本編【其のナナ】

――放心状態の和彦を見つけたのは山に入ってすぐのことだった。

ふらふらと心ここに在らずの状態で歩いていた和彦。そこに奈々美の姿はなかった。私は慌てて和彦に駆け寄る。

「和彦! 奈々美はどうしたのよ! 一緒にいたんでしょ?! 和彦!」

和彦の両肩を掴んで乱暴に体を揺さぶる私を「落ち着け」と禎一が制した。それでも和彦に詰め寄ろうとする私の腕を禎一が強く掴み、和彦から引き離した。

興奮する私から乱暴に揺さぶられても、何の反応も見せない和彦。彼のその様子により一層不安が押し寄せ、私は叫び出しそうになる。

浩太が和彦に歩み寄る。

「和彦、俺が分かるか? 奈々美と一緒じゃなかったのか?」

浩太が静かに尋ねた。和彦は焦点の合っていないうつろな瞳をゆっくりと浩太の方に向ける。何も映っていなかった瞳に浩太の姿を捉え、瞬間、その瞳におびえの色を浮かべた。全身が痙攣けいれんするように震え、「あ、ああ、あ」とせきを切ったように和彦は泣き叫んだ。

「ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい」

 山に捜索にきた大人たちに抱えられ、集落に戻る間も和彦は壊れたように謝り続けていた。

 浩太は今回の経緯を説明するため大人たちと共に集会所へ向かった。私は禎一に支えられながら祖母宅に帰った。

 動揺のあまり言葉が上手く出せなくなっていた私の代わりに、禎一が祖母に事の経緯を説明すると、祖母は慌てもせず、静かに「そうか」と奥座敷へ入っていった。

その後すぐ、顔面蒼白の和彦の父親が祖母宅に飛んできた。玄関で土下座をして謝罪する和彦の父親に祖母は「和彦に責任はない」と短く言うと彼を立たせ、和彦のそばにいてあげるよう伝えた。

「いや、でも。沙耶ちゃ……沙耶子さんは大丈夫ですか?」

「……せってはいるが、問題ない。達治、和彦のそばにいてあげなさい」

 祖母の口調が優しいものに変わった。和彦の父親が嗚咽おえつを漏らしながら祖母に何かを訴えていたが、何を言っているかまでは分からなかった。そしてしばらくすると和彦の父親は何度も頭を下げながら、和彦のもとへと帰っていった。

その後ろ姿を見送りながら、禎一は襖をそっとしめた。私は壁に頭をもたげたまま「……和彦、大丈夫かな」と呟く。

祖母の言う通り、まだ小さな和彦に責任はない。年長者の私たちがちゃんと二人を見ていなかったのが悪いのだから。和彦は悪くない。私に責任がある。あそこにいるモノのことを知っているのは私だけなのに――

「陽菜は、今はナナのことだけ考えていればいいよ」禎一は私をそっと立たせると、部屋の中央まで移動する。「今はまだ難しいけど、和彦が落ち着いたら話を聞こう」

「……うん」

 私は力なく頷く。

禎一は優しくて賢い。禎一に話してみようか。来年、春になれば禎一は集落を出てうちにくる。集落を出るのなら――

 私が口を開きかけた時、どこからかイトの鳴き声が聞こえた。

いと?」

 禎一がきょろきょろと辺りを見回す。姿が見えないのか、彼は襖を開けて廊下を覗いた。

私は両手で口元を押え、全身に湧き上がる恐怖に声を押し殺しながら耐えた。

固まっている私に気づいた禎一が「どうしたの?」と聞いてきたが、「なんでもない」と首を振って誤魔化した。震えが止まらない手を口元からそっと外し、きつく手を組む。

 イトの声が聞こえた瞬間、祖父の姿が浮かんだ。奥座敷で冷たくなった祖父のあの姿。何故、急に祖父の姿を思い出したのか分からない。けれど、話してはいけないと直感した。

 禎一を同じ目にわせるわけにはいかない。

 私は、もう大丈夫だからと禎一を家に帰し、奥座敷の祖母のところへ向かった。

「陽菜、今日はもう寝なさい。話は明日聞く」

 部屋に近づく私の気配を察したのか、襖を開ける前に部屋の中から祖母の声が聞こえた。

「でも、おばあちゃん」

「今日は外へ出てはいけないよ。この部屋にも近づいてはいけないよ」

「……」

 襖に手をかけると、「にゃぁん」とイトが足下にすり寄ってきた。

「イト、どこにいたの?」

「陽菜。いとにご飯をあげてちょうだい。それに、お前は沙耶子のところにいてあげな」

 部屋から聞こえる祖母の少しくぐもった声に私は頷くしかできず、「わかった」とイトとともに台所へ向かう。

 イトにご飯をあげた後、静まり返った家の中で私は布団に横たわる母の横に座る。

「お母さん、ごめんなさい」

 膝の上の拳をギュッと握りしめながら、私は母に謝った。

「陽菜が謝ることはないのよ。……これは、神座かむくらの」

 母は言いよどむ。

「お母さん?」

「何でもないわ。あなたは気に病む必要はないのよ。誰も、悪くはないのだから」

「う、ん」

 本当に誰も悪くないのだろうか。私は唇を噛んだ。


 居間でぼんやりとしていると、ご飯を食べて満足気なイトが「にゃぁん」とすり寄ってきた。

「どうしたのイト。ご飯足りなかった?」

 イトはずっとすりすりと頭を私の体にこすり付けてきた。

「もしかして、励ましてくれてるの?」

 じわりと涙が溢れてきた。山の中で独り、怖い思いをしている奈々美のことを思うと私は泣いてはいけないとずっと我慢していた。

「ありがとね。ごめんね、今だけ、少しだけだから」

 そういって私は声を押し殺して泣いた。


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