本編【其の肆】

「カニだ!」

 奈々美が岩の間を覗き込みながら叫んだ。茶色の小さな沢蟹が、奈々美の声に驚いたのか岩の隙間すきまに入り込んでしまった。

「ダメだよ、大きな声を出すと逃げちゃうだろ」

 一緒に岩場の隙間すきまを覗き込んでいた和彦が、落ちていた木の枝で沢蟹が入っていった場所をつついた。奈々美は沢蟹が出てくるのをじっと見ている。私とえっちゃんは腰かけ岩に座りながら、いつもはおしゃべりの奈々美と和彦が無言で岩の隙間すきまを凝視しながら木の枝をつついている姿をにやにやと見ていた。

「ダメだ。穴が深いのかなぁ。他のとこ探してみよ」

 和彦は木の枝をポイッと投げ捨て、別の狩場へ向かう。奈々美はまだジッと岩の隙間すきまを見ていたが、「待って、ナナも行く」

と和彦のあとを追った。

「あはは、二人ともこらえ性ないなぁ。そろそろ出てくるんじゃない?」

 えっちゃんが言うと、さっきの岩場から沢蟹がそろそろと出てきた。「ほらね」と彼女はスッと立ち上がり、裸足で軽やかに岩場を渡り歩いて沢蟹を捕まえた。

「えっちゃん、さすが」

 私が感嘆かんたんしていると、「えっちゃん、私にちょうだい」と近くで石を拾っていた柚葉が沢蟹を欲しがって走り寄ってきた。

「みんなにも触らせてあげてね」

「うん」

 柚葉は大事そうに沢蟹を受け取ると、和彦や奈々美のところに駆けていった。一匹の沢蟹に四人の子どもが群がる。奈々美と同い年の和歌、ひとつ上の和彦と柚葉。みんな頭を寄せ合い、和彦が持ってきた虫かごの中でちょこまかと動いている沢蟹に魅入っている。

「可愛いね」

 私は小さい子たちのはしゃぐ姿に目を細める。

「いいよね、子どもは」えっちゃんが隣に腰かけた。「あー、中学嫌だなぁ」

「えっちゃんたちは隣村の中学に行くんだっけ」

「ここから八キロ先のね。自転車通学になるからつらいわ」

 えっちゃんは右足で水を蹴り上げた。

バスが数時間に一本しか走っていない集落。もちろん駅もない。毎日、自転車で往復十六キロの距離を通うのは大変だろう。自分なら初日で登校拒否してしまいそうだ。

「勉強難しくなるし、禎一も都会に行っちゃうし。陽菜ちゃんだって中学生になったらもうこっちに来ないでしょ?」

 えっちゃんが泣きそうな顔になった。

「何言ってるの。中学生になっても遊びに来るよ!」

「だって禎一が」えっちゃんは顔を伏せ、「もう来ないって」

「禎一が?」

「勉強忙しくなるし、向こうの生活が忙しくなるから帰る気ないって」

 えっちゃんが口を閉ざす。ずっと集落で一緒に過ごしてきた彼女としては、帰る気ないと言われて複雑なのかもしれない。

「禎一が狙ってる学校、県内一の進学校だから学校生活に慣れるまではってことじゃないかな。でも、私は毎年来るから! 宿題持ってきてでも来るから、ねっ!」

 私も思い切り水を蹴り上げた。大きく弧を描いた水しぶきは小さな虹を作り出した。

「ほんと?」

「ほんと。私、えっちゃんやみんなに会うの毎年楽しみにしてるんだから」

「待ってる!」

 少し涙目のえっちゃん。私たちは「絶対ね!」と指切りをする。

「何してるんだ?」

 禎一が私たちの横にしゃがみ、指切りをしている手を見ている。

「見てわかるでしょ。指切りだよ」

「来年も遊びに来るねって約束してたの」

 私たちが口ぐちに言うと、「陽菜んとこって進学校だろ? 中学は小学校ほど楽じゃないだろ」と禎一が思案しあんげな顔をする。

「禎一が狙ってる学校ほど進学校でもないし、大丈夫だよ」

「よく言う。立派な進学校だろ。侮ってると一気に成績落ちるぞ」

「侮ってはいないけど。家庭教師の先生にもこのまま中学に行っても大丈夫って言われてるし、ちゃんと考えてるよ」

「家庭教師に教わってるのか」

「うん。うちの卒業生だから、勉強だけじゃなくて教師対策とかいろいろ教えてもらってる」

「いいな、それ」

 私と禎一が話し込んでいると、いつの間にかえっちゃんは奈々美たちに混ざって虫取りをしていた。浩太が木に登ってカブトムシを捕まえている。

「禎一って受かったらうちに来るんだよね」

「そのつもり。高校になったら下宿先探すけどさ。さすがに中学で下宿できるとこないだろうし」

「分からないけど、あったとしてもうちの親も禎一の親も許さないでしょ。あと、高校もうちから通いなよ。家賃だって結構かかるし、一人暮らしって大変だよ。中学より高校の方が成績維持するの大変でしょ」

「いや、さすがに」

禎一が口ごもる。

「水臭いなぁ。気を遣わなくていいのに」

「陽菜は気にしなさすぎ」禎一は呆れたようにため息をつき、「思春期の男女が同じ屋根の下で暮らしてたら変な噂立てられるだろ」

「噂?」

 私はハッとし、顔を赤らめる。禎一は顎に手をかけ、照れくさそうに視線を逸らし「俺はいいけど」と呟いた。その言葉に私は恥ずかしさのあまり下を向く。

「あの話聞いた?」

 俯く私に禎一が尋ねてきた。私は顔を上げられない。何の話をしているのかは理解できる。禎一も聞いているのか。奥座敷で祖母から聞いた話。大人たちが勝手に進めている話。私は俯いたまま頷いた。

「陽菜は嫌?」

 しゃがんだままの禎一が私の隣に腰を下ろした。肩が触れる。私は逃げ出したい衝動に駆られる。どう答えていいか分からずに黙っていると、「俺は嬉しい」と禎一が覗き込んできた。

「てっ、ちょっ」

 思わず顔を上げて両手をついて後ずさると、頬を染めた禎一が苦笑しながら「よかった」と呟いた。

「か、からかったの?」

 声を上擦うわずらせながら私は禎一を睨んだ。禎一は「違う、違う」と首を振り、「言われ慣れてると思ったから。でも陽菜の反応みて安心した」とホッとしたように顔を緩ませた。

「言われ慣れてなんてないよっ」

 私は早口でまくし立てた。この状況が恥ずかしくてまともに話すことができない。目を合わすこともできず、「えっちゃんとこに行く!」と慌てて立ち上がる。

「うん、行こっか」

 禎一も立ち上がる。

「え、ていちも?」

 挙動不審の私に禎一は嬉しそうに笑う。私は居たたまれなくなって走り出した。
















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