潜む黒光りに、眇眇たる羽音を重ねて


「先輩〜。そろそろ殺虫剤でも導入したら、どうなんですかー?」


 コレットはそう言いながら、焼きたてのパンにかじり付く。ここは街の酒場。外は夜空が広がり、戦士や冒険者達が集って酒や食事を手にして今日の疲れを吹き飛ばそうとしていた。


「……それは、虫を見つけた前提で使うものだろう。全力で却下する」

「えぇー……ッ⁉︎ 薬草調合した煙幕で、まとめてコロリですよぉ!」


 ガルフは木のジョッキでグビリと酒を流し込み、平静を装う。酒場が似合う屈強な男が口で虫如きに怯える姿に、コレットは房状の果実を一つ一つ摘んで口に放り込んでは呆れ果てる。


「先輩のご先祖にもなってる、森の鳥達を見てくださいよ! 日々、羽虫をムシャムシャ食べてますよ!」

「ウォエェッ、飯時にそんな話を持ち出すなッ!」

「だいたい先輩のせいで、竜討伐大失敗しちゃったんですからねぇ!」


 それについては何も言い返せないのか、ガルフは酒を口に運び視線を逸らす。虫数十匹がその場にいただけで何も手が出せず、手柄を他人に譲る形となってしまった。なんとも情けない話である。


「ぐ……虫さえ、いなければ……!」

「はぁ〜……とにかく、明日もまた竜討伐の依頼なんですからぁ、虫で動けなくなる前にチャチャッと倒しちゃって下さいねぇ!」

「分かっている、明日は油断しない」


 ガルフは酒を飲み干して、ガコンとジョッキをテーブルに打ち付けた。それを見たコレットはジト目でしばらく見つめた後、その覚悟を確かめようと片手で頬杖を付いて言った。


「先輩」

「なんだ」

「今、私の足元にゴキブリが通り抜けたよ」


 シュッとガルフが座っていた椅子の上に、手足を乗せたのは一瞬だった。足場が消えていく流氷の上にいるかのように身を寄せ、視点は床に集中する。飲食店を脅かす害虫の行方を探そうと、眼球があちらこちらへ向く。


「どどッ……どこにいる⁉︎」

「もぅーッ! なぁんで、あんなちっちゃいのが怖いのさぁ⁉︎」

「怖いんじゃない! 生理的に受け付けられんのだ!」

「私もあの黒光りは、好きじゃ無いけどー……あっちから噛み付いたり襲ったりしないのに、そこまで嫌がるもんなのぉ?」

「存在が不快だ! 蠢動しゅんどうする触覚、予測出来ん動き、神出鬼没に羽を広げ、安易に死なん不屈の生命力——全てが、ありえん!」


 ガルフは他の客の目線そっちのけで手足を狭い椅子の上に乗せたまま、接近してくる黒き害虫の行方を探す。ギルドから勇猛な戦士と評される男とは思えない震え上がりに、コレットは面白みを感じているのか揶揄からかおうとする。


