配信(2)
赤潮は立ち上がり、一度部屋の奥の間仕切りの向こうに消えた。それから木の盆に番茶の入った湯呑みと、細々した道具を載せて戻ってきた。
赤潮は土井に湯呑みを勧め、手元ではガラスの小鉢に赤い粉を入れて、スプーンで混ぜ始めた。小鉢に入っていた少量の透明な液体と粉が混じり、ペーストのようなものが出来上がる。赤潮は壁の時計を振り返って、その秒針が一周するのを待ってから、別な小瓶を取り、その中の青い粉を小鉢に足した。
ペーストは紫色の塊になり、赤潮はそれを二つに分けてそれぞれ丸め、テーブルの上に置いた。
「着替えの自動化。こちらは一週間後に解けます」赤潮は土井から見て右側の塊を示してそう言い、次に左側の塊を示して、「こちらは無期限の自動化。動画の編集と撮影のうち、ルーティンと呼べるような慣れた作業を、すべて自動化します」
「ルーティンと呼べる作業と呼べない作業って、どこらへんが境目なんですか?」土井は聞いた。
「俺の方でその判断はしません。土井さんの主観になります。これはいつもの作業だなと感じるならそれは意識に上りませんし、いつもと違う、イレギュラーの作業だと感じるなら、自然と注意が向くはずです」
「なんだか、ふわっとしてるなあ」
「一週間やってみて、思ったようにならない点があれば修正しますので」
赤潮はそれから、手元の別な小瓶を二つと、四つ折りにした小さな紙を取って、土井の目の前に置いた。
小瓶は首が細くなっていて、コルクの栓がされている。それぞれ、赤い粉と青い粉が入っていた。
「同じことを、家に帰ってからご自身でやってください。その紙に手順が書いてあるので。適当な器にこの赤い粉と、水を小さじ二杯。混ぜて、一分待ってから、青い粉を足します。そして丸めて、終わりです。あ、撮影はしないでくださいね。相方さんにも見せないで、一人きりの時にやってください」
「ええ、僕がこれやるんですか?」土井は小瓶を手に取ってまじまじと見つめた。
「そうですね。それで自動化の手続きが完了します」
「やらなかったら?」
「何も起きないですけど、取り消したいのなら一度またここにご来店ください。やりかけた術が変な残り方をすると困るので」
土井は黙って二つの小瓶を見つめ、それから顔を上げて赤潮を見た。
「これで、終わりです」と、赤潮は言った。「次は早稲田さんの方の依頼を受けますので、ちょっと戻ってきていただいて」
「もう、呪術を掛けた?」土井は聞いた。
「はい。俺の方の作業はこれで終わりです」
少しの間、沈黙が流れた。
「ずいぶん、簡単に言ってくれるんですね」と、土井は言った。
「簡単、とは」
「僕にとってはね、これは重大な決断で……」
「けど、うちは悩みの相談所じゃないですからね」赤潮は表情を変えずに言った。「ご依頼を頂けばその通りにするだけです。そして、やっぱり取り消してくれということであれば、いつでも取り消しますよ。取り消しましょうか?」
「いや……」土井は俯いて、自分の毛玉だらけの靴下を睨みながら、唾を飲み飲んだ。「取り消さない。それは大丈夫です」
「すごく悩まれてる様子ですね。早稲田さんと仲が悪いんですか?」
「違う違う。いや、どうなのかな……」土井は溜息をついた。「いっそ仲が悪かったらと思いますよ」
赤潮は黙っていた。
「もしかして、興味がない?」土井は顔を上げて相手を睨んだ。
赤潮は少し笑った。「まあ、無いですね」
「無いですね、じゃあないんだよ……見かけによらずヤバい人だな、あなたは」
「うちに来て突拍子もない依頼をする人は山程いますよ。いちいち興味を持ってたらキリがないです」
「ああ、なるほど……僕もその凡人どもの一人なんだな」
「さあ、凡人とは思いませんけど」
「いや、僕はどうせ凡人ですよ」土井は口を歪めて自嘲した。「このチャンネルがどうにか回ってるのは早稲田くんの編集センスです。僕は何もなくて……」
「けど
「MCなんか幾らでも代わりはいます。もっとちゃんとできる人がたくさんいる」
「取材交渉や企画、構成も土井さんでしょう」
「それも僕である必要がない。事務所とエージェント契約でもしたほうがコスパがいい。というか、早稲田はもう、これ以上やるならちゃんと映像クリエイターとしてのキャリアを考えるべきなんです。僕みたいなのがついて回ったら、あいつはずっとしょうもない素人動画の編集に追われるだけ。そして二人でズルズル沈んでくだけですよ」
