徳島 義人伝 谷貞之丞

山谷麻也

 


第1話 災害の日本史


 宝永四年(一七〇七)年一〇月二八日午後二時前、遠州灘から四国までの沖合を震源とする大地震が発生した。


 日本列島を乗せた海洋プレートと大陸プレートが大きくずれたものである。最大推定マグニチュード八・六の揺れに加え、沿岸部では一〇メートルにも達しようという巨大な津波が何度も襲って来た。


 太平洋に面した土佐の国では、ほとんどの漁村が全滅に近い状況だった。家屋は流出し、溺死あるいは行方不明となった者は数え切れなかった。


 背後に「水の都・大坂」を控える大阪湾にも津波は押し寄せた。市中を中心に死者は一万人を超え、家屋の全半壊・流出は一万六千棟にのぼった。


 徳島藩では地震の揺れによって二三〇棟が全壊、津波のため七〇〇棟以上が流出した。死者は四二〇人以上に及んだとされる。


 宝永地震の四九日後、日本を再び天変地異が襲う。富士山の大噴火である。


 火山灰や火山れきなどの火砕物は建物を倒壊させ、田畑や山林、草地を荒廃させた。また、道路は遮断され、火山灰が用水路・河川を氾濫させるなど、被害は長期かつ広範囲に及んだ。


 日本史上に特筆される二つの異変が同じ年に起こったことから、宝永地震は「の大変」、富士山大噴火は「亥の砂振り」として長く記憶された。ともに生産活動・経済活動を停滞させた。大噴火による降灰を除去するため、幕府は翌年、全国に、髙一〇〇石につき二石(二%)の税を課すが、大半は破綻した幕府財政の救済に当てられ、復興・復旧は遅れに遅れた。

 相次ぐ災害により、下層の人々の生命は、風前の灯となっていた。


 第2話 舞台は一宇いちう


 旧・徳島県美馬郡一宇村。二〇〇五年、半田町・貞光町と合併し、つるぎ町となった。現在の総人口は七〇〇人に満たない。


 貞光川沿いに国道四三八号を南下すると、間もなく民家は途絶える。さらに進むと左右に急峻な山が迫って来る。やがて山肌に民家の点在するのが目に入る。国道は西日本第二の高峰、徳島県のシンボル・剣山(一九九五㍍)の登山道となっている。


 一宇村は、吉野川沿岸に広がる町とは異なる独特の風土を形成している。剣山の北斜面に当たるため降雨量は少なく、林業には適さなかった。収穫できる農作物は煙草やキビ、アワ、トウモロコシ、サツマイモ、ソバなどに限られた。


 周辺と隔絶された環境は、中央の混乱を逃れようとする人々を呼び込んだ。これらの者たちが一宇村を拓いたとも考えられてきた。南北朝時代には、祖谷山(三好市)や木屋平(美馬市)とともに、南朝方の阿波山岳武士団の拠点となっていた。


 南朝方についた小野寺八郎は奥州宮城野の産、正平七年(一三五二)、阿波国朽田庄(阿波市)を拝領し、地頭となる。八代備中守惟義の時代に至り、長曾我部元親の侵攻に遭い、山深い一宇に逃れることとなった。


 折から、天下統一を目前にしていた豊臣秀吉は、四国攻めに際する戦功により、天正一四年(一五八六)、蜂須賀家政を阿波一八万石の大名に任ずる。しかし、家政の入国に反対する勢力もあった。これらを平定した功により、惟義の長男源六は一宇に禄百石(南家)、次男六郎三郎は祖谷に禄五三石(北=喜多家)を賜った。三男孫六は一宇の剪宇きりうに分家の上、谷姓に改め禄三〇石を領することとなった。


 この物語の主人公である谷貞之丞さだのじょうは、孫六から四代目、幼名を彌九郎と名乗った。

 よく学問をして博識、人格高潔であり、村人から人望を集めていた。祖父母以来、代々庄屋を務め、武士のあかしである名字帯刀を許されていた。庄屋として年貢徴収の責任を果たしながらも、貞之丞は村人に慈悲の心をもって接し、一宇村には笑顔が絶えなかった。


 第3話 覚悟の直訴


 この時代の年貢は、主に米で収められていた。しかし、貨幣経済の発達とともに、金銭で納めるケースも増えていた。また、一宇のような米作に適さない地域では特産物で納めることとなっていた。太閤検地以来、年貢は石高を村全体で集計し、村単位で一括納入することとされた。


 当時、年貢量は年ごとの収穫量から決定されていた。これでは吉凶作による影響が大きいため、後に、過去何年間かの平均収穫高を基準にする方法も採用された。いずれも農民の負担軽減、藩財政安定化の切り札にはならなかった。


