第15話
私、やっとの思いで、自分の左腕だけに祖母を掴まらせて、ポケットから何とか携帯電話を取り出して、救急に通報しました。携帯電話は自分の体温で温かくなっていたのに、その時の私の右手の指は異様に冷たくて、しかも何だかひどく強張っていて、いつもの自分の右手のはずなのに、全然言うことを聞いてくれなくて、救急の番号を打ち込んで通話ボタン押すっていう、たったそれだけの作業なのに、物凄く難儀したのを覚えています。
通報を終えて、ポケットに携帯電話を仕舞って、救急の方が到着するまでの間、私は、ただひたすら、大丈夫、大丈夫だから、って、呪文を唱えるように繰り返しながら、空いた右手で、ずっと祖母の背中を擦り続けました。その間、祖母は、うわ言みたいに私の名前を呼び続けながら、溺れかかった人がそばに浮いているブイか何かに掴まるみたいに、私の左腕を掴んで離しませんでした。
随分長く感じましたが、きっとそれほど経っていなかったのでしょう。サイレンの音が近付いて来て、うちのすぐそばで止まりました。続いて慌ただしい気配と一緒に玄関のチャイムが鳴り、間を置かずに「立花さん!?」と言う声とともに、戸が叩かれる音が聞こえました。
私は、難破船から脱出する人みたいに、祖母に声を掛けて、抱き抱えて立たせ、そのまま玄関に向かいました。抱き抱えた祖母の体は、まるで骨と皮ばかりで出来ているかのように、何だか妙にすかすかと軽い手触りで、これがあの私のお祖母ちゃんかと思って、何だか背筋が寒くなりました。
私は先に立って土間に降り、自分は突っ掛けを、祖母には私の、突っ掛けて履くことのできるスニーカーを夢中で履かせて、玄関を開けました。いつもの祖母なら、「こんな不粋なもの、嫌だ」くらいのことは言いそうなものなのに、その時の祖母は、一言の文句も言わずに、私にされるままになっていました。
救急の方は、門の前にストレッチャーを待機させていました。祖母をお任せして、簡単に状況を説明して、私も車輌の方にって言われたので、貴重品取ってきます、って、家の中に戻ろうとすると、そんなものは後でいい、とにかく早くって…。私は、じゃあ鍵だけでも、って、台所の茶箪笥の引き出しから、玄関の鍵と、一緒の引き出しに入っていた、いつも祖母が買い物に持って行くお財布、それと、祖母の保険証を取り出して、それを、こちらも祖母が買い物の時に持ち歩く手提げ袋に念入りに仕舞って、それから、玄関のコート掛けから自分のコートを二枚取って、玄関の灯りを点けて、ちゃんと灯りが点いたのを確認してから、今度は自分の紐なしのスニーカーを履いて外に出て、鍵を締めました。
雨戸は、先ほど私が立てて回ったばかりでしたし、それに真冬の二月のことで、家の窓はどれも閉め切られて鍵が掛かっていたので、他の戸締まりの心配のないのだけが幸いでした。
明滅する赤い灯りを頼りに、私が駆け寄って行くと、救急の方が「早く!急いで!」って…。私が乗り込むのとほぼ同時にドアが閉まって、すぐに救急車は発信しました。
けたたましくサイレンが鳴る中で、祖母の「…葵、…葵…」って言う声が、妙にはっきり聞こえました。私は慌てて腕に抱えていたコートのうち、腰下丈のダウンのコートを祖母に掛けて、もう一枚の、比較的布地の硬いダッフルコートを自分で羽織って、差し出された祖母の右手を、自分の両手で握りました。
祖母は、いつもの半纏を羽織っていましたし、既に救急の方に毛布を掛けて頂いていましたが、いくらかの気休めにはなるだろうし、それにダウンのコートは、祖母を連れて帰る時にも、膝掛けとして使えるだろうって思いました。
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