靴下を履くまでに

大江文人

靴下を履くまでに

 八時四十五分に一度目のアラームを止めようと、薄く目を開いた。遮光性の高いカーテンは、今日の空が晴れたものか淀んだものかさえ確認できないほど、一つの暗い空間をしっかりと作り上げている。居心地がいいとは言えないこの六畳間も、陽の光に照らされなければ幾分か過ごしやすい。


 十五分の浅い眠りの間に、ひどく嫌な夢を見た。知らない初老の女に付き纏われる夢。

 夢の中の私は、何をしているのかよく分からない中小企業でデスクワークを強いられるOLで、そこで働いている人たちと同様に、それが何なのかも理解しないまま、只ひたすら目の前にあるモニターに数字を打ち込んでいた。社内の空気は重く、全ての窓のブラインドは閉ざされ私の部屋同等に暗かった。そのせいか社員達の表情は良く見えず、皆言葉を交わすこともなくただキーボードを叩く乾いた音が響くばかりだった。

 定時を少し過ぎた頃にぞろぞろと退社していく社員たちの流れに乗って、四階建てのビルディングを抜け出し、国道をひとつ逸れた道を歩いている。私は深く溜息をついて、今日もいるのだろうかと思っているらしい。夢の中の予想が外れることはない。今日も、例に漏れることなく、丁字路にその女がいた。何か声をかけてくるでもなく、ただただ恨めしそうに私の足元を見ては、歯をがちりがちりと鳴らす。そこから私の家路をその女は一定の距離を保ってついてくる。道は閑散としており、五メートルほど離れた女の歯を鳴らす音と、鼻をすする音が聞こえてくる。夢の中の私は、女の付き纏う理由をなぜか知っている。私の靴が欲しいのだ。女の目線が私の足元から離れることはない。履き古したというには少し足りないその靴をなぜ女が求めるのかは分からない。毎度毎度付き纏われるくらいならば、靴を脱ぎ捨てて女に与えてやってもいいものだと思うのだが、夢の中の私がそうすることはなく、オートロック付きのマンションのドアを抜け、エントランスに着いたところで振り返る。自動ドアのガラス越しに、女がこちらを見ているのを確認した私は、なぜか少し口角を上げた。


 九時ちょうどにセットした二度目のアラームによって、私は暗い六畳間に戻ってくる。

 今日は先生にお会いする日だ。もう二度も先生との約束を断り続けている(そのうち一度は事後報告だった)のに、怒る様子もなく、「十一時に駅の裏にあるカフェ・ウフで会いましょう。お話したいことがたくさんあるのよ。そうそう、この間渡そうと思ったシンガポールのお土産のショコラ、腐ってしまったから捨ててしまったの。だってあなた約束の時間になっても来やしないんだもの。電話だって何度もかけたっていうのに出やしない。次はちゃんといらしてちょうだいよ。十一時にカフェ・ウフよ。ちゃんとメモして。忘れては駄目よ」と育ちの良さを感じる口調で電話をして来たのが一昨日のことだ。私に何を話すことがあるというのか。全くもって乗り気のしない、一方的な約束事ではあったが、こう何度も断り続けるのも心苦しい。それに先生には大変お世話になったのだからと、自分自身に言い聞かせる。何時もの私なら何か言い訳を考えるものだが、前回のことを流石に悪いと思ったのか、「わかりました」と言って電話を切った。

 時計は九時二十二分を指していた。約束に遅れては困ると思い、上半身を起こした。ぐるりと首を右に一周回し、貧血でぼんやりと暗くなった視界に、辛うじて部屋の中が分かるほどの光が戻ったところで、洗面所に向かう。ユニットバスの洗面台の床は冷たく、備え付けの鏡は何かが侵食しているかのように縁から黒く変色していて、その役割を失うのも時間の問題のように見える。水垢だらけの先の短い鏡に映る顔は、眠気を孕んだどこか不服そうな表情をしていた。時間をかけゆっくりと歯を磨き、ささっと顔を洗う。

 カルキ臭い水道水でかじかんだ手を揉みながら、リビングに戻り、床に置いてあったくたびれたカーディガンを拾い上げ袖を通し、靴下を手に取る。寒さは足元からくるものだと、神田に住む叔母がよく言っていた。床に落ちていた靴下を片手に、テレビのリモコンを探す。昨日の夜に脱ぎ捨てたままになっていたコーデュロイのパンツの下にそれはあった。電池の残量が少ないのか、ボタンの接触が悪いのか、なかなかテレビがつかない。裏蓋を外し、二、三度電池を外しては付けてを繰り返してみるが、テレビの画面は汚れた部屋にいるくたびれた寝間着姿の自分を写すばかりだった。

