第8話


         ※


「ん……」


 セーフハウスの玄関を潜るなり、菅原は微かに鼻をひくつかせた。

 鉄臭さと生臭さ、それに火薬の匂いの混ざった独特な空気が鼻腔を満たす。


 もっとも、地下十メートルの、それも金属壁で覆われた空間から漂う死臭を感知できる人間は、この業界にもほとんどいないのだが。


 するとちょうど、横に広がった廊下の向こうから誰かの足音が響いてきた。

 きっとゴンちゃんあたりかしらね。

 そう見当をつけながら、菅原は自分の得物――大振りの日本刀を床に置き、近くの椅子に腰かけた。


「姐さん、無事かい? 罠だったんだろ、今回の武器の受け取りは?」

「ええ、そうですよゴンちゃん。一応返り討ちにはしておいたのですけれど」

「返り討ちって?」

「取り敢えず、五体満足の人間は現場に残してきませんでしたわね」

「そうか」


 とんだ化け物の下で戦ってるんだな。

 それが、権田の偽らざる本音だった。自らも菅原の正面の椅子に座る。


「あ、そういえば連絡届いてるか? 処刑室でのことだが」

「連絡は承っておりませんが、大体の見当はつきます」

「ま、俺も一歩遅れて処刑室に入ったもんで、その瞬間は見てねえんだが……」


 後頭部をがしがし掻き回す権田に対し、菅原は冷静そのもの、といった顔つきでテーブルに肘をついた。掌を頬に当てる。


「若いっていいわね、この世界に本当の正義があると信じて生きていられる」

「そいつぁもっともな話だ。だが、そんな理想ばかり掲げていたら、結局命取られるのは自分だぜ」

「そうよね。タっちゃんやミっちゃんを引き取った時は、それほど苦労した記憶はないけれど」

「そうかい? 安野の野郎はともかく、帆山は精神錯乱気味だったけどな」

「それもまた性格の一部みたいなものよ」


 菅原はテーブルに置かれていた飴玉を摘まみ上げ、包み紙を解いて舌の上に載せた。


「で? これからどうするんですかね、司令官殿?」

「このセーフハウスを今のタイミングで手放すのは惜しいわね。暴力団同士の闘争、という線で警視庁と警察庁には対処してもらうわ」

「今回は国土交通省への根回しはなくていいのか?」

「なんとかなるでしょう」


 それは、なんとかしてもらえるでしょう、の間違いなんじゃないか。

 権田は激しくそう思ったが、黙っていることにした。


 僅かな沈黙を破るきっかけを作った安野だった。タオルを腰に巻き、別なタオルで髪をわしゃわしゃやっている。


「ああ、お帰りなさい、姐さん」

「なるほど。あなたが矢口さんの怒りを買ってしまったのね、タっちゃん?」

「すごいなあ、お見通しですか。まるで千里眼だ」


 すると菅原は立ち上がり、部屋の隅のコーヒーメーカーに向かった。

 手早くブラックコーヒーを淹れながら、千里眼なんてもんじゃないわよ、と一言。


「じゃあ、何なんです?」

「強いて言えば、推測と洞察に基づく直感、かしら」


 結局ただの勘じゃないか。そう思い、安野はカクッと体勢を崩した。タオルが外れなかったのは幸いだ。


「まあまあ、ちゃんと説明するわよ。矢口さんは実戦経験が乏しいから、私たちの行っている処刑という処置に反対する可能性が高い。その標的になるのは、やはりいざ引き金を引く人間に対してであり、その担当が今日はタっちゃんだった」


 加えて、と言って言葉を繋ぐ。


「この時間帯にシャワーを使う人間はほとんどいない。使うとすれば身体の汚れを落とすためだけれど、処刑の後であることを考慮すれば、その人物は血飛沫を浴びているはず。その処刑担当がタッちゃんだってことを、私は覚えていた。それだけ」


 安野はなまじ真実を知ってしまっている。それゆえに、菅原の勘が次々と的中していくのには、一種のカタルシスを覚えずにはいられなかった。


「まだ医務室は使われていないようだけれど……。矢口さんはまだ処刑室にいるの?」

「ええ。瑞樹がお供をしてます」

「ま、軽い鎮静剤を打って、しばらくは大人しくしていてもらう必要がありそうですわね。人質の遺体の搬出は?」

「ああ、それな」


 権田が答えた。


「近所に馴染みの片付け屋がいる。そいつに頼んでおくから任せてくれ」


 そもそも、第一セーフハウスの選定には、その片付け屋が近くで仕事を請け負っているから、という理由もあったのだ。


「分かりました。ではゴンちゃん、往復させるようで悪いんだけど――」

「嬢ちゃんを医務室まで運ぶんだろ? お安い御用だ」


 そう言って、権田は席を立った。

 

「で? あなたはどうしたの、タっちゃん?」

「え?」

「いつまでもそんな格好じゃ、風邪引くわよ」

「それもそうですね。一旦部屋に戻ります」


 こうして菅原は一人になった。そして考え始めた。


「矢口由香……。彼女にはどう接してあげるべきかしらね」


         ※


「……」


 矢口は自分の意識が覚醒したのを感じた。だが、何故か視界が真っ暗だ。

 ああ、そうか。瞼を開かなければ。

 

 最初に目に入ったのは、白い壁面だった。

 いや、違うな。身体にかかる重力の向きからして、今自分は横たえられている。ということは、この壁面に見えるものは天井か。


「綺麗な天井だな……」


 ぽつりと呟くと、横合いから声をかけられた。


「ボクは、一体何があって……? ってうわあっ!」

「ん? どうかした?」

「ほっ、帆山さん!」

「どうしたのよ、そんなに慌てちゃって」

「ボクを殺さないでよ! ナイフを仕舞ってくれ!」

「ああ、ごめんごめん」


 帆山は手持無沙汰だったのか、対人戦用のナイフを手元で弄んでいた。刃の部分に触れないように、二本のナイフでジャグリングまがいのことをしている。


「うわっ! ちょ、危ないって!」

「あらそう? 分かったよ」


 帆山は一際高く宙にナイフを放り投げ、くるくると回転するナイフの柄を引っ掴んだ。

 その勢いのまま、すちゃっとホルスター状の袋に格納する。


 ふう、と肺から空気を押し出す矢口。と同時に、自分の身に何が起こったのかがまざまざと脳裏に蘇った。


「あっ! ボク撃たれたんだ! 貫通した? 出血は? ボクこのまま死ぬのか?」

「死にゃあしないよ。だってあなたが撃たれたのはゴム弾だもの」

「で、でも腕も足も痛いよ!」

「それだけ威力があるんだよ。たとえゴム弾とはいえ、実銃から発射されてるからね」

「は、はぁあ」


 実銃、という言葉に、矢口は背筋が凍る思いがした。

 これが、実銃の痛みか。こんなものを、自分はあの人質の首元に撃ち込んでいたのか。


「……」


 一方の帆山も、この沈黙の間をどうしたものかと考えながら話題を探していた。


「ねえ、矢口さん」

「ああ、ボクのことは、ヤっちゃんって呼んでくれていいよ」

「そう? じゃあね、ヤっちゃん。あたしの過去、興味ある?」

「過去?」

「そう。本当はお互いの過去は探り合わないのがエンターテイナーの鉄則なんだけど、あたしが自分から話し始めるぶんには構わないでしょう?」

「ん……」


 ベッドに落ち着いた矢口は、しばし顎に手を遣っていたが、大きく一つ頷き、帆山と目を合わせた。


「もし、帆山さんさえよければ」

「りょーかい」


 そう言って、帆山は唇を湿らせた。


         ※


 十年前。帆山瑞樹、十三歳の夏。花火大会の帰り。

 帆山と家族は、乗用車の接触事故に基づくひき逃げ事故に巻き込まれた。


 矢口以外には、運転していた父親、助手席にいた母親、それに後部座席で隣に乗っていた弟の計四人が負傷した。


 だが、事故が起きた時、皆なんとか一命を取り留められる状態だった。

 郊外の通りの少ない車道での事故だ。誰かが、それこそ接触してきた乗用車の運転手が救急車を呼んでくれていれば、まだ助かったのだ。


 しかし、相手はそんな良心的な人間ではなかった。帆山に言わせれば、それこそ人でなしだった。

 車道を外れ、ガードレールを突き破り、三メートルほど下の段差を落下した帆山たち。

 帆山の鼓膜を微かに震わせたのは、ジャンジャンと鳴り響くBGM、それに、邪魔くせえんだよ、という罵倒の言葉だった。


 意識が薄れゆく中でも、その言葉はしっかりと帆山の脳裏に刻まれた。


 翌日、病院で気を取り戻したのは帆山瑞樹だけだった。医師に、他の三人は現在処置中だと告げられた時、スーツ姿の目の鋭い男性が二人、遠慮がちに個室に入ってきた。

 帆山は直感した。きっと彼らは、警察関係者だ。


「帆山瑞樹さん、だね? 我々は県警察の交通課の者だ。君たちを事故に遭わせた車を探している。覚えていることがあれば、教えてもらえるかい?」

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