同居
幽霊と一緒に住んでいた。
姿を見たことはない。正体もわからない。だから死者の霊ではなくて、もっと恐ろしいものかもしれない。しかし夜中に変な音がしたりやたら気配が感じられたりするだけで、それ以上の実害は無かった。
その頃の私は人生のどん底だった。進学を望む毒親を半ば騙すような形で振り切って、県外に就職した。ところが、職場が合わず十ヶ月で退職することになった。見知らぬ田舎で、頼れる知り合いもなく、仕事を探すコネもない。余所者が急に応募して雇ってもらえるような仕事は、チェーン店の店員くらいしか無かった。仕方なく当面の暮らしのためにファミレスで働き始めたが、周りは地元から一歩も出たことのない主婦と学生ばかりで、余所者の私は浮いた。何故か、「知らない名前の高校を出ている」ことでパートリーダーに妬まれて、元いた職場よりも更に酷くいじめられた。それでも、元の職場に残れば良かったとは思わなかった。ファミレスのバイトならいつだって辞められるし、すぐに似たようなバイトが見つかる。そう思うとどこまでも気が楽になって、どれほど居心地が悪くても、ストレスで寝込んだりしない限りはまだ続けられる、と楽観できた。
誰も私のことを知らない。気に掛けていない。親からは数ヶ月に一度、狂ったように沢山着信が入ることがあったが、通知が出ないようにして全て無視していた。今、このスマホを川にでも投げ込んでしまえば、私は二度と誰とも連絡が付かなくなる。そもそも誰とも連絡は取っていないが。それでも、学生時代から変えていないメールアドレスと電話番号だけが、私と過去を繋ぐ最後の頼りない糸のような気がした。そしてその糸をいつでも気まぐれに切ってしまえるのだという想像で、私はひとり悦に入った。
私はどん底にいたのだろう。心が深く傷ついて、参っていたのだろう。でも、何もない空っぽな毎日は快適だった。前の職場を辞めて収入は激減したので、この町でできた数少ない友人に頭を下げまくって、安アパートを紹介してもらった。広さが半分になったので、前の住居で使っていた家具や家電は手放して、ほとんど身一つでその部屋に入った。入ったその日から、深夜になると異音がした。
コン。コンコン。
壁の向こうあたりで、何かが意思を持ってノックしているような、無視しがたい有機的なリズム。給湯の配管が温度差で軋む音か、それか壁裏にネズミか虫でも住み着いていて、その足音か、とも考えた。しかしそれにしては異様に気配がするのだ。
明日の仕事のために睡眠を取らねばと、渋々ながら眠りにつく黴臭い布団の中で、しばしばその異音を聞いた。
コンコン。コンコンコンコン。
毎晩のようにしつこく鳴る時期もあれば、しばらく聞こえない時期もあった。布団を出て、音がする場所を確かめに行ったこともある。玄関と呼ぶのも憚られる狭い靴脱ぎ場の、すぐ右。湿気でたわんで剥がれそうになったクリーム色の壁紙を、じっと眺めた。私がそこで見張っている限り、異音が鳴ることは決してなかった。
そのうち少しずつ、身の回りで変なことが起き始めた。と言っても、どれも気のせい、あるいは偶然で説明が付く程度のものだった。家に確実にあるはずのものが無くなったり、シフトが休みだったはずの日に店に出ていたと言われたり、覚えのない騒音で隣の住人から怒られたり。何かの手違いでそういうこともあるか、程度のもので、気にすることもできたが、気にしないこともできた。私は気にしないことにした。
しかし、さすがに、三日間の高熱の後に二ヶ月間咳が続いたのにはうんざりした。病院に掛かっても咳止めを出されるだけで病名は付かず、ファミレスの仕事は事実上クビになった。
不貞腐れて昼間から布団に潜り込み、コンコンと続くしつこい咳に悩まされていると、壁の異音も私とそっくりなリズムでコンコンと返すのだった。
コン。コンコンコン。コンコン。
ああ、あいつも心細い気持ちで闘病しているのかな、ひょっとしてそのせいで死んだのだろうか、と、私は微熱でぼんやりする頭で考えていた。いつの間にか壁の中に「誰か」が住み着いていることは私の中で事実になっていて、もはやその人の背格好やだいたいの人となりまで思い浮かべられるような気がした。