 予備の電池をどこにやったかなど覚えているはずがなく、部屋中の引き出しを引っ張り出し、探してみるが見つからない。普段から買ってきたものを片付けることも、使い切ったものを捨てることもしない私の部屋で探し物をするというのは、土台無理な話なのだ。六畳間に仕舞う。ということしかできない私は、分別という言葉をどこかに無くしたらしい。そんな言葉さえこの部屋では探す気にならない。

 とりあえず靴下を履こう。寒さは足元からくると、昔誰かが言っていた気がする。カーディガンの袖で冷えた頬を擦りながら、テレビの前に置いてある安物の座椅子に向かおうとした時、足の裏に鋭い痛みが突き立てられた。痛みを踏みつけた足を反射的に上げ、バランスを崩す。転ぶ体を支えようと、手を伸ばした先が悪かった。カラーボックスの上に置かれたペン立て、そこに立てられた三本の鉛筆、そのどれもが芯を上に向けられており、その全てが左の手のひらに小さな点の圧力をかける。幸いにも、鉛筆の先はどれもが丸みを帯びており、大事には至らなかった。自分の怠慢さに助けられた。ただ、ペン立ては床に転がり、中にあった鉛筆やら判子やらが四方に飛び散ってしまった。その中に二つ、ごろごろと一際音を立てながら転がり続けるものがあった。単三電池。いつこんなところに入れたものか思い出せない。何よりも今私の興味は足の裏に刺さった痛みにある。小動物に爪を立てられたような、ちくりとした痛み、そのが何かを確かめることが、今の最優先事項である。

 痛みを感じたその場に腰を下ろし、足の裏を探ってみると、何か細く硬いものに触れた。その何かは足の裏の肉に、くっきりとした跡を残すくらいにめり込んでいたが、肉の抵抗にじわりじわりと負け、やがてぽろりと床に転がった。それを見て自分の痛みの種類に対する分析力の高さに少しばかり感心した。痛みの元凶は爪だった。昨日の夜に切った右手の爪。何故右手の爪と分かったのか。多くの人が爪を切る際、片方の爪のみを切るということはしないだろう。私も爪を切ることに関して言えばマジョリティに分類される。では何故分かったのか。それは至極簡単なことで、昨日の夜に爪を切った際、右手の薬指の爪だけ、どこかに飛んで行ってしまったのを覚えていただけのことだ。

 「爪だったのか」と思った頃には、もう足の痛みは忘れていた。私はそれを拾い上げ、くるりくるりと指先で回しながら、昨日の夜に見た三日月に似ているなあなどと考えていた。疑問に思うのは、昨日の夜、私は外に出ていない。それどころか昨日一日中、私はこの部屋にこもりっぱなしだったのだ。年間通して出不精な私が、月の形を覚えているとはなんとも不思議なことだと首を傾げ、月のような爪を見つめる。先端恐怖症というわけでもないが、こう尖ったものを見ていると、眉間がむず痒くなってくる。

 高校時代の友人がとんでもない先端恐怖症だったのをふっと思い出した。三角定規が怖いと言っていたのを息ができないほど笑ったのを覚えている。しかし三角定規の三十度、六十度、四十五度に対してとてつもない恐怖心を見せていた彼女だったが、九十度は大丈夫だと言っていたのをみると、先端恐怖症というよりも、鋭角恐怖症と言った方が正しいかもしれない。彼女が恐れていたものでもう一つ随分と笑ったものがある。葉の落ちた木だ。ひょろりとした枝先が見るに耐えないらしく、秋頃になると俯きながら登下校していた。

 彼女の変わった恐怖症を懐かしんでいると、秋の枯れた木の枝を恐れ俯く彼女の歩く道と、昨日の月の形がぴたりと合わさった。そうだ、昨日の夜私は枯れた観葉植物を処分しようと、ベランダに出たのだ。

