本編【其の参】

 えっちゃんの家に着いたのは一時を少し回った頃だった。えっちゃんはすでに昼食を済ませており、「禎一たちが一本杉の前で待ってるって」とアイスバーを私と奈々美に手渡した。

「ありがと。ごめんね、遅くなって」

「いいよー。ここまで距離あるから疲れたでしょ」

 えっちゃんは屈託くったくなく笑うと、みかんのアイスバーをかじった。冷たかったのかギュッと目をつむり、「んー」とうなり声を上げる。私は「ふふ」と笑い、ぶどうのアイスバーを口に含む。ぶどうの濃厚な味が口の中にじんわりと広がる。奈々美はイチゴのアイスバーをぺろぺろと舐めている。三人で田んぼの畦道あぜみちをのんびり歩きながら、アイスバーを味わっていた。

「えっちゃん髪伸びたね」

「うん、祭りがあるから伸ばせって言われてるんだ。短い方が楽なんだけどねぇ」

 えっちゃんはそういうと、アイスバーの最後のひと口を木の棒から滑らせて口に含んだ。

「祀り、ね」

 私はアイスバーを見つめながら呟いた。

「あれ、まだ聞いてない?」

 えっちゃんが首をかしげ、私の顔を覗き込んできた。

「ううん、聞いた。えっちゃんたちも参加するって聞いたけど、どんなことするの?」

「私たちは山のふもとの社まで陽菜ちゃんを送るよう言われてるよ。神事だからみそぎっていうの? 身体を清めなきゃいけないって言われてここのところ精進料理しょうじんりょうり食べてるんだ。そっか、今日初めて言われたんなら全然分からないよね。私たちも初めてのことだから最初はびっくりしたけど、山に入るのは楽しみなんだ。ずっとダメって言われてたからさ。浩太や禎一も嬉しそうだったよ」

「何度も山に入るの失敗してたから、浩太は喜びそうだね」

 私はガキ大将の浩太の顔を思い浮かべる。集落の子どもたちのリーダーで、怖いもの知らずの同学年の男の子。口が悪く俺様気質おれさまきしつな彼のことを私は少し苦手に思っていた。

「そうそう。毎回、大人に見つかってこっぴどく叱られてるのにあきらめないんだよねぇ。しかもアイツ、八部衆はちぶしゅう頭代とうだいになったんだよ」

 えっちゃんが私や奈々美の手からアイスの棒を引っこ抜くと持っていた紙袋に入れてくるくるっとねじり上げた。そして持っていたバッグにポイッと入れる。

「うん、おばあちゃんから聞いた。八部衆はちぶしゅうって」

 言いかけたところで一本松が見えてきた。樹齢百五十年の巨大な松の木。太い幹にはしめ縄が巻かれ、それは毎年初夏に集落の男性たちによって巻かれるのだとか。『おみのしめ』とえっちゃんから聞いたことがある。

 木の下には見知った顔が何人もこっちを見ている。

「おせぇぞ!」

 その中の一人、浩太が叫んだ。帽子を目深まぶかに被り、腰に手を当て仁王立ちでこちらを睨んでいる浩太。私たちは顔を見合わせ、一本松に向かって走った。

「遅くなってごめん」

「いいよ。ここまで来るの大変だったろ、お疲れ。それに祭りの話もあっただろうし、驚いたろ?」

 一本松に寄りかかって休んでいた禎一が笑いかけてきた。集落の子どもたちの中で一番落ち着いていてお兄さん的存在の禎一。祖母の家の次に大きな家に住んでおり、来年は中学受験をするらしい。さっき母から聞いたのだが、合格したらうちに下宿する話になっているそうだ。大人は勝手に話を進めてしまうので困る。

