第33話

その時の押谷教職員は、何やらにやにや笑いを顔に貼り付けながら、私の方へと近寄って来ました。押谷教職員は、客観的に見れば、それほど見苦しくない、見方に拠りさえすれば、むしろ整ったとも言える顔立ちでしたけれど、その時ばかりは、少なくとも私の目には、この上ないくらい醜悪に映りました。

私がその時押谷教職員から何を言われたかってことは、正確なことを逐一再現する技術も、その意志も、それに気力も、今の私にはありませんけれど、…要約しますと、その日の数学の授業の間中、私の態度に落ち着きが見られなかったこと、特に、その日は掃除当番に当たっているにも関わらず、教室内の掃除もまともに終わらないこの時間から、何やら慌てた様子で学校を出て行こうとしていることを挙げて、教師の役目で調べるから、生活指導室まで一緒に来い、…って言って、私の方に腕を伸ばしてきました。

私はその時、押谷教職員の態度、…その得体の知れない気色の悪さに、総身の毛がぞっと逆立つのと同時に、これは、単に「お役目大事」だけ…なんていうものではない、という、異様な「匂い」のようなものを嗅ぎ取りました。その匂いが何なのかは、その時にははっきりとは分かりませんでしたけれど、このまま唯々諾々とこの教職員に捕まって、生徒指導室なんぞに連れて行かれたら、自分は確実に大変なことになる、ということは、本能的に察知できました。通学鞄の中に念入りにしまい込んである巾着袋の、その中身のことも勿論でしたけれど、押谷教職員からは、それよりもっと深刻な、…言うなれば、私に対する「積極的な悪意」の匂いがしていました。その匂いは、私が昔、母と二人で暮らしていたマンションを飛び出す直前に、母の相手の男から嗅いだ匂いに近しいものでした。

私は咄嗟に、押谷教職員の伸ばしてきた腕を掻い潜るようにして、身体ごと飛び退いて避けると、思い切り、出来る限りに張った声で、先生、ご機嫌良う!…って、うちの学校のお仕着せの挨拶でしたけれど、目眩ましの煙玉みたいに投げ付けておいて、相手が呆気に取られるのを尻目に、お姉様方、恐れ入ります!って、箒を手にこちらを見ていた「お姉様方」の間を早足ですり抜け、速度を早めて、学校の、矢鱈に装飾の多い門柱の間を走り抜けると、そのままの勢いで学校から、文字通り離れようとしました。

学校の門を抜けようとした辺りで、後ろから「こら、待て!」っていう、押谷教職員の、いつもの甲高さに加えて、妙に裏返った声がしました。今思うと、私のような、一見真面目だけが取り柄のような生徒が、権柄づくで決め付けられて、黙って従わないどころか、まさか踵を返して逃亡を図るなんぞとは、全く想像もしていなかったのでしょう。私は内心、待てと言われて待つものか!と唱えながら、駅の方向に向かって走り出しました。

いくら身軽な学齢期の子供とは言っても、こちらは女の脚です。すぐにも追い付かれて襟髪を掴まれる、と覚悟しましたけれど、校門から五メートル程走ったところで、校門の辺りでどっと大勢が囃し立てるような声と、続いてカメラのシャッター音が複数、それに押谷教職員の、「お前らぁ!!」っていう、少なくとも私に対するものではない、そして一層裏返った怒鳴り声が聞こえました。思わず振り返ると、校門のところで派手に這いつくばった格好の押谷教職員が、箒を手に、遠慮なく笑いながら遠巻きに眺めている高等部の「お姉様方」に向かって怒鳴っている光景が目に入りました。「お姉様」の何人かは、どうやら携帯電話を片手に、押谷教職員の、地面に這いつくばった姿を写真に収めるのに成功したようで、当の押谷教職員は、彼女達に対して、無差別かつ無闇矢鱈に怒鳴り散らしているようでした。更には、押谷教職員の視界から外れた辺りにいる「お姉様」の何人かが、私に向かって「早く行きなさい」とばかりに手を振っているのを見て、私は彼女達に向かって頭を下げて、再び走り出しました。

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