本編【其の捌】 [改稿]

――あの山で何があったのか、和彦から聞く機会を私たちは永遠に失ってしまった。



 ……聞こえる。

 何だろう――。

 ……声?

 誰?

 遠くで、誰かの声がする。

 聞こえない。何を話しているの――

 

 何かを激しく叩く音に驚いて上体を起こすと、枕元にちょこんと座っていたイトがにゃぁんとひと鳴きした。

「え、私、寝てた? イト、起こしちゃった? ごめ……」

 イトを抱き上げようと手を伸ばした時、玄関から誰かが声高こわだかわめいている声が聞こえてきた。

 複数人の声。その中に祖母の声もある。興奮したように「和彦が……」と上擦うわずった声が聞こえ、私はハッとする。

「奈々美!」

 私は布団を跳ね除け、玄関へ駆け出した。

 奈々美が見つかったのかもしれない。山に捜索に入っていた大人たちが、奈々美を見つけたのかもしれない。

 襖を勢いよく開けて客間から飛び出すと、玄関に集まっていた大人たちが「ひっ」と短く声を上げ、一斉に私の方を見た。

「奈々美が見つかったの?!」

 顔を引きつらせている大人たちに私が叫ぶと、ひとり無表情の祖母は静かに首を振った。

「え、じゃあ……」

 えっちゃんのお父さんたちは何でここに来たの。私は笑顔を崩し、玄関に集まる大人たちを見ると、皆、気まずそうに目を伏せる。

「何か、あったの?」私は胸元のパジャマをきつく掴み、「さっき、『和彦が』って聞こえたけど……」

 誰も答えない。

 胸の辺りがぎゅうと収縮するように締め付けられ、息をするのも苦しい。鼓膜に心臓の拍動音が響き、膨張するように頭の中を支配していく。

「和彦の父親の達治たつじが亡くなったんだ」

 祖母が言った。

「え?」

 我に返る私に、「殺されたんだ」とえっちゃんのお父さんが続けて答えた。

「和彦が山神様を怒らせたんじゃ」

「あの家は祟られてる」

「同じだ。達治たつじの時と」

佐和婆さわばあさんが不憫ふびんだ」

 玄関に集まった大人たちが口ぐちに言い合う。聞き慣れない不穏ふおんな言葉の数々。

 私が口を開きかけた時、「神座かむくらは予定通り行う」と祖母のひと声で場が静まり返った。そして「これまでと同じだ、中止はしない。皆に羽黒はぐろのところに集まるように伝えなさい」と続けた。

 玄関に集まっていた大人たちは強張らせていた表情をわずかに緩め、「分かりました。皆に伝えます」と各々帰っていった。

「おばあちゃん」

 彼らを見送る祖母の背中に声をかける。

「沙耶子のところに行きなさい。あの子にも、このことを伝えてくれるか」

 背を向けたままの祖母。これ以上声をかけるなと言わんばかりの、後ろ姿から漂う拒絶の空気に私は言葉を呑み込んだ。

「……分かった」

 私はそのまま母の部屋へ向かった。

 部屋の襖を開けると、母は布団から起き上ってイトの頭を撫でていた。イトは気持ちよさそうに目を閉じて頭を撫でられている。

「お母さん」

「……たっちゃん、亡くなったのね」

 母の声にドキリとした。感情のこもっていない声。母のこんな声は初めて聞いた。イトの頭に手を置いたまま、どこか遠くを見ている母を私はじっと見つめた。

「どうして、和彦のお父さんが」

 私は先程のえっちゃんのお父さんたちの言葉を思い出す。

「分からない。もう誰も、分からないことなのよ」

 母の言葉に私はハッとし、「な、にが? お母さん、何か知ってるの? 知ってるなら教えてよ! なんで奈々美が」と母の両肩を掴んで問い詰めた。

「分からないの。私も、分からないのよ」母は私を見ると、顔を歪めて泣きながら言った。「たっちゃん、忘れてしまったの。あの日、なにがあったか……」

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