「あっははは! 一生懸命ガーゴイル座りしてて、おもしろーいッ!」

「笑い事じゃないッ! もうこの店にはいられん……宿に帰るぞコレット!」

「えぇーッまだ食べ終わってないよーッ! あ。天井に這ってるゴキブリがいる〜」

「いやぁああああッ!」


 渋い声質から遂にメスの声が上がる。幸い、華奢きゃしゃな叫びは酒場の騒ぎに溶けたので、それがガルフから放たれたものと誰も気が付かなかった。


「すッ、姿が見えんッ! 本当にいるのか⁉︎」

「もぐもぐ……気配はするから、絶対いるよ〜。そもそも酒場なんて、何百匹も潜んでるもんだし今更じゃなーい? んん〜……このパイ、おいひぃ〜!」

「物陰に潜むのは構わんッ! だが——俺の視界に入るのだけは、断じて許さんッ!」

「ふーん、とりあえず今は天井にも床にもいないっぽいから、ちゃんと座りなよ〜せーんぱい♪」


 きゃはッとコレットは能天気な笑みを浮かべ、焼きたてのパイを食べ進める。しかし、ガルフには深刻な問題なのだ。床と天井を交互に見て、警戒を続ける。


「ていうか、視界に入るなって言っといて、自分から探すの矛盾してなーい?」

「確実に害虫を、始末する為だ!」

「店員さんに退治して貰う為だけに、必死過ぎですよ先輩〜!」


 全神経を集中させてゴキブリの姿を特定しようとするガルフを面白がっていたコレットも、流石に見飽きてきたのか手元の料理を全て食べ終わると椅子にもたれ掛かった。


「前から言ってるけど、虫退治出来る人を仲間にしたら解決じゃなーい?」

「それは俺も考えた——だが、実戦に怖気付く者しかいない」

「確かに〜。生身で竜退治したり、魔物の軍勢壊滅させたり、私達の依頼どれもすっごいもんねーッ!」

「ふん——ギルドは軟弱者ばかりだ」

「ごちそーさま! あっ小蝿だ」

「ヒィッ! なんなんだこの店はぁッ!」


 今度は的確な指摘だった。テーブル上にある空っぽの皿に小蝿がプーンと二匹飛び込んできた。軽く払い退けるか、無視で済ませる小さな虫でさえ、ガルフは——無視むしできない。横切った男性店員の肩を掴み、殺意を込めた表情で迫る。


「おい、会計だ。さっさと食器を片付けろ」

「ひッ……しょッ承知致しました!」

「見ろ、小蝿が飛んでいる……飯と酒が不味くなるから、今すぐ害虫駆除をしろ。徹底的にだ——ッ!」


 二メートル近い獣人の気迫に男性店員はじわぁ涙を目に溜め、腰を抜かして頷いた。恐怖のあまり声も出ない店員を放置して、満腹のコレットにガルフは首で合図する。時々寄ってくる小蝿に焦りを見せながら。


「戻るぞコレット、宿屋ぁあッッ⁉︎ にな!」

「はーい。ぷひー、おなかいっぱーい!」


 ガルフはテーブルに食事代金の金貨をジャラッと置くと、愛用している棍棒を腰布に装備してルンルン歩くコレットと並んで歩く。


「そーいえば、先輩。私達がコンビになるきっかけって何でしたっけー?」

「瀕死の俺を、戦争孤児のお前が全快させた。……だから、コレットには恩を返さねばならん」

「でしょー! だから一生楽させてくださーい!」

「楽をしたけば、虫を消滅させる魔法を編み出せ」

「えー、それ即死の呪文って奴だよねー!」

「出来れば、死体も残さぬ奴が好ましい」

「うーん……でも呪文の勉強きらーい! 魔法教本も文字ばっかりでつまんなーいッ!」


 父と娘の様に会話を交わすガルフとコレットは、そのまま酒場を退店した。未だに皿が片付かない席の床で、腰を抜かしたままの男性店員にウエイトレスのエルフが駆け寄る。


「大丈夫ですか! お客さんに、何かされたんです?」

「す……ッ、すまん……相変わらず、竜並みに恐ろしい男だ……ガルフは」


 エルフに支えられながら男性店員は立ち上がると、テーブルに残された食器をカチャリと片づけ始める。酒場の騒ぎに紛れる様に、店員同士の会話が始まる。


「あれが、最強の竜弓類りゅうきゅうるい——ガルフさんなんですね。棍棒一つで、自然災害級の魔物を捩じ伏せるって噂の……」

「ああ、獣人の中では間違いなく世界最強だろう。だが、付き人のヒーラーもとんでもないだけどなぁ」

「そうなんですか? とてもそんな風には、見えませんけど……」

「死者の蘇生から、即死の呪文まで扱える白魔術界の天才だ——あののご機嫌次第で、都市を一つ滅ぼせるし、墓場から街を作れるとまで言われている」

「うわあ……まさに、最強の組み合わせですね……」

「危険な仕事押し付けてる事で、好き勝手しない様にギルドは抑制してるそうだが……あの人達を大人しくさせるには、どうしたらいーんだろうなぁ」


 酒場の店員達は、愚痴愚痴と食器を片付けていく。テーブルに群がる小蝿、店の陰に潜むゴキブリ。それらが最強コンビの抑止力になるとは——誰も知らないのだ。

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