第14話

あの日、祖母の具合が悪くなった日のことは、異常にはっきり覚えています。大学院一年目の冬、私が二十三になる直前で、ちょうど建国記念日だったことまで覚えているんです。私、自分の二十三歳の誕生日のことなんか、ひとつも覚えていないんですけれど、…当然ですよね。本当に、あの日を境に、それまで私が当たり前だと思っていた生活の、その何もかもが、丸々全部ふっ飛んでしまいましたから…。だからこそ、なのでしょうか?あの日のことだけは、脳内に映像データを焼き付けでもしたかように、それはもう異様なくらい鮮明に、はっきりと覚えています。

夕方四時過ぎ、って言うよりも、もう五時近くのことでした。表はそろそろ夜になりかけていて、私は、取り組んでいた課題を一区切り付けて、家中の雨戸を立てて回った後、冷蔵庫の前で夕飯の献立を考えていたところでました。

…ええ、その頃、もう祖母は、台所に立つのも億劫がっていました。それだけじゃない、お稽古を付けるのも本当に大儀そうで、新しいお弟子さんも、お断りしたり、別の方に紹介したり…。

私、病院で診てもらえばって、それまで何回か口に出したこともあるんですけれど、…病院嫌いの祖母は、その度に笑って「大丈夫、年のせいだから」って。

私も、そう言って笑う祖母の首根っ子掴んで、引き摺って病院に連れて行くほどには、勇気も度胸もありませんでしたし、ついそのままにしていたんですけれど、…今思えば、早いうちにそうしておけば良かったって…。

すみません、愚痴になりましたね。…とにかく、そう言った事情で、私が台所にいた時のことでした。お手洗いから、「…葵、葵、来とくれ!」って、祖母の声がしました。何事かとびっくりして、私が慌てて飛んで行くと、裾もまともに整えていない祖母が、冷たいお手洗いの床に蹲っていました。

…ええ、祖母は多分、必死でお手洗いの鍵を開けて扉を開けたその上で、私を呼んだんだと思います。今から思うと、良く出来たな、良くそこまで気が、頭が回ったな、って…。鍵の掛かったお手洗いで倒れて、鍵を開けるのが間に合わなくて、手遅れでそのまま亡くなる方、少なくないらしいですね。

それはともかく、私が、お祖母ちゃん、どうしたの!?…って、顔を覗き込もうとしたら、「…何だかおかしいんだ…。こっちの目の前が真っ暗なんだよ…」って言いながら、自分の左目を示して、「…葵、何処にも行かないどくれ、後生だから…」って、伸ばしたままの私の右手にすがりついてきました。

その時私の頭の中をよぎったのは、『太功記』の十段目、俗に言う『太十』の十次郎…ごめんなさい、お分かりになりませんよね?…え、ご存じなんですか!?…ええ、初陣で大怪我、と言うより、致命傷を負った光秀の息子、若武者の十次郎が死んで行く場面です。その十次郎が死ぬ前に叫ぶんですよね、『もう目が見えぬ』って…。正確な演出は違ったかも知れないんですけれど、客席にいた私には、悲痛な叫びにしか聞こえなくて、それこそ、『ハムレット』の大詰よりも、ある意味悲痛で生々しい、と思った覚えがあります。…ごめんなさい、呑気に脇道に逸れている場合ではありませんでしたね。

とにかく、私はその時、このまま祖母が死んでしまうと思いました。大丈夫、何処にも行かない。電話して救急車を呼んで来るだけだから、すぐ戻るから、って言っても、耳に入っていないみたいで、ただ「…葵、葵…」って、私の名前を呼びながら、余計にすがりついてくるんです。

そこでやっと私、ポケットに携帯電話…スマートフォンを入れてあったのを思い出しました。気が動転するって、ああいうことを言うんですね…。あの時まで、私、自分では、本質的には割と冷静、というより、はっきり言って非常に醒めた、…歯痛が酷いと、歯の神経を取りますよね?あんな具合に、私の場合、父と母の両方からいらないって言われた時に、その痛みにまだ子供だった頃の私が耐えられなくて、感情を感じる機能を自分から止めて、結果そういう感覚が極端に退化した、ちょうど『オズの魔法使い』のブリキの木こりみたいな人間だって思っていました。…いえ、ブリキの木こりと違って、私はそれで構わないって…。感情は、自分にとってはむしろ邪魔なものだ、祖母と、祖母が大切にしているあの家、…「立花家の血筋」なんていう大時代なものなんかじゃなくて、文字通りのあの家、私が今住んでいる場所の、その家と土地とを、問題なく維持していくための冷静な判断力と充分な行動力さえあれば、人間として欠陥品でも一向に構わない、何しろ自分は、あの家から一瞬出た外の世界では、祖母以外の全人類にとっては、「いらない子」に他ならないんだからって…。

……ええ、でも、…こんなことを申し上げると、お言葉を返すようで本当に申し訳ないとは思いますけれど、その「『いらない子』なんていない」っていうお言葉は、私にとっては単なる建前でしかないんです。何しろ七つの時に、両方の親から棄てられるっていう体験をしているものですから、それは一生消えない古傷、っていうより、もういっそ呪いみたいなものなので…。ですから、私は感情の欠落した「ロボット」で構わないと思って、そういう風に在ろうとしてきましたし、実際そうやって生きてきたつもりでした。でも、…そういう人間でも、例外の場合はあるんだなって、後からですけれど、そう思いました。

…ええ、そうですね。本当に、セルフイメージなんてあまり当てにはならないものですね。

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