第8話

その晩以来、私は祖母の家に厄介に、…って言うと、今の状況から見れば少し変ですけれど、今に至るまで、あの家に住み続けています。いえ、…正確には去年の、春の半ばから夏の初めにかけての数ヶ月を除けば、ですけれど…。そうですね、無事…とは言えませんけれど、何とかあの、大切な思い出の数々が詰まった、大好きな祖母の家に戻って来られて、本当に良かったと思っています。

隣町のマンションに残された私の荷物は、ランドセルと教科書やノート、筆記用具、それに最低限の着替えを除いては、私が年度末の終業式を迎えた後で、祖母が母に言って有給を取ってもらって、二日ほど家に居てもらい、祖母と私、それから、祖母の妹の孫、…私にとっては又従兄に当たる人が、ちょうど大学の長期休暇で、軽トラックを借りてきてくれたので、私の荷物を片端から祖母と二人で段ボールに詰めて、宏孝さん、…その又従兄です。宏孝さんに軽トラの荷台に詰んでもらいました。

有給とは言え休暇の最中だと言うのに、母は、ダイニングテーブルの周りをうろうろ歩きながら、誰かと携帯電話でやり取りしていたかと思えば、唐突にがばりと椅子に腰掛けて、広げた資料を繰り、自分の目の前のノートパソコンのキーボードを操作する合間に、誰に言うともなく「ただでさえ年度末で忙しいのに」って溢してましたけれど、祖母の「誰のせいだと思ってるんだい」という一声で黙り込んでしまい、しばらくただひたすらキーボードをカタカタと弄っていました。私には、そんな母が、もうすっかり懐かしさも親しみもない赤の他人に見え、そして、そのこと自体に、乾いた北風が吹き抜けるような、妙にすかすかした痛みと悲しみを覚えて仕方なくて、その感情を押さえつける、と言うよりは、その感情自体をなかったことにするために、ひたすら手元の作業に没頭していました。

最後の段ボールを宏孝さんが軽トラに運んで行った後、祖母と私が、片付けやら掃除やらの後始末を終えて、自分達の身支度に掛かった頃に、母がふらりと言う感じで、自分のマグカップを片手に私達のところにやって来て、部屋の入り口の扉の柱に背を凭れさせて、母の視線から顔を背けるように黙々と支度をする私の方を、コーヒーを啜りながら眺めていました。

祖母は、自分の身支度を済ませると、同じく身支度を終えた私を母の前に押し遣って、「葵、仮にもあんたのおっ母さんだ。今まで育てて貰ったお礼だけはちゃんと言いなさい」って、静かでしたけれど、決して私の反抗を許さない、ずしりと重みのある口調で命じました。私が口の中でもごもご言って、母に頭を下げてみせると、母は、ほんの一瞬だけ、自分の中に存在する感情に困惑したような顔をしていましたけれど、すぐに私の頭に自分の右の掌を置いて、「体には気をつけなさいよ。風邪は万病の元なんだから。特にあんたは、ちょっと風邪引いただけでエラいことになるんだから…。あと、お祖母ちゃんに迷惑は掛けないのよ」って、何だか、私を春休みに祖母の家に預ける時にでも言うようなことを言って、怒ったような手付きで私の頭をくしゃくしゃと撫でて、それからくるりと私達の方に背を向けて、変に肩の怒った大股歩きで一直線にテーブルの椅子に向かって行って、それに腰を降ろしてノートパソコンに相対したかと思うと、鬼のような勢いでキーボードを叩き始めました。祖母はそんな母を尻目に、私の髪を手櫛で梳いて整えると、私を促してそのまま玄関に向かい、私達はそれぞれ履き物を履いて部屋の外に出ました。ドアを閉める間際に、祖母が「鍵、ちゃんと掛けなさいよ」って掛けた声に、「わかってる!」っていう、ほとんど怒鳴るような母の声が応じて、そのやり取りを耳の端で聞きながら、私は祖母がドアを閉めるのを待ち、それから祖母に手を引かれてエレベーターに向かいました。祖母が閉めたドアの向こうから、あれは多分母の、…妙にくぐもった、何やら獣の呻くような声が聞こえたような気がしましたけれど、でもそれは、当時、八歳の誕生日を祖母の家で迎えて程無かった私の、単なる空耳だったかも知れません。

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