第2話 女性専用車両

 ある日、カラさんが眠たそうに目を擦りながら教えてくれた。


「人間の正化には段階がある」


 まず最初は、外見に作用する。身だしなみが場にそぐわない。ケガをしている。そんな軽微なものだ。

 次に、精神に作用する。趣向や目的意識、考え方、性格がちょっと変わる程度だ。

 そして最後に、存在そのものに作用する。まるで最初から別の存在であったかのように、記憶も記録も書き換えられてしまう。

 正常指数が低い状態で(つまりその場の正しさから逸脱した状態で)正常気に触れてしまえば、人間は存在が書き換えられてしまう。完全正化してしまう。


「完全正化には自我の連続性がない。別人。それはつまり――元の存在の死」


 カラさんが強張った顔で、まるで自分自身に言い聞かせるように言った。


「私の正しさは……私の連続性を保つこと」


 だからカラさんは、正化現象を食い止めるべく戦っている。

 元凶に近づけば近づくほど、完全正化のリスクは増していくはずなのに、それでもカラさんは前に進むことを選んだ。


「カラさんはボクが守るよ!」


 好きな女性を守る。

 それが男の役目だ。


「ありがとう、コト」


 カラさんがボクを抱きしめた。


「あ、あわわわ」


 おっぱい!

 羨ましいほどおっきなおっぱいにボクの顔が挟まれている。

 ふわっふわで、とってもいい匂いだ。


 片思い中の美女のおっぱい……最高だよ!

 ぐへへぇ。




    ◆




 ベンガリ高校に行くために電車に乗る……のだが、ボクは非常に慌てていた。

 ぶっちゃけ寝坊しました!


「はわわ! ま、まだ行かないで!」


 電車がもうすぐ発車するアナウンスを出している。

 あの電車に乗り損ねたら完全に遅刻だ。

 カラさんやヤンチくんに怒られちゃう。


「ギリギリ! ギリギリセーフ!」


 扉が閉じかけたところに滑り込んだ。


「はぁ、はぁ……はッ!?」


 驚いて息が止まってしまう。

 車両の中には女の人しかいなかったからだ。

 もしかして女性専用車両!?


「早くここから出なきゃ」


 ドアはもうしまっちゃったし、満員だから隣の車両への移動も難しい。

 女性、女性、女性。

 綺麗な人も可愛い人もたくさんいる。

 いけないことだと分かっていてもドキドキしてしまう。


「ある意味カラさんのファインプレーかも」


 ベンガリ高校に潜入するにあたって、正常指数を高めるためには制服が必要だった。ボクにもヤンチくんにも伝手がなかったけれど、カラさんが高校指定の制服を入手してくれた。

 ただ男子用が一着しか手に入らなかったらしく、ボクは女の子の制服を着るハメになっていた。


 だからボクは女子高生の姿で電車に乗っている。

 カラさんから渡されたときは愕然としたけど、今となってはラッキーだったかもしれない。

 ボクは女の子のフリをしながら電車が止まるのを待った。


「はぁ……」


 なんでこんなバカやっちゃんだろう。

 ボクは男だ。昔から電車に乗っていたけれど、女性専用車両には乗らないように気をつけていた。

 身体が覚えているはずなんだ。だから焦っていたとはいえ、女性専用車両に乗るはずなんてないのに、ボクは大バカ野郎だ!


 ……これも制服効果というやつだろうか。

 女子高生が女性専用車両に乗るのは正しいことだ。その制服が持つ正しさが、ボクの無意識に作用したのかもしれない。

 これだから正しさの押しつけは嫌いなんだ!


「やっと停まった……げッ!」


 扉の向こうにはたくさんの女性が並んでいた。

 降りそびれて電車の奥へと追いやられてしまう。

 ここから逃げないとダメなのに!


「そんなぁ……」


 もしもこんなときに正常気が発生したりすれば、きっとボクは完全正化してしまう。男として生きてきたボクが、女として生きてきたボクになってしまう。

 目を閉じて正常気が発生しないことをただひたすらに祈った。


「……ん?」


 足に誰かの手の甲が当たっている。

 ゴツゴツとした手だ。


「ひっ」


 手はボクの太ももをスーッと撫でて、徐々にその位置が上がっていく。

 ついにはお尻を触り始めた。


「~~ッ!」


 悲鳴をあげそうになって、慌てて両手で口を抑えた。


「声を出したらみんなにバレちゃうからね」


 耳元で小さく囁かれたその声は、男の声だった。

 その場で上半身を捻って背後にいる人の姿を見る。

 間違いなく男だ。

 上手に女装して女の人を装ってはいるけれど、ちゃんと見れば鼻筋や骨格なんかは男なことが分かる。

 なんで!?

 お尻を触られながらボクは泣きたくなった。


「んッ」


 くすぐったくて身体が震えてしまう。

 ゾワゾワとした気持ち悪さが身体の奥から湧き上がってきた。

 この嫌悪感は同性に触られているからだろう。

 どうせ痴漢されるなら美人なおねーさんにしてもらいたい!


「敏感みたいだねぇ」


 耳元からは、にちゃぁとネバっこい唾の音がする。


「――えっ!?」


 突然、女装した変態の身体が発光する。

 ゴツゴツした手の感触が柔らかい手の感触に変わったかと思えば、すぐにその手がお尻から離れる。

 後ろにいた変態の姿を見る。そこには普通の大人の女性がいた。


 間違いない。完全正化だ。

 まずいまずいまずい!

 どこにも逃げ場がない。どうしよう……。


 男なのに女装して女性専用車両に乗り込んでいた変態は、完全正化されて女の人になった。

 これってボクも全く同じなんだよねぇ……。

 客観的に見ればボクも、男なのに女装して女性専用車両に乗り込んだ変態だ。


 ボクの正しさは――正しさの強要に抗うことだ。

 だから正化現象を食い止めたいと思って戦ってきた。

 でも完全正化してしまえば、そんな大事なことも忘れてしまうかもしれない。ただの女の子として生きていくのだ。


 ……それも悪くないと心のどこかで思った。


「ごめんねカラさん、ヤンチくん」


 戦友たちに今生の別れを告げて目を閉じた。


「……」


 そのときが来るのを待つ。


「……ん?」


 どれだけ待っても何も変わらない。

 正常気に触れたはずなのに正化は起きなかった。この場においてボクは正しかったのだ。


 女子高生の恰好をしていたからセーフだったのかな?

 ボクは改めて心の中で感謝した。


 ――ありがとうカラさん!

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る