「それでも、早稲田さんにとっては、相方の土井さんが居てこそなんじゃないですか」
「それが嫌なんですよ」土井は首を振った。「嫌になったんですよ、本当に。自分のことが……自分の人間性がね」
赤潮は聞きたくなさそうな態度だったが、土井は強引に続けた。
「これは僕が言ったってあいつに言わないで欲しいんですけど、彼はね、鬱病なんですよ」
「早稲田さんが?」
「そう。もう今は寛解してますけど、学生のとき酷かったんです。それで就活どころじゃないってほど、追い詰められてて……そのとき僕ともうひとりで趣味でやってたチャンネルが伸び始めてたんで、いっちょ本腰入れてやってみようとなって、ついでだからと早稲田を誘ったんです。あいつはどっちにしろ病状が重くて就職浪人でもするしかない状況だったんで、まあ何も無いよりはユーチューバーとしての活動でもあればマシだろうと。体調に合わせてスケジュールの自由が効くし、早起きしたり決まった時間に出勤しなくていいから、あの時の彼にとってはこれしか無いというものだったんですよね。まあそれで……色々運が良くてここまで来てしまったんだけど」
「もうひとりは?」と、赤潮は聞いた。
「もうひとりは、辞めました。やっぱり就職したいって言って、大学出てからすぐに。実際それが合理的な人生設計だと思うんですよね。辞めたそいつは自分の才能の限界がわかっていたんだと思います。早稲田のセンスを目の前で見せられていたから、なおのこと」
土井は赤と青の粉が入った小瓶を見つめながら、本日何度目かの大きな溜息をついた。
「……最初は良かったんです。早稲田は病気だから、これしか無かったし、僕もあいつのセンスを手放したくなかった。ユーチューブ全体がちょっとしたバブルみたいな時期でもあったし。けどもう、ここはレッドオーシャンで、一時期ブイブイ言わせてた配信者達もメッキが剥がれてどんどん落ちていってます。僕は早稲田のセンスに乗っかって上手く立ち回っただけの凡人で、もう先が無い。そして早稲田の病気はこの数年で凄く良くなって、今はアルバイトもしてるんですよ。早朝に出て夕方までの立ち仕事を……もう健康な人と同じレベルで働けてる。つまり、彼が僕に縋る理由がもう無くなっているんです」
「それは、良いことのように思えますが」と、赤潮は言った。
「そうでしょ? だから、自分が嫌になるんですよ。あいつが病気のままだったら良かったって、考えずにいられないですから。あいつがそれでどのくらい苦しんだか、目の前で見てきたのにですよ」
「なぜそんなこと思うんです? 早稲田さんが土井さんに縋る理由が無くなって、それでも土井さんを必要としてくれてるんならそれが本物の友情ってことじゃないんですか」
「だって今は僕があいつのセンスに縋っているから」
「いいじゃないですか。今まで土井さんが早稲田さんの病気を支えたんだから、これからは土井さんが支えてもらえば」赤潮は突き放す様子でもなく、穏やかな口調で言った。
「もうね……たぶん根本的に、あなたみたいな人は、いい人なんだと思いますよ」と、土井は言った。
「そんなに俺の言ってること、変でしょうかね」
「僕が言ってるのは、僕がクソみたいな人間性だってこと。自分が相方を養ってやるのはいいけど、相方に養われるのは我慢ならないってことです」
「なるほど」
「動画の制作は自動化してもらって、もうこれ以上考えるのをやめます。なんでもいいから他の仕事見つけて、そっちが忙しいってことにして徐々にフェードアウトして、来春くらいには僕から解散を提案するつもりです。これ、僕がこんなこと言ってたって、あいつにはバラさないでくださいね」
「もちろん、依頼人の秘密は厳守しますよ」赤潮は真面目な調子で言った。「相方だろうと家族だろうと、誰にも漏らすことはありません」
早稲田は煙草のにおいを身にまとい、コンビニのレジ袋を持って戻ってきた。袋の中はチョコレート菓子とホットスナック、煙草が二箱、そして剥がしたばかりの包装フィルムや既に空になったスナック菓子の袋など、買ったものとゴミが雑然と一緒くたになっていた。
「すいません」早稲田は入れ替わりで退出した土井の背中を見送った後、赤潮に会釈しながらソファに座った。
ローテーブルの上に設置したままだったカメラをちらりと見る。録画を停止しているので、液晶モニターはスリープモードに入って暗くなっていた。