「ねえ、この冬は寒くなりそうだねえ」
咳がようやく治まってきた頃、私はふと玄関で靴を履きながら、ほとんど無意識に話しかけていた。
「そうだねえ。嫌だねえ」と、若い女の声が応えた。
私は自分のしたこととその結果に、数秒遅れてギョッとした。
壁を見つめる。たわんで剥がれ掛かったクリーム色の壁紙。彼女はそれきり沈黙し、気配も消えている。
でも、今夜私が布団に入る頃、またいつもの「コンコン」が始まるのだろう。
それが当然の日常として自分の中に刷り込まれていることにも、今さらながら強い驚きと違和感を覚えた。
このまま孤独を気取っていたら、私は正気を失ってしまうのかもしれない。
そんな不安に苛まれて、何かをどうにかしなければ、と焦っていたときだったから、数年ぶりに連絡をくれた元同級生からの誘いに、やや前のめりで飛び付いたのだった。とにかく誰か、他人と会って、その会話や表情や思考に触れたかった。自分一人で取り組むうちに決定的に歪み始めてしまったこの現実を、立て直したかった。
久しぶりに訪れた故郷の町は、想像以上に明るくて賑やかだった。そして、眩暈がするほど沢山の人間が行き交っていた。住んでいた頃は取り立てて都会だとは感じていなかったが、本当の田舎の町を知った後には、輝かしい人間の文明の結晶のように見えた。
元同級生の開いた飲み会は、一次会がささやかな同窓会、二次会が別グループと合流しての合コンじみた交流会で、どうも私以外の女子達はこの二次会が目当てで来ていたらしかった。メールをよく読んでおらず、そんな心づもりをしてこなかった私は、理由をつけて途中で帰りたかった。しかしなんとなく久しぶりの酒の席が楽しくて、ずるずると居座ってしまった。二次会は後半になると泥酔する者が数名出て、まともな会話どころではなくなっていった。
結局、なんのためにここまで来たんだろう、という疲労感を覚えながら帰りの電車に乗ることになった。
そして、三駅ほど乗ったところで猛烈に具合が悪くなり、電車を降りてホームのゴミ箱に向かって吐いた。
早い時間帯に始まった飲みだったので、ホームにはまだ仕事帰りのしらふの通行人が多く、ひとりだけ酔って醜態を晒している自分が惨めだった。私の頭を占めるのは、具合の悪さよりも恥ずかしさだった。
次の電車がいつ来るのか確かめる気力もなく、ぐったりと待合用ベンチに座り込んでいると、急に誰かが右隣に座った。
「大丈夫ですか?」柔らかな、少し高めの男の声だった。なぜか、あのとき壁から聞こえた声に似ている気がした。「良かったら、これどうぞ。新品ですから」
そう言って相手は温かいお茶のペットボトルを私に持たせた。夜風に冷えて強張っていた指先が、じんわりと暖まった。
「具合が悪いですか? 駅員さんに言って、ベッドを借りましょうか?」
「いえ、ただ、飲み過ぎただけで」私は顔を上げた。
銀縁の眼鏡を掛けた細面の男が、私の隣に座っていた。薄いベージュのロングコートの前を開けていて、似たような色のセーターに、黒いスキニーパンツを履いていた。その脚は驚くほど細く、長く見えた。サラリーマンらしくない格好だが、学生と言えるほど若くも見えない。何か面倒な勧誘か、見当外れなナンパだろうか、と頭の隅で考えたが、危機感は湧いてこなかった。なんだか、疲れてどうでも良いような気分だった。
「水分を摂られた方が良いですよ」
男がペットボトルを示して促すので、私は蓋を開けて一口飲んだ。
そのまま相手が立ち去ってしまいそうだったので、私はなんとなく焦って、会話を作った。
「今日、合コンだったんです」
「おや、それは羨ましい」と、男は言った。
「今の私を見てそう思います? 合コンから一人で帰ってるのに」
「それがいいんじゃないですか」男は快活に笑った。「合コンなんて飲んでるその時が一番楽しいんだから。その後誰かと二人になって、付き合うだのなんだのって話になると、楽しいばかりじゃ済まないことも多々あるでしょう」
「うーん、そうでしょうか……」
「一番楽しいところだけ味わって、サッと一人で帰るのが賢いですよ」
「これが、賢い人の姿ですかね」私は手元のペットボトルを見下ろし、つい僻みっぽく言い返した。
