。いつまでも本を読むことの楽しさに浸かることができてる」


「…………」


「あっ、別に馬鹿にしようとしてる気持ちは毛頭なくて、純粋でいいなあって思ってるだけ」


「…………」


 明美さんは何か言いたそうな顔つきでこちらを見つめている。ちょっと自虐的な話が続いてしまって呆れているのだろうか。


「……ごめんね。ちょっと自分語りしすぎたかな」


「いいえ、そんなことはないです」


 私が握っていた手を、彼女がさらに上から握ってくる。


「確かに読書って地味ですよね。ただ文字を読むだけだし、そんなことをするくらいだったら友達と遊んだほうが楽しいかもしれません」


 それに関しては綾香さんの気持ちもよく分かります、と明美さんが続ける。


「でも、読書には読書にしかない楽しさがあることも事実です。自分ではない誰かの人生を追体験できて、ここではないどこかに行くことができる」


 明美さんの手はとても温かい。眠いときの私の体温と同じくらいの温度だ。自然と心が休まるような感じがする。


「そんな読書の楽しさを、たまにでいいですから、味わってみてもいいんじゃないですか?」


「…………うん」


「えへへ。じゃあせっかくですし、羅生門、いっしょに読みましょうか」


「えっ、私がいると邪魔じゃない?」


「全然そんなことないです。芥川龍之介の描くエゴイズムをともに楽しみましょう!」


「エゴイズムを楽しむってなに……?」


 その後、私と明美さんは肩を並べて羅生門を読み耽った。偶然なのか読むスピードが同じなのか知らないけど、ページをめくるタイミングは決まって一緒だった。

 彼女が「次のページいってもいい?」と聞くころには私も最後の文まで読み終わっていたから、すごいスムーズな読書会だった。まるで家族みたいに息が合っていた。

  

 本を読んでいると、ときどき明美さんが普通の人では知らないようなトリビアや薀蓄うんちくなどを披露してくれた。これだけ博識ならさぞかし国語の点数はいいだろうな、と思って聞いてみたけど、最後まで彼女は教えてくれなかった。


「……ふー。面白かった!」


 ぱたん、と本を閉じる明美さん。私も久しぶりに読んだ作品だったから、過去の読書が好きだったころの自分が思い出されて、ちょっと感傷的になっていた。


「えへへ、せっかく2週間も猶予くれたのに、一瞬で読み終わっちゃった」


「まあ、別にきっちり2週間かけて読め、ってわけじゃないし、読み終わるタイミングは人それぞれでいいと思うけどね」


「ふふ、それもそっか。じゃあこれ、返すね」


「ん」


 彼女から本を受け取る。その時にかすかに触れた彼女の指が、なんとなく光っている。気のせいかな? と思ってよく見ると、まったく気のせいではなかった。


「え、ちょ、ちょっと、なんか手、光ってない?」


「んー? そうかなぁ?」


「いや光ってるって。なんか恒星みたいになってるよ!」


「えへ、綾香ちゃん嘘つきだー」


「嘘なんかじゃないって! 本当に、マジで光ってるんだよ!」


 私の声にどんどん焦りの色が含まれていく。理由は単純だ。

 彼女の体が、どんどん透けていくから。

 はじめはただ光ってるだけだと思っていたら、いつの間にか向こうの景色が見えるくらいまで薄くなり始めていた。

 そんな、嫌だ。別れたくない。せっかく友達になれるかもしれなかったのに、なんで消えちゃうの?


「……ね、綾香ちゃん」


 彼女の声が耳に届く。相変わらず可愛らしい声で私の名前を呼ぶ。


「わたし、綾香ちゃんといっしょに読書できて、本当に楽しかった」


「い、やだ……いかない、で……」


「またいつか、時間があったら二人で肩を並べて、本読もうね」


「待って――!」


 最後に手を伸ばした私だったけれど、ゆっくりと手を開いてみれば、そこには何もなかった。彼女なんて初めから存在していなかったように。跡形もなく。

 ただ、図書館に密集した本の古臭い匂いだけが、ずっと私の鼻に残り続けた。



 あれから数日後。無事に初戦敗退したウチの野球部の勇姿をしっかりテレビで見届けてから、わたしは母方の祖母の家を訪れた。要するにお盆というやつだ。

 親戚の人と食事をして、小さい子供と一緒に遊んでやって、自分の時間ができたときに、私はバッグから一冊の小説を取り出す。

 質素なブックカバーに「羅生門」と書かれているそれは、あの不思議な出来事の次の日、自分で書店に赴いて買ったものだ。


 羅生門のみが載っているわけではなく、あの日彼女と読んだ本と同じく、「鼻」とか「芋粥」がセットになって収録されているもの。

 私は静かにページをめくりながら、いつか彼女と体験した本の世界を楽しんでいた。別に読むごとに話とかオチが変わるわけではないけれど、私はこの短期間に20回くらい読み直した。


 この本に触れている時だけ、彼女に会えるかもしれないと本気で思っていたからだ。こうしていれば、いつか彼女がふと隣に座ってきて、あの時みたいに蘊蓄を披露してくれるかもしれないと、一緒にページをめくってくれるかもしれないと、思っていたからだ。


「……あれ、綾香ちゃん。羅生門読んでるのかい?」


 ふと、おばあちゃんに話しかけられた。私は「うん」と言ってなんとなく次の言葉を探していると、おばあちゃんが私の手を握ってきた。

 ……温かい。いつか感じた温度と似ている。


「わたしのお母さんもね、羅生門大好きだったのよ」


「そうなんですか」


 彼女が頭をよぎる。奇妙なめぐりあわせもあるもんだな、と思っておばあちゃんの話を聞いていると、そういえば自分はひいおばあちゃんの結婚する前の苗字をあまり知らなかったことに気づいた。

 昔、なにかで聞いたことはあったけど、そんなめったに呼ばれることもなかったから記憶から除外されてしまっていた。

 せっかくだから、聞いてみることにする。


「ねえ、おばあちゃん。ひいおばあちゃんって結婚する前はどんな名前だったの?」


 おばあちゃんの顔がほころぶ。


「そうねえ。当時はすごく珍しい苗字だったからよく馬鹿にされてたって聞いたわ」


 珍しい苗字。数日前、自分もそんなことを言ったような気がする。

 まさか、と思っておばあちゃんの言葉を待つ。

 

「えっと、綾香ちゃんのひいおばあちゃんはね、結婚する前は――」


 そして、おばあちゃんは過去を懐かしむように、その名前を口にするのだった。


「雪兎明美、って名前だったのよ」



 当時。明美さんは16歳という若さで戦火にさらされることになった。趣味であった読書はできず、ただひたすら生きるのに精いっぱいだった。

 そんな中、戦場から逃げるときに知り合いのおじさんから貰った本が「羅生門」だったのである。彼女は芥川の手によって巧みに描かれた人間のエゴイズムに共感し、それ以来羅生門を愛読書として、いついかなる時でも肌身離さず持っていたという。


 その話を聞いた後になってみれば、よくわかる。

 明美さんが自分の状況を語るときに少し言い淀んでいた理由も、あれだけ羅生門にこだわっていた理由も。

 そして――私とまるで家族みたいに息が合った理由だって。

 そのすべてが、手に取るようにわかるのであった。

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図書館に咲いた一輪の花 こんかぜ @konkaze_nov61

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