 徳島藩では年貢高を決めるための検地のほか、棟付改と呼ばれる人口調査を行い、伝馬や人足を提供する労役(労働課役)を課した。これらも村人を苦しめて来た。


 大地震から三年後の宝永七年(一七一〇)は、日照り続きの年だった。

 同じ四国の松山領和気郡ではこの夏、二か月近く日照りが続き、畑が半作、九〇〇町歩の田が干からびた。このため、藩では五年間一割六分の減俸とした記録がある。


 一宇村でも畑は乾燥して作物は立ち枯れ、村人は植物の根や、木の皮などまで口に入れていた。村の年貢が納められないのは誰の目にも明らかだった。


 貞之丞は貞光の代官から年貢割付状を受け取って、暗澹あんたんたる気持ちになった。

 これまでヒエや麦などの年貢のほか、宍料ししりょうとして毎年六月と一二月にとがひのきの板材を収めてきた。それを、一戸当たり白米八升四合に改め、納められない者は銀で額面を表示した紙幣(銀札)で納付するようにという内容だった。


 一宇に帰り、五人組の組頭に招集をかけた。やはり、全員が激高した。実力行使しかないという雰囲気だった。

 結論は翌日に持ち越された。前日にもまして、組頭たちは手のつけられない状態になっていた。もはや代官所を襲うしかないという組頭たちを前に、貞之丞は、解決を一任してほしいこと、すぐにでも藩にかけあうことを約束して、なんとかその場を収拾させた。


 翌日、貞之丞は村人に見送られ、徳島へと発った。群衆の中には、妻と二人の男児の姿があった。


 江戸時代の一揆の常として、藩は百姓たちの願いを聞き入れる一方で、首謀者たちを死罪、遠島、財産没収に処するなど、厳しく処罰した。アメとムチの政策を取ったのは、騒ぎを大きくし、幕府から領主の処罰や改易されることを怖れたものだった。


 徳島に到着した貞之丞は、訴状を携えて御蔵奉行を訪ねた。しかし、奉行からは叱責を受け、訴えは却下された。


 貞之丞は最後の手段として、駕籠訴かごそに出る決心をする。藩主や藩の家老などが駕籠で通りかかるのを待ち、直接訴状を渡すものである。正規の手続きを経ていないため、事によっては死罪を免れない行為だった。


 決行当日、御国家老鹿島主水の駕籠が徳島橋に差し掛かろうとした時、貞之丞は竹の先に訴状を挟んで走り寄った。警護の武士たちに押し返されること三度、ついに訴状は届いた。


 数日間に及ぶ取り調べの後、正徳元年(一七一一)九月二五日、貞之丞の身は白洲の上にあった。家老と担当の生田弁左衛門が出座し、判決が言い渡された。


 それは、旱魃かんばつが続き飢餓きがひんしている百姓らを不憫ふびんに思う。一方、貞之丞は役人として取り締まるべき立場にありながら、藩主に直訴した罪は軽くない。願いの義、聞き届けつかわさんとすれば、その方は厳罰に処せられる――というものだった。


 もとより死罪は覚悟の上だった。

 一宇で待つ妻子のもとへ、藩の役人がやってきた。妻子は徳島へ護送され、沖洲おきのすから小舟に乗せて遠島となった。


 貞之丞は財産を没収され、正徳二年(一七一二)二月一四日、吉野川河口に近い鮎喰あくい河原で、斬首の刑に処せられた。塩漬けにされた首は、一宇谷の登り口にさらされた。


 あまりにも厳しい沙汰さただった。村人は晒し首の間、ひたすら念仏を唱え、貞之丞の冥福を祈った。


 第4話 土釜どがまを見下ろしつつ


 一宇では少子高齢化・過疎化が進行し、平日は昼間でもほとんど人を見かけることがない。繁華街の面影を留める街並みを抜けると、橋にさしかかる。この先が剪宇、貞之丞生誕の地である。


 剪宇下堂の脇を登って行くと、平成五年(一九九三)二月一四日、顕頌けんしょう会が立てた案内板が目に入る。二八〇余年前のこの日、貞之丞は鮎喰河原の刑場の露と消えた。


 一宇谷は特異な渓谷美を呈していることで知られる。土釜がその代表である。急な流れは川底を穿うがち、甌穴おうけつといわれる鍋底の形をした滝壺を造った。


 谷の水はエメラルドグリーンの光を放つ。いつの夏にも、子供たちの歓声が聞かれない日はなかっただろう。


 貞之丞の首が晒されたのは、土釜を見下ろす場所だった。

 平成三年(一九九一)七月八日、この地に顕頌碑が建立された。

 碑文の最後は、次のように結ばれている。 

「以来、二八〇年を過ぎる時、この貞之丞の人を知り、男気に感涙するもの少なくない為に偉業を称え、義人として崇め永遠に顕頌し伝えるものである。」

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