「まあまあ、お若いんですから。出会いは色んなところに転がっていますよ。わざわざ、酔っているときに決めなくたって」
どうせ次の電車が来るまでの十分かそこらの縁だから、と思って始めた会話だったが、なぜか電車はいつまでも来なかった。
やがて、人身事故の影響で電車が遅れている、というアナウンスが入った。
「あらまあ」と、男は心底悲しそうな声で言った。
私はそれを少し意外に感じた。きちんとした大人はこういうことでいちいち動じたり反応したりしないものだと、勝手に思っていた。
「この路線も最近は物騒になってきましたね」男は微かに溜息をつきながら言った。「昔はもっと、長閑なところだったんですけどねえ。嫌なものが吹き溜まっているというか。景気が悪いせいかなあ」
「そういえば、うちは幽霊が出るんですよ」私は不意に、ほとんど脈絡もなく言った。その話をしようと思っていたわけでもなく、ふと口をついて出てきた言葉だった。「夜、寝ようとするとコンコンと音がするんです。玄関の辺りの、壁の向こうから。それでね、こないだ話しかけたら返事をしたんですよ、そいつが」
男は眼鏡の奥の目を少しだけ見開いた。色の薄い、どこか浮世離れした目だった。
「ああ、道理でね」と、男は一呼吸遅れてから柔らかく言った。「あなたは何か関わってる空気が出てたから、なんだろうなと思ってたんです」
それから男は、どういうことか考え込んだ私に向かって、「僕ね、呪術師なんです」と、何故か少し照れ臭そうに言った。
「呪術師って、えっと……映画とかに出てくるような?」そう言ってみたものの、私はそういった映画を観たことが無かった。
「まあ別に、戦ったりはしませんよ。お客さんから依頼を受けて
「へえ。効き目があるんですか?」
「もちろん、ありますよ。気のせいとかじゃなく」
男はコートの内ポケットを探り、名刺を取り出して私に一枚くれた。
四隅に木の葉を模したような紋様のある、シンプルな名刺だった。
株式会社RPA、
呪術師なのに株式会社なのか、と、私は疲れた頭でぼんやり思った。
「僕はお化けとかは専門じゃないですが、賃貸の除霊に強い風水師を知ってますから、ご連絡いただけたら紹介しますよ」
「賃貸に強いって」私は思わず笑った。「持ち家だと何か違うんですか?」
「ああ、全然違いますよ」瑠璃川は大真面目に言った。「建物につくお化けは基本的にリフォームすれば消えますからね。床をひっぺがして土台のコンクリートを打ち直せば、まず居なくなります。賃貸だとそういうわけにもいかないので、色々コツが必要らしくて」
「そんな、シロアリじゃないんだから……」
「いやいや、あいつらは虫とかネズミとかと大して変わりませんよ。古くてジメジメして汚れたところが好きなんです。除湿機掛けると消えたりしますよ。あと空気清浄機とかも。シャープかダイキンのがよく効くって聞いたんですけど」
「ははは」私は冗談だと思っておくことにした。
結局その日はそれだけで終わった。電車は間もなく運行を再開し、私は三十分遅れで到着した電車に乗った。遅延のせいで車内はひどく混み合っていた。
瑠璃川は別方面へ向かう次の電車に乗ると言って、ホームで私を見送った。
前とほとんど変わりないファミレスで働き始めた。店名は違うが、経営母体は同じだ。場所もさほど変わらない。曲がる道が一本違うだけ。それで、ときどき自分がどちらのファミレスに出勤しようとしているのかわからなくなることもあった。
新しい職場ではいじめは無かった。ただ、店長が厳しくて怖かった。遅刻、サボり、無駄話は絶対に許さず、オーダーミスやクレームが起きると「全員の気持ちが弛んでいる」と激しく怒った。よくそんなに真剣に怒れるな、と、私は感心して聞いていた。
長引いた体調不良とその後の飲み会の会費、交通費のせいで、口座はほぼ空っぽだった。だから私は絶対に遅刻や欠勤をしなかったし、積極的に残業をした。それが鬼店長の目には「真面目」と映ったらしい。しかし、相変わらず私の心の支えは「いつでも辞められる」ということだけだった。
忙しくて、壁の異音のことをしばらく忘れていた。もしかしたら毎晩鳴っていたのかもしれないが、さすがに疲れ果てて眠りが深く、気付かなかった。
