第7話
そんな小二の冬の、とある土曜日の日暮れ過ぎのことです。夕食を、その母の再婚相手と囲むことになりました。なるべく同席していたくない私は、ひたすら母にくっついて、配膳を手伝っていました。それを、繋ぎのビールを飲みながらにやにや笑って見ていたその男が、「葵ちゃんはいいお嫁さんになるなあ」って言いながら手を伸ばしてきて、私の背中を撫でたんです。
私、意味が分からないなりにぞっとしました。反射的に男の手を振り払って、母の背中にしがみついて身を隠して、母の後ろから顔だけ出して、精一杯声を張り上げて、小父さんなんか大っ嫌い!私からお母さんを取り上げておいて!今すぐこの家から出てって!!って、無我夢中で相手に向かって叫び立てました。ちょうど、生まれて初めて蛇に出くわした子猫が、相手の正体を知らないながらに、必死で全身の毛を逆立てて威嚇する、あんな感じでした。
当然の反応かも知れませんが、男は「この餓鬼!生意気言いやがって!」って激昂して、…母はただただ、「あなた!?葵!?」って、ひたすらおろおろするばっかりで…。
何度も申し上げた通り、当時の私はほんの子供でしたけれど、それでもその時、その家、…物心のつかない前からずっと、その日まで暮らしてきた、そのマンションの一室と、それから、…幼い子供なりに大好きだった私の母の、この先の人生には、少なくとも、今までみたいな自分の居場所はもうないんだって、それはもうはっきりと悟りました。
私、自分の部屋から、さっき脱いだばかりの上着とマフラー、それに、その頃、祖母に貰って、気に入っていつも持ち歩いていた巾着の手提げに、身上…全財産の入ったお財布、…お財布ったって小銭入れですけれど、それだけ放り込んで、靴を突っ掛けて家を飛び出しました。食べ盛りのことで、お腹が減って、正直目が回りそうになりましたけれど、それでも子供ながらに必死で気を張って、隣町、つまり、この町を経由するバスに乗って、馴染みのバス停で降りて、ひたすら祖母の家、伍代さんが先ほどいらしたあの家を目指しました。
私が玄関の戸を叩いて、お祖母ちゃん!!って叫んだら、ほとんど間を置かずに突っ掛けを履いた祖母が出てきて、物も言わずに抱きしめてくれました。普段、唯一の孫だからって、無闇に甘やかしたりする人じゃなかったのに…。
それから祖母は私を抱えたまま、玄関先の電話機の、外してあった受話器を取って、まず一言、抑えた口調で母の名前を呼んで、「葵はね、本日只今から、私が引き取って、責任持って育てるから。お前、あの男には、今後葵に近付きでもしたら、まずこの私が一切、…それこそ微塵も容赦するつもりはないって、そう言っときな!」って、叩き付けるように言うなり、返事も聞きたくないっていう勢いで通話を切りました。いつも折り目正しい祖母には滅多にないことです。私…ここに、お祖母ちゃんのこの家にいてもいいんだ、良かった…って思って、ほっとして気が抜けたついでに、初めて頬に温かな涙が流れたのを記憶しています。それとほぼ同時に、私のお腹が盛大に鳴って、祖母が「まあまあ、あんたは」って大笑いして、肉じゃがだったか、それとも小芋の煮っ転がしだったか、とにかく有り合わせのおかずでしたけれど、温かいご飯とお味噌汁とで食べさせてもらって、…炊飯器に残ってたご飯がほとんど空になるくらいお代わりをして、祖母がお給仕をしてくれながらの、「こりゃ竈返しだね」っていう、その、呆れたって言わんばかりの声と、苦笑いの表情までもが、今でも温かな記憶として残っているんです。
…その男、ですか?二年ほど母と暮らしていたらしいですが、どうやらあちこちに不義理をしたらしく、その、…若い女性と駆け落ちしたそうです。母と暮らしている間も、半分ヒモのような生活状態だったようで…。そんな男に引っ掛かる母も、…いえ、今の私には、母のことは言えません。
……あ、…ええ、そうですね…。確かに、私があの家で、母やあの男と一緒に暮らしていたら、そのうち、本当に私の身が危なくなったかも知れません。そう言う意味では、私を引き取ってくれた祖母と同時に、それ以降、私を一切、祖母のところから連れ戻そうとはせずに、…これは、祖母が亡くなった後で知ったことですけれど、私の養育費を、父からの分も合わせて、毎月祖母に渡してくれていた母にも感謝です。……もしかしたら、それが、自分の大事な男を、他ならぬ自分の娘に奪われたくないっていう、多分に利己的な考えから出たことであっても。
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