第7話


         ※


 安野と帆山が向かったのは、地下の階段を延々と降りた、薄暗い部屋だった。

 奇妙な部屋だ。鈍く輝く金属板で床、壁、天井を包囲されており、漂う空気は無味無臭。

 だが、無味無臭であるというのは、この部屋が一度も本来の目的で使用されたことがないことの証左だ。


 その本来の目的での使用とは、言うまでもない。――処刑室としてだ。


 ちょうど人質の背後で縄を握っていた帆山が、膝カックンの要領で人質をひざまずかせる。


「ひいっ!」


 短い悲鳴を上げる人質。だが、そんなことには構わず、今度は安野が背後に立ち、自動小銃のセーフティを解除した。


「あの世では達者で。道を踏み外さないようにね」


 いつもののんびりとした調子で言いながら、安野が引き金に指をかけた、その時だった。

 ばたん、といって勢いよく処刑室の扉が開いた。


 銃口をずらさずに、軽く首を曲げて背後を見遣る安野。そこにいたのは、矢口だった。

 ぜいぜいと息を切らし、胸元に軽く手を当て、額からはだらだらと嫌な汗をかいている。


「待って……」

「それは無理な相談だよ、矢口さん」


 安野の口調は変わらない。


「コイツを警察にでも突き出すつもりかい? そうすれば、そこから僕たちの存在の足が着くよ。揉み消すことは可能だけど、姐さんに余計な負担をかける。諦めるんだ。僕たちはそんな綺麗事に縋って生きているわけじゃない」

 

 そこまで言って、安野は顔を戻し、流れるような挙動で引き金を引いた。戦闘中と同じく、三連射。

 人質の頭部は、割られたスイカのように木端微塵になった。


「……」


 血と肉片、それに破砕された頭蓋骨が飛散する。矢口はそれを安野の背後で、馬鹿みたいに口を開けながら眺めていた。


 すると再び、背後で音がした。いつの間にか退室していた帆山が戻ってきたのだ。


「さ、立己くん。シャワー浴びてきて。着替えは用意しておくから」

「悪いね、瑞樹さん」

「いいっていいって! そんな血塗れの格好じゃあ、皆嫌がるよ」

「それもそうだね」


 この期に及んで、ようやく安野は微かに笑みを浮かべた。

 だが、それもすぐさま引き締まった。否、殺気立ったものに切り替わった。


 すっと拳銃が抜かれ、かちゃりと矢口の眉間に押し当てられる。

 矢口はその時、腰元の拳銃の把手に触れるか触れないか、というところだった。


「何を考えてるんだい、矢口さん?」

「ッ……」

「僕のことが許せないのかい? まあそうか。君は僕の過去を知らない」

「知らなくたって構わない! あんたのことが許せないってことだけ分かれば……!」

「それで僕を撃とうとしたんだね?」


 ぐっと頷く矢口。そんな彼女に向き合いながら、安野は人差し指を立て、顔の前で振った。


「甘い。遅い。夢見すぎ。牛丼屋さんの宣伝文句じゃないけど、矢口さんには三拍子が揃ってる。僕を倒そうというのであれば、いまの君は欠点だらけだ」

「何をッ!」


 矢口は潔く拳銃を手離し、右足を軸に一回転した。ストレートな回し蹴りだ。

 屈み込んで自分と目線を合わせている安野には当たるはず。そう思っていた。


 が、しかし。


「はっ……!」


 見えざる速さで掲げられた安野の右腕が、見事に側頭部をガードしていた。

 驚いて動けずにいたコンマ数秒の間に、安野は手首をくるりと回し、矢口の左足を掴み込む。そして、無造作に放った。


「うあっ!」


 壁に叩きつけられ、鈍痛が背部全体に走る。だが、これでも安野にしては手加減した方だ。


 後頭部を壁にぶつけて意識を奪うこともできた。

 脊椎に損傷を与えて半身不随にすることもできた。


 それをしなかったのは、安野が矢口に対して、まだ使えるという評価を下していたからだ。それ以上でもそれ以下でもない。


 しかし、安野の意図など知る由もない矢口は、全身が痺れるような感覚に囚われながらも安野に向かって駆け出した。


「止めなさい、矢口さん!」


 そう叫んだのは帆山だ。だが、それだけで矢口の足が止まるはずがない。

 安野は矢口に向かい、容赦なく拳銃を発砲した。


 矢口に両腕が、意思とは無関係に跳ね上がる。

 両太腿に鈍痛が走り、足が絡まる。


 たったの四発で、コンバットスーツの隙間を突かれた矢口は処刑室の床に倒れ伏した。

 彼女が最後に目にしたのは、床に広がる人質の血の海と、安野の拳銃から落下する薬莢だった。


         ※


 ああ、面倒なことになった。

 帆山は天井を仰ぎ見ながら、ふうーーーっ、と長い溜息をついた。


「ちょっと、立己くん?」

「何だい、瑞樹さん?」

「や・り・す・ぎ」

「そうかい?」


 帆山の言葉など右から左に通り抜けているのだろうか。安野は拳銃にセーフティをかけた。

 まあ、普段は場の空気の読めない(読もうともしない)安野のことだ。矢口を撃つ際に、実弾ではなくゴム弾を使用したことは褒めてやってもいいかもしれない。


「気を失っちゃったよ、矢口さん……。どうするつもり?」

「部屋まで運ぶ。ああ、その前にシャワーを浴びて着替えないとね」

「その間に目を覚ますよ、きっと。その頃には、またあなたを殺そうって誓ってるかも」

「そんなに酷いことをしたかい? 僕が?」


 安野の瞳が妖しい光を帯びた。

 真正面からそんな目で見られてしまうと、帆山は自分が何を言っても無駄だという無力感に囚われてしまう。


 安野も自分もロクな人生を送ってこなかったし、だからこそ菅原に拾われてエンターテイナーで働いている。

 だが、安野が経験した人生のロクでもなさは、自分と比べても輪をかけて酷いとしか言いようがない。


 だからこそ、安野は矢口にも強く当たってしまうのだろう。

 

 でも、帆山は安野に気づいてほしかった。

 矢口だって、中学生という年齢の割には十分すぎるほどの酷い経験をしてきたのだということを。


 いや、安野だって気づいているはずだ。少なくともエンターテイナーに所属する時点で、それまでの人生は惨憺たるものであったのだと。

 矢口の資料に、彼女の生い立ちまでが詳細に書かれているわけではなかったけれども。


「ねえ、帆山さん」

「んっ!? あ、ああ、何?」

「このセーフハウス、シャワールームってどこ?」

「えっと、それはね……」


 帆山はなんとか口頭での説明を試みた。この部屋には、頭部が弾け飛んだ人質の死体と絶賛気絶中の矢口がそれぞれ横たわっている。今この場を離れるわけにはいかない。


「どう、安野くん? 一人で行けそう?」

「ああ。取り敢えずね」


 これだけ懇切丁寧に説明させておいて、取り敢えず、とは。

 正直カチンときた。が、実際のところ、自分は安野のそういう無防備なところを好ましく思っているきらいがある。


 あたしは世話焼きなんだろうか? 両親にあまり世話をしてもらえなかったから?


 いやいや、今は過去のことを考えるのはよそう。

 権田が処刑室に入ってきたのは、帆山がぶんぶんとかぶりを振っている時だった。


         ※


 視覚と嗅覚で得た情報から、権田はしかめっ面を作った。


「随分派手にやらかしたな。お前らが帰ってくるのが遅いと思って見に来たら……」

「ああ、権田さん」


 間抜けな声を上げながら、振り返った安野は肩を竦めた。

 あなたならこのぐらいの修羅場、見慣れてるでしょう? とでも言いたげだ。


 しかし権田の気分を害したのは、首無しになった人質の死体でも、シャツの前面を真っ赤に染めた安野でもない。


 血だまりに顔面から倒れ込んでいる矢口の姿だ。


「おい、新入りに何をしたんだ?」

「ただの正当防衛ですよ。ねえ、瑞樹さん?」


 じろり、と権田の眼球が動き、帆山を捕捉する。


「ええまあ、確かにあれは正当防衛です。矢口さんは立己くんの頬骨を粉砕するつもりで蹴りを入れてきましたから」

「蹴り? 何だ、喧嘩でもしたのか?」

「彼女が勝手に突っかかって来たんですよ、僕にはどうしようもなかった」


 はあ、と短い溜息を漏らす安野。

 そんな彼に、権田も帆山も思うところはあった。お前の説明が足りなかったからじゃないのか、と。


 かといって、きちんと説明がなされたとしても、矢口が大人しく矛を収めたという保証はない。


「まだ若いからな」


 権田は額に手を当て、白いものが混じった髪を掻き上げた。

 そのわきを通り抜け、安野が処刑室を後にする。常に鈍感な彼でも、流石に気まずさを覚えたのだろう。


 カンカンカンカン、と金属質な足音が上方へ遠ざかっていく。

 それが聞こえなくなったところで、帆山は権田に顔を向けた。


「あっ、ところで一階はどうなってますか? あなたがここに来たってことは、代わりに誰か――」

「そう。姐さんのご帰還だよ。この取引が嘘だってことは事前に掴んでいて、俺たちにも内緒にしていたらしい。一人で現場制圧、だとさ」

「そ、そうですか」

「帆山、お前は嬢ちゃんのそばにいてやってくれ。俺は一階に戻る」

「分かりました」

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