再び夜中の音が気になり始めたときには、すっかり寒くなって年末が迫っていた。
音はコンコンという軽いノックではなく、ズン、ズン、と重い物を打ち付けるような、篭った低音に変わっていた。
ズン。ズンズン。ズン。
何者かの意思を感じさせる有機的なリズムは変わらずだ。それに、「気配」も続いていた。その気配は前よりも強まって、より具体的なものと化している気がした。
ズン。
「うるさいな」ある晩、布団の中で、私は言った。「いつまでそこにいるんだよ? そろそろ諦めればいいのに」
「寒いじゃないですかあ」と、柔らかく高めの、男の声が言った。「出してくださいよ、出してくださいよー」
私は布団を跳ね除けて飛び起きた。
気配は消え、壁は沈黙した。
もはや眠るどころではなかったが、他にどうしようもないので無理やり眠った。
翌朝、店長には急病で休むと連絡し、私はあの日貰った名刺を探し出した。
名刺には営業時間が書いていなかったが、九時に電話するとすぐに知らない男の声が出た。
「お電話ありがとうございます、株式会社RPAです」
「あの……えっと、以前、瑠璃川さんという方に名刺を頂いたんですが」
「ああ、今ちょうど居りますので、替わります」
ぷつっと音声が途切れて、すぐまた再開した。
「はい、瑠璃川です」昨日聞いたばかりの声が聞こえてきた。
「あ、ええと、
「尾瀬さん?」
「たぶん名前でわからないと思います。電車のホームで、名刺を頂いたのですが……」私はモゴモゴとつっかえながらあの夜の状況を説明した。
「ああ、思い出した、合コンの帰りの人」瑠璃川は明るく言った。「確かアパートにお化けが出ると言ってた……」
「そう、そのことなんですが。前と音が違ってきてるんです。それで昨日、また話しかけてきたんです」
「返事をなさらない方がいいですよ」
「というか、私から話しかけてしまいました。だってしつこいから……いや、そうじゃなくて、あなたの声で話しかけてきたんですよ、瑠璃川さんの」
「僕のですか?」
「そうです。今、お話しされている、その声です」
それを確かめたくて、急いで電話をしたのだった。本当は昨晩、あの声を聞いた直後に確かめたかったくらいだが。
「なるほど」瑠璃川は高めの声を普段よりはだいぶ低くして、考え込むような声色で言った。
「変なことをお聞きしますけど、瑠璃川さんが何か関わってるわけではないですよね?」
「はい、僕はまったく関わってはいません。その点は間違いないです」
「私の気のせい、ですよね」
「気のせいかどうかは、なんとも言えませんが。話しかけてくる系のお化けは、相手の興味を引くような声色を選ぶので。僕の声真似をした方があなたの反応を引き出せると、お化け側が学習してる可能性はあります」
「………」
「お部屋を見てくれる人を紹介しましょうか?」と、瑠璃川は言った。
「でも、うち、遠いんですよ」私は町の名前を言った。
「ああ、隣の県か……まあ、でも別に車で一、二時間ですからね。忙しくなきゃ今日中に行ってくれると思います」
「けど、お金もないんです。来ていただいても、交通費すら出せないと思います」
「ああ。うーん」
「すみません」
「いえいえ。お話を伺う限りでは厄介な地縛霊とかではなさそうですし、処置自体の金額はパイプのトラブル程度のものだと思いますが。だからって安くはないですもんね。生活に支障が出てないのなら、様子見でも良いのかもしれません」
「なんかほんとに、すみません。依頼する気もないのに、電話なんかして」
「いえ、全然。何もしなくて良さそうならそれに越したことはないんです」
「すみません」
「もし、お嫌でなければなんですが、来週あたりにまた、お電話をいただけませんか? ちょっと、僕の声がしてるというのは僕も多少気になるところですし、どういうふうになりそうなのかお聞きしておきたいですね、念のため」
「あ、はい、ええと……バイトのシフトの関係で、金曜なら」
「わかりました。金曜日ですね。勿論、何かあればもっと早くお電話いただいて構いませんし、忙しければ再来週とかでも良いので」
「すみません……ありがとうございます」
「尾瀬さん、でしたよね」瑠璃川はふと、念を押すように言った。
「はい。しっぽの尾に、さんずいの瀬です」
