本編【其の甪】

 祖母の家には山側に面した窓のない十畳の座敷がある。その部屋を、家の者は奥座敷と呼んでいた。

 小さい頃から『入ってはいけない部屋』として「裏山には絶対に入るな」という言いつけと同じくらい厳しく言い聞かせられていた。入るのはもちろん、部屋に近づくことさえも禁じられており、一度だけ、まだ小さな奈々美が奥座敷に通じる廊下に入ってしまい、いつもは優しい祖父にきつく叱られたことがあった。

 その時のことを当の奈々美は覚えていないが、当時三歳だった奈々美は引きつけを起こすほど激しく泣き叫び、庭で作業をしていた母と祖母が駆けつけると祖父が青い顔をして奈々美をなだめていたそうだ。

 私は遊びに出ていていなかったのだが、当時の奈々美は優しい祖父に厳しく叱られたことがショックだったのだろう。そして祖父は、奈々美の大好きないちごのかき氷を作ったり、水あめを買ってきたり――商店で会った私とえっちゃんにも買ってくれた――となだめるのに四苦八苦していた。祖父は本当に優しい人だった。

 当時の祖父の困った顔を思い出し、私は泣きそうになる。

 奥座敷に入ったのはこれで二度目だ。

 最初にこの部屋に入ったのは――祖父の亡骸と対面した時だった。

 ショックを受けさせないためだろう。今よりも小さかった奈々美を母はこの部屋には入らせなかった。祖父の亡骸を目の当たりにした私は、小さな奈々美には生きている祖父の思い出を記憶に残すだけでいいと思った。

 私は、悲しいのに、呼吸困難になるほど涙が溢れ出たのに、祖父の亡骸が恐ろしくて近寄ることも泣きすがることもできなかった。

 祖父は、体調を崩して寝込むようになってからはずっとこの奥座敷で過ごしていた。その間、一度も会うことを許されなかった。

 どんな病気だったのか、私は知らない。聞いても教えてもらえなかった。私は祖父に会いたがったが、結局、最期まで叶うことはなかった。


神楽かぐらのことを、ここでは神座かむくらという」


 静かな口調で向かいに座る祖母が言った。感傷に浸っていた私はハッと我に返り、「神楽かぐら? あの神社とかで巫女のお姉さんが舞っているやつ?」と少し遅れて答えた。祖母はタイミングがずれたことを気にするでもなく、私の問いに頷いた。

「うちは代々の長女が、裏山に神様を勧請かんじょうして招魂しょうこん鎮魂ちんこんするお役目をになってきた。お前の母親も三十年前に神座かむくらを行ったんだよ。今年は陽菜、お前の番だ」

「そんな、急に言われても」

 困惑する私に、「大丈夫、まだ日はある。それに、これは決定事項だ。すでに神座かむくらの準備もできているし、他の子どもたちもこの数ヶ月間準備を進めてきている」と祖母は利き手側に置かれている風呂敷に包まれた箱らしきものを手前に置いた。丁寧に風呂敷の縛り目を解いていく。無地の黒い風呂敷だと思っていたが、縛り目を解いて広げると四隅よすみにオレンジ色の糸で文字が入っていた。見たことのない文字で読むことができない。

神座かむくらを行うときはこの面をつけるように」

 祖母は木箱の蓋をゆっくりと外すと、能楽のうがくでよく見る女顔の面が入っていた。その面を見た時、全身に悪寒が走った。反射的に祖母の顔を見ると、初めて見る祖母の顔があった。

「恐ろしいだろう」

 感情のない表情で祖母が言った。私は震えながら頷くと、祖母は丁寧に木箱の蓋を被せた。

「この面には初代しょだいの魂が宿っているんだよ。神と対座たいざするためにはこの面が必要なの。この面なくして神座かむくらは行えない。強い力、強い意志がなければ、この神事は執り行うことはできないんだよ」

「怖いよ」

「大丈夫。お前ならできる」

「でも」私は言いよどむ。「神様って」

 祖母は答えない。感情の読めない表情のまま、私を見ている。

「神様って、どんな神様を祀っているの?」

 私は絞り出すように吐き出した。全身が震えるような怖い面。しかも魂が宿っているという。そんな恐ろしい面を被り、神の前で舞えと言う。

「古くからここに在るもの」

「在るって」

「ああ、在る。ずっと、昔から」祖母は目の前の木箱を見据えながら、「災厄をもたらすもの。それに神という名を与え、祀ることで災厄から免れようとした。当時のおさである初代がそれを取り纏め、おぼろを山に封印するのに尽力した僧侶たちをここでは八部衆という」

 私は混乱して頭を抱えた。

 理解が追いつかない。神様は神様ではないのか? 災厄をもたらすものをここでは祀っているの? そんな恐ろしいものがいるところでみんな暮らしているの?

「陽菜、泣くな。お前が泣いたら……」

 祖母はそこで口を閉ざした。一瞬、祖母が悲しそうな顔をしたのを私は見逃さなかった。私は涙を手で拭い、「ごめんなさい」と謝った。

「お前が謝ることはなにひとつないんだよ」

 祖母の優しい声に私は小さく頷いた。

「ねぇ、さっき、おぼろって。あと、八部衆って何?」

「ああ、あれをと呼びたくなくてな。内輪ではそう呼んでいたんだよ。本当は名前をつけるのはあまり良くないんだがな。八部衆とは、八人の僧侶のことだ。突然現れ、おぼろを封印したあと忽然こつぜんと姿を消したそうだ」

「そ、うなんだ」

 私はその八人こそ神様の化身ではないのかと思った。それを口に出そうとした時、「さて、話はここまでだ。絵都と待ち合わせしているんだろ」と祖母が話を切り上げた。

「え、うん。でも」

 分からないことだらけで私は祖母からもう少し詳しく話を聞きたかったのだが、祖母は私の言葉を遮るように木箱を風呂敷で包み始めた。

「それ」私は風呂敷の四隅に刺繍されている文字を指さし、「なんて書いてあるの?」

「読めなくていいよ。読む必要のない文字さ」

「そ、うなんだ。そのオレンジの糸で刺繍してあるのも何か関係があるの?」

「オレンジ? ああ、朱色な」

「朱色?」

「ああ。この糸の色は朱色だ」

「それにも意味があるの」

「もちろん。すべてに意図がある。けれど、お前はまだ知る必要はないよ」

「いつかは知らなきゃいけないってこと?」

「もちろんだ。だが、まだ先の話さ」

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