「お祭りあるの?」

 奈々美が私を見上げながら尋ねた。

「出店もないし、奈々美の知ってるお祭りじゃないんだ。それにごめんね、奈々美は参加できないの」

 私が言うと、奈々美が泣きそうな顔をする。

「みんなは参加するの?」

「すぐ帰ってくるよ」

 私はそれだけ言うと、奈々美の頭を撫でた。奈々美は口をへの字に曲げて泣くのを我慢している。スカートを握りしめている拳がぷるぷると震えていた。

「イトと待ってて。ね?」

 諭すようにそう言うと、奈々美は小さく頷いた。私はホッとして奈々美の頭をもう一度撫でた。

「あの猫でっけぇよな。猫ってみんなあんなにでかいのか?」

 浩太が横から割って入ってきた。

「イトほど大きな猫は珍しいよ」

 私が答えると、「ナナ、猫抱っこしたよ。こんなにおっきいの」とさっきまで半泣きだった奈々美が興奮しながら両手でジェスチャーする。そこまで大きかったっけ。

「そうそう、それくらい大きいよな」

 禎一が笑った。奈々美に合わせてくれている。ゴールデンレトリバー級の猫となったイト。

「そんなでかかったか?」

「ナナ、あの猫触れるの?」

「噛まれなかった?」

 呆れ顔の浩太の他に、奈々美と年齢の近い柚葉ゆずはや和彦が目を輝かせながらイトのことを奈々美に聞いてる。皆、実物の猫を見るのが初めてのようだ。

 やはり、何かおかしい。テレビ以外で猫を見たことがないなんて、そんなことがあるのだろうか。今まで気づかなかったけれど、ここは――

「暗い顔してるけど、どうした?」

 禎一が隣に並んだ。同じ小学六年生なのだが、私の知っている男子の中で誰よりも背が高い禎一。ハッとした私は彼を見上げ、「ううん、なんでもない」と答えた。禎一は「そう?」と首をかしげ、「祭りのことで緊張してるのかと思った」と苦笑いを浮かべた。それは、自分も同じだと言っているような笑いだった。

「緊張、はしてる」

 私はぎこちなく答えた。

「だよな。あれだけ入るなって言われていた山に入って三十年ぶりの大祭たいさいをしろって言われて、緊張しない訳ないよな」

「そうか? 俺はめちゃくちゃ楽しみだぞ」

 浩太が満面の笑みを浮かべながら割って入ってきた。その横では奈々美と他の子どもたちがイトの話で盛り上がっていた。イトを抱っこする順番を決めているようだ。

「お前はな」禎一が呆れたように息をつき、「俺たちは陽菜をふもとまで送るだけだからいいけど、陽菜は大役たいやくになってるんだ。俺たちとは心持こころもちが違うだろ」

「踊るんだっけ」

「舞うんだよ」

「同じだろ」浩太は悠然ゆうぜんたたずむ山に顔を向け、「神様に見せるんだろ。ていうか、なんの神様なんだ?」

「山の神様、だろうな。これまで山に入るのを禁じていたのは神域しんいきだからってことか」

神域しんいきなら最初からそう言えばいいのにな。ただ、山に入るなって言うから入ろうとするヤツが出るんだよ」

「お前みたいにな」

「だって気になるだろ? けど俺、山の神様の話なんて初めて聞いたぞ」

「俺もだ」

 そうか、二人はアレの話を聞いていないのか。私は二人のやり取りを聞きながら、奥座敷で聞いた祖母の話を思い起こす。

「おい、陽菜!」

 浩太に肩を掴まれ、私は現実に引き戻された。

「え?」

「お前、大丈夫か? 顔が真っ青だぞ」

 隣の禎一も心配げに私を見ていた。私は額に手をあて、にじみ出ていた汗をぬぐった。そして周りを見ると、イトの話で盛り上がっていた皆が私を見ていた。

「陽菜ちゃん、大丈夫?」

 えっちゃんが私のところに駆け寄ってきた。

「今日は家に帰るか?」

 禎一が私の肩に手を置く。

「ううん、大丈夫。少し、疲れが出ただけ」

 皆を心配させてしまったことに申し訳なくなり、慌てて笑顔を作ると奈々美が心配そうに私の手を握りしめてきた。私は奈々美に笑いかけ、「大丈夫。少しクラッときただけ。心配させてごめんね。もう大丈夫だから」と奈々美の小さな手を握り返した。

「ばぁか、今日みたいな日になんで帽子被ってこないんだよ」浩太が自分の被っていた帽子を、私の頭に乱暴に被せた。「今日は沢行こうぜ。あそこなら涼しいし、休みながらでも楽しめるだろ」

「そうだな」と禎一。

「私、沢蟹取りたい」

「カニ?」

「魚も取れるよ」

「変な虫もいるよ」

 皆が口ぐちに言う。奈々美は沢蟹が気になるらしく、ぴょんぴょん飛び跳ねて「早くいこ!」と浩太を急かした。

「ナナ、落ち着け。じゃあ、行くか」

「浩太、これ、帽子」

 先頭に立って歩き始めた浩太に声をかけると、「あ? それ被ってろ。倒れるぞ」とぶっきらぼうに言い、「行くぞ」と皆に向かって声をかけた。

「ありがと」

 優しいとこあるではないか、とこれまで苦手に思っていた気持ちが少し和らいだ。もう最高学年の六年生だもんね。周りは皆年下だし、そりゃ、成長するよね。ひとりで納得していると、「無理しないように」と禎一が前を歩き、えっちゃんが「行こう」と私の背中を押して歩き出した。

「沢にいったら腰かけ岩でおしゃべりしよ」

「うん、いいね」

 腰かけ岩は、私たちが命名した岩のこと。水に足を浸らせ座ることができる岩。沢にいくと私たちはそこに座って涼みながらいつもおしゃべりを楽しんでいた。

 私は、えっちゃんと地元の学校の話をしながら前を歩く禎一の背中を一瞥し、彼はあの話をどう思っているのか、と考えていた。

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