「お昼、もしかしてまだでした?」赤潮はコンビニの袋を見て聞いた。
「いえ、全然そんなことはないです。暇だから買ってきただけです。こんなことするから太るんですけどね、辞められなくて。相方に怒られるんですけどね。煙草も」
「確かに、さっきも禁煙がどうとかおっしゃってましたね」
「まあね、僕は依存体質なんですよ。ニコチン中毒、カフェイン中毒、お菓子も中毒でして。自分の意思じゃ辞められないんです」
「まあ、美味しいですからね」
「そうそう」早稲田は笑った。「美味しいのが悪い。一流の大企業が莫大な金掛けて開発してますもん。個人の精神力で太刀打ちできるはずもない」
「確かに」赤潮は苦笑した。
「あの、忘れないうちに先にお願いしときたいんですけど」早稲田はまたカメラを見てから言った。「あとで、玄関の前の通路のところで、撮影のご協力をいただけますか? 最初の、出迎えの場面を撮りたいんです。僕らが、要は動画の流れとして……初めてここの建物に来て、エレベータに乗って降りてですね、通路のとこまで来ると、赤潮さんが通路で出迎えて、いらっしゃいませ、どうもどうもー、みたいな感じですね。じゃあ早速こちらへどうぞ、と、玄関に通されて、この部屋まで来る。そして、さっき撮影した場面に繋がるわけです。言いたいこと、わかります?」
「はい。動画用に使う出迎えのシーンということですね」
「そう。そこをワンカット風に繋げます。エレベータ降りて、通路を曲がると、もうそこに赤潮さんが出てくる。まるで僕らがエレベータから降りる時刻を正確に予測して、タイミング良く出迎えてくれたような感じにね。そこのシーン用の素材を撮りたい。これ、たまに頼もうとして忘れちゃうことあって、後で加工に苦労するんで……」
「わかりました。その撮影、忘れないようにします」
「すいません。本来、僕が忘れないようにすべきなんですけど。どうも忘れっぽくて」
「そうすると、その場面は動画内では俺が最初に登場するシーンですよね。初めまして、本日はよろしくお願いします、みたいな感じでしょうか」
「あー、いや、あんまり『設定』を意識して演技しないでください。そういうの、視聴者は敏感に読み取るんで……テレビとはリアリティラインが違うんですよね。時系列順に撮ってないことは皆さん承知の上で観てるんで、演技をすると白けます」
「そういうもんですか」
「自然体で。思ったことがそのまま顔に出てる感じで、大丈夫です。すいません、ほんと色々注文ばかりで」
「いえ、こちらも勉強になります」
赤潮はそれから、手帳と筆記具を取り出して頁を開いた。
「自動化ですが、何にいたしましょうか」
「そうですね……」早稲田は少し緊張した面持ちになって、ソファの上で背筋を伸ばした。「一週間限定で、ですよね。その間は何を自動化したか相方に知られないように、と」
「そうです」
「あいつは、土井くんは何を依頼したんです?」
「秘密です」赤潮は微笑んだ。
「結構長く話してましたよね。依頼のついでに愚痴ってたでしょう。僕ともう別れたいとか言ってませんでした?」
「そうおっしゃってるんですか?」赤潮は聞き返した。
「うーん、別れたいとは言わんか。それじゃ夫婦みたいだな。解散するとか、ソロでやりたいとか。しょっちゅう言うんでね、彼は」
「へえ。意外ですね……仲が良くないんですか?」
「仲が良くない、なんてことはないですよ。もう長年やってますからね。仲悪かったらこんなに続きません。ただ土井くんは、ま、彼の癖なんですよね。口癖ですよ。もう辞めよう、解散しよう、こんなの終わり、オワコンだから、って。昔からの口癖だから、僕もハイハイで聞き流してきたところあるけど、そろそろほんとに終わりなのかもなっていう予感もあります。もう三十だしね。いつまでもブラブラしてると世間の目も痛い」
「……そういうもんですかね」と、赤潮は言った。
「そもそもが僕の我儘で始まってるチャンネルです。僕は学生のとき鬱病で、かなり酷くて。ほとんど引きこもりだったんです。当然、就職先もなくて……それを、土井くんが拾ってくれたわけです。彼は本当に僕の命の恩人ですよ。これは大袈裟じゃなくてね。死ぬところだったんですから。だから僕は、あいつに頭が上がらない……上がらなかったんだけど、それももう時効かなという感じもしてきてます。お互いにね。なんとなく、わかるんですよね。ここらが潮時かなと」
「あの、これ、何の話ですか?」赤潮は微かに笑いながら聞いた。「依頼ですよね?」
「ああ。依頼ね……自動化の。はい。すいません」
「何か、考えていた候補のようなものがありますか?」
「そうね……これ、ほんとに相方には秘密なんですよね?」
「そうですね。俺から内容をバラすことはありません」
「ですよね。じゃあ、あの、こういうのってできるのかな、わかんないけど、もしできたら」
「はい」
「土井の顔を見る時間を全部自動化して欲しい」
「……はい」赤潮は表情を変えず、手帳に何かを書きつけた。「顔を見るっていうのは、実際に面と向かって見るかどうかに関わらず、一緒にいる時間を全部、ということでしょうか」
「まあ、そうですね。できますか?」
「できると思います」
「マジで? 凄いな……」
「一週間限定で、ということで宜しいでしょうか?」
「そうだね。そういう企画だから」
「わかりました」赤潮は頷き、手帳を閉じた。
「一週間後に効果が切れたとき、お互いに何を自動化していたかネタバラシをする……まあその動画はちゃんと面白く撮りますよ。なんなら、動画内では架空の自動化をでっち上げてもいいし。この一週間、風呂に入ってた時の記憶がありません、とかね。最後なんだから無難に面白く仕上げますよ。それで、もう最後にしようと思って」
「最後?」
「解散しよう、って僕から言うつもりです。一週間後に。すいません、赤潮さんの呪術を利用するような形になって。でももう、ここしか無いと思ったんです」
「別に、それは構いませんよ。利用していただくためのものですから」
「ここを逃したらまた言い出す勇気がなくなってしまう。いつか辞めなきゃな、と思いながらズルズル続けてしまうんですよね。居心地が良くて」
「居心地が良いなら、辞めなくて良いのでは?」
「いや、これ以上は、いいことないってわかってるんで。僕と土井くんの立場がもう逆転してしまってる。かつては僕が頭が上がらなかったのに、今は土井くんのほうが弱ってる。二人とも薄々それがわかってるから、ずっと、もうね、探り合うような状況で、しんどいんですよね。土井くんがしんどいんだと思います。もう、迂闊に解散したいなんて愚痴れなくなったから。言ったら僕が『そうだね、そろそろ終わりにしよう』って答えちゃうかもしれない。土井くんはそれが怖くてもう言えないんです。僕も自分が怖いですよ。急に何かの拍子に、もうお前なんか要らない、ってぽろっと言ってしまいそうで……だってそれが事実だからね。それで、ずっと考えてたんですよ。僕が悪者になるしかない、ってことを」
早稲田は膝の上で硬く握りしめていた両手の拳を開き、じっと見下ろした。指先が震えていた。
「僕から終わらせるしかない。土井くんが僕を切れるはずがないですから。そういう、あいつの義理人情みたいなのに甘えて、病気で死にかけてた命を救ってもらったのは僕なわけで、だから僕から終わらせるのがケジメだなと……でも、でもね、じゃあそろそろ解散したいって来週言おう、と決意すると、そこから一週間が辛くて仕方ないんですよ。土井の顔を見るたびに、ああ、あと六日だな、あと五日だな、って思いながら過ごすわけでしょ。耐えられませんね。僕は心が軟弱なんで。お菓子ひとつ我慢できないくらいの軟弱者ですから。だから、もう、解散するって決めたなら、それを告げる当日まで、あいつの顔を見たくない」
早稲田は顔を上げ、向かい側に座る赤潮を見た。
赤潮の顔には何の表情も浮かんでいなかった。
「すみません。変なことに巻き込んで」早稲田は言った。
「まあ、慣れています。お客様にどういう事情があるにしろ、俺はご依頼いただいたものをその通り仕上げるだけです」
「あなたはプロだな……技術だけでなく、メンタルも。どうしたらそうなれるんだろう」
「まあ、慣れですよ」
「僕がここで話したことを、土井くんには内緒にしてもらえますか?」
「もちろんです」赤潮は静かな口調で言った。「たとえ、相方だろうと恋人だろうと、依頼人の秘密を漏らすことはありません」
「ありがとう。……土井くんは、あなたに何を依頼したんだろうな」
赤潮は微笑んで言った。「それも、秘密です」
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