 いつだったか、神田の叔母がくれたユーカリの木。赤褐色の素焼きの鉢に植えられた四十センチほどの背丈のその木を、「植物でも育てなさい。生活に彩りが生まれるから。植物も育てられないようじゃ人としてまだまだよ」などと言いながら半ば強引に譲り受けたのだ。とはいえ命あるものを無下にするのもなと思い、分からないなりに朝コップ一杯分の水道水を根元にかけてやるようにはしていた。しかし、何をするにもすぐに飽きがくる私だ。水をやるという行為も日課になることはなく、結局数日繰り返したのち、その存在さえ忘れてしまっていた。異変に気が付いたのは一ヶ月ほど前。いつ落としたものか分からないドライマンゴー(元から乾燥したものかどうかも怪しい)が窓のサッシの隙間にころんとあるのを見つけ、拾い上げようと少しばかりカーテンを開けたとき、ベランダのユーカリが枯れ果てていることに気がついた。不思議なのは素焼きの鉢が割れてしまっていたこと。何かがぶつかるにしても、その「何か」はどこにも見当たらない。そもそもこのベランダにものを投げ込む人がいるとも思えず、何が起こったものかと頭をひねっていた折に、神田の叔母から電話があった。母を連れて観に行った舞台の素晴らしさをつらつらと語る叔母の声を遮る形で、変わり果てたユーカリの話をした。叔母の話では、鉢替えをしなかったかのが原因だという。ユーカリは根の張りが強く、定期的に鉢を大きくしていかないと鉢が割れてしまうのだと。鉢が割れた理由がとにかく気になっていた私は、その理由を聞いて胸の支えがおりたのだが、人の話を遮ってまで自分の話をすることが珍しかったのか、余程植物を枯らしてしまったことを悲しんでいるのだろうと勘違いした叔母は少しばかり焦った様子で、「私もしっかりと説明してあげなくてごめんね。幹を少し爪で削ってみなさい。緑色で水分があればまだ生きているから。少し大きめの鉢に移し替えるのよ。大き過ぎてもだめ。分かった?」と続けた。叔母の言う通り、枯れたユーカリの幹を爪で削ってみようとしたけれど、ぱりっという乾いた音をたてて折れてしまった。

 気になっていたことが解決されればもうすっかりユーカリの存在など忘れていた。そして昨日の晩、一ヶ月前に見つけその処理を忘れていたマンゴーに再び出会い、必然とユーカリのことを思い出したのだ。

 爪を指先で回しながら、はて自分は今何をしようとしていたのだったかと思い出そうとしてみた。低所得者向けのアパートの例に漏れず、このアパートも朝晩は随分と寒い。袖のほつれた大きめのカーディガンの袖で鼻をこする。その右手にはしっかりと靴下が握られている。そうだ、靴下を履こうと思ったのだった。

 座椅子に向かう前にカーテン脇にあるゴミ箱に拾った爪を捨てにいくと、ふと私の視線を何かが捕まえる。昨晩乾燥したマンゴーがあったのと同じ場所に、新しい何かがあることに気がついた。それはさっき一瞬の間だけ私の意識をつかんだ単三電池二本。

 そうだ、テレビをつけるのだった。単三電池を指先で拾い上げようとするが、窓のサッシにすっぽりと収まり、回転するばかりでなかなか取り出せない。この家のサッシは単三電池を収めるためにあるのではないかというほど、頑なに持ち上がろうとしないそれらを、サッシの端まで滑らせることで、なんとか拾い上げることができた。四年間住み続け、一度も掃除というものをしたことのないサッシを滑らせた電池は、湿り気のある埃や小さな羽虫の死骸を目一杯大抱えていた。纏わりついた埃を指先で丸め、圧縮し、その塊を床に放り、リモコンを探す。それはコーデュロイのパンツの上、グレーのスウェットの下にあった。座椅子に腰掛け、リモコンの裏蓋を外し、電池を入れ、裏蓋を閉めずに上部の赤いボタンを押す。駅まではどんなに急いでも十五分はかかる。つまり先生との約束を守るためには十時四十五分には家を出なければいけない。テレビに映し出された時計は十時五十二分になっていた。

 十分に余裕を持って起きたはずが、なぜこんな時間になってしまったものかと、頭をひねり、問題点を探してみる。

 外では子供の階段を駆け下りていく音や、年季の入ったスクーターの走る音が忙しなく響いている。テレビには、道行く若者に、今年までにやっておきたいあれやこれやを聞いてまわる若くて清潔感があるが、赤いリップが不似合いな女子アナの姿が映し出され、すぐにコマーシャルに移った。男性用の整髪料や、車両保険、国立美術館で開催される美術展のチケット販売など、要りもしない情報が素早い紙芝居が如く、ぱたぱたと画面の中を流れていた。


 しばらくして、垂れ流しにしていたニュース番組が終わり、続く情報バラエティー番組がオープニングを終え、最初のコーナーであるデパ地下特集に入った頃、ひとつの結論に至った。

 寝るときに靴下を履いて寝ればいいのだ。

 解決案を思いつき、右足の靴下を履いたのとほぼ同時に電話のベルが、窮屈な六畳間に響いた。テレビに映る時計は十一時十五分を指していた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

靴下を履くまでに 大江文人 @ayatooe

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