第5話 新婚
「近江、今日の夜時間ある?」
「え、なんでしょう」
「久々だから、ちょっとどうかなって。課長も一緒だけど」
仕事先で先輩の吉崎さんが、飲みに行くジェスチャーで問いかけてきた。
「あぁ、ごめんなさい。ちょっと今日も帰らないと」
「なんだよ、冷たいなぁ」
「あぁ、ダメダメ吉崎。コイツは新婚で嫁さんにデレデレなんだから」
課長の西村さん。結構理解のある上司で、飲みに行くこと自体は嫌じゃない。
「え、まだ新婚なの?」
「あはは、まあ一応」
「ほら近江、スマホの画面見せてやれば? LIMEも全部、嫁さんとのツーショット。今時こんな愛妻家珍しいだろ」
「はー……よくやるなぁ……え、何? お前嫁に脅されてんの?」
「いやいや、違いますって。まあ、惚れた弱みですよ」
「うっわー! ダメだダメだ、こんな奴飲みに連れてったら酒がまずくなる! 行きましょ課長!」
「ってわけで、悪いな近江。グチグチ言ってるけど、こいつ最近彼女と別れたからさ。またそのうち付き合ってくれよな」
「あ、はい、すみません! 是非次回、お願いします」
そう言って一人帰路に着く。
「ただいまー」
「おかえり。あれ、今日飲みに行くとか言ってなかった?」
「いや、断ってきたよ」
「え、別に行って来ても良かったのに」
「まあ断れる雰囲気だったから。それに、今日は元々回鍋肉作ってくれるって聞いてたし」
「そう? でも、確かに食べてもらえるの期待してたかも」
「そうでしょ?」
スーツを着替えて、その間に用意される食事。時間が合えば彼女が食事を作ってくれるし、彼女の方が料理は圧倒的に美味しい。
「やっぱり美味しい、楓の手料理」
「……なんか」
「うん?」
「晃さんって、普段結構ポーカーフェイスなんだけど、食事の時だけ表情豊かになるんだよね」
「え、そうなの?」
「気づかなかった?」
「うん。だって職場でも言われないし」
「きっとみんな思ってると思うよ」
「いいや、多分楓の手料理の時だけだと思うなぁ。こんな美味しいの、外で出たことない」
「大袈裟だよ」
「ううん。言うなら、愛情含めて」
「ふーん? まあ、素直に受け取っておこうかな?」
彼女がふふん、とわざとらしく笑うのが愛おしくて仕方なかった。
同棲してから今日までの日課、二人してソファに座ってその日の報告をすること。
彼女はあまり愚痴を言うタイプではなかった。どちらかと言うと周りの愚痴を聞いてあげるタイプ。そういう不満を言わずにしていたのが、この日課になってから少しずつ出るようになって、それが彼女自身も驚きだったとか。
でも、それが彼女の感性だったり、価値観だったり、自分と違うところを知れて、僕はとにかく嬉しかった。
話を聞く間も、隣で肩を寄せて、時には髪を梳いて、香ってくる彼女の匂いを感じて、そのまま体に触れることもある。
お風呂上がりの彼女の髪を乾かすのも好きだった。長くて黒い髪の毛が少しずつ乾いていく。乾くまで自分の何倍も時間が掛かるけれど、その分艶やかで美しい髪。女性にとって大切なそれに触れることを許されて、目の前で無防備な彼女が無邪気に今日のことを語っているだけで、愛おしくて堪らない。
髪を乾かし終わったら自然と照明を消して、彼女を愛情の赴くままただひたすらに求めることも、日課になっていたかもしれない。
セミダブルのベッドで二人、裸で寝そべりながら話すのも大切な時間で。
「……楓が好きだなぁ」
「何、急に」
「ううん、余韻がね」
「そういう言い方しないでもらえるかなぁ」
「ごめん。でもさ、幸せなんだ」
「まあ、それは私もそう」
「遠距離の時は考えられなかったから」
「それは私もそうだよ」
彼女は仰向けからうつ伏せに体勢を変えて、こちらを見ていた。
「まあね。でも、遠距離からやっとこうして、二人で当たり前のことができるようになって、ようやく幸せだなって」
「そうだね。でも、まだまだ幸せなことたくさんあると思うよ?」
「そうだろうけどね。今で両手いっぱいって感じだ」
「じゃあ、溢れないように乗せていかなくちゃね。映画も行きたいし、有名イタリアンも行きたい。家の模様替えとか……あ、母校巡りとかしたいなぁ」
「いいね。一個ずつやっていけたら」
「あ、そういえば……」
「うん?」
彼女が何か言おうとして、留まった。
「ううん、なんでもない。それより最近冷えるね」
「確かに、毛布二枚じゃ心許ないかも。乾燥するかもしれないけど、ちょっと暖房——」
と、ベッドから出ようとして思い切り引っ張られる。
「鈍感は変わらないね、晃さん?」
「……あぁ、その。愛が重い分、鈍いんだよきっと。でも、楓から言って欲しくてわざとやってるかも」
なんて、減らず口を彼女が塞いでくる。二人でいる間、寒い夜なんてなかった。
だから、彼女が病院から帰ってきて、笑顔を浮かべられず、暗い顔をして。
僕に封筒を渡した時、初めて頭の中が凍りついた。
突然こんな日が来るなんて。
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