「これはお部屋の話とは別なのか、あるいは関係あることなのか、ちょっとわかりませんが。尾瀬さんに呪術を掛けた人がいることをご存知ですか?」
「えっ?」相手の言ったことが頭に入ってこなかった。聞き間違いではないかと思った。
「あれから少し考えたんですよ。あの日、あなたが呪術に関わっている様子に見えたので気にかかったのですが、お部屋に何かが出るという話を聞いて、ああそれでか、とその場では納得したんです。でも、後になってから、やっぱりそれだけではないな、と。尾瀬さんは何か日常のルーティンを自動化する呪術を使ってらっしゃるでしょう。うちで提供しているものとは少し種類が違うようですが。それで、たぶんほぼ無害なものかとは思いますが、お部屋の問題のこともありますし、一応気をつけられた方が良いと思います。不要なものなら早めに外した方が良いですよ」
「あの、あなたが何の話をしているのかわかりません」
背中と耳の後ろの産毛がぞわぞわと逆立ってくるようだった。恐怖とも不安とも違う、不吉な感覚が私を包んだ。
「やはり覚えがないんですね。そうだとすると少し、心配ですね。あまり他人の呪術に手出しをするのは気が進みませんが、一度見せていただいたほうが良いかもしれません」
「えっと、何かまずいんでしょうか?」
「いえ、今の段階では特には。ただ、知らないうちに日常生活の一部が記憶から抜けている、という状況ですから、尾瀬さん自身が望んでいない、望んだ覚えのない術であれば、いずれ解除すべきかと思います」
その後も瑠璃川はごちゃごちゃ何かを説明していたが、私の頭にはほとんど入らなかった。
私の暮らしに何かが、知らないうちに入り込んでいる。
しかしその不気味さよりも、私の胸の内に渦巻くのは何故か、余計な口出しをしてきた瑠璃川への何とも言えない苛立ちだった。
ズンズン。ズン。ズンズンズン。
壁の異音には、耳を震わせる低音が混じっている。布団の中で夢うつつに、私はそれを聞いていた。
ズンズン。ズンズンズン。
「ああ、寒いなあ。寒いんですけどー」幽霊は瑠璃川の声で言った。
返事をしてはいけないんだったか。
もし、して良いのだとしても、眠たくて返事をしたくなかった。
声はすれども、姿は見えない。何者なのだろう。以前ここの住人だった誰かなのか、または人の声を真似するだけの化物なのか。
それに、すべて私の妄想という可能性だってあるのだ。この町で孤立して暮らしている限り、私の現実がどれほど歪んで間違っていても指摘してくれる人はいない。
眠りに落ちるたびに、瑠璃川の高い声に引き戻された。
「出してくださいよー。出してくれませんかねー。寒いんですけど」
間延びした、どこか面白半分のような口調だった。試しに言ってみているだけで、本気で頼んではいないといった調子。それでいてしつこく、間を置いて繰り返される。
この現象に本物の瑠璃川は関係ないとわかっていても、あの男のことが嫌いになってしまいそうだった。そもそも、関係ないという彼の言い分は信用できるのだろうか?
ファミレスのスタッフは体力勝負だ。食事を一回、睡眠を一晩、うっかり疎かにしただけでも、そのツケはてきめんに現れる。
壁の音が「コンコン」から「ズンズン」に変わって以来、私の実質的な睡眠は半分くらいに減っていた。毎日、シフトの後半は意識が朦朧とし、足元がふらつき、頭痛と吐き気が付き纏った。
このままでは、春が来る前に倒れてしまうのは明らかだった。部屋を引っ越すか、せめてあの化物を祓う方法を真剣に考えなければならない。しかし、それを考えるたびに、もう今更だ、という諦めの気持ちと、深い悲しみの混じった奇妙な感情が胸を塞いで、私の思考を遮った。どうしてか、あれを部屋から追い払って本当の一人きりになるよりも、取り憑かれたまま死んだほうがマシのような気さえした。
真夜中、建て付けの悪い部屋に隙間風が入る音を聞きながら布団に横たわるとき、部屋に幽霊でも住んでいてくれたほうがまだ良いと思うときがあった。コンコンという音が最初に聞こえてきたとき、あれは確かに給湯管か何かが温度差で軋む音だったはずだが、私はあれこれと理由をつけてそれを幽霊だと思いたかった。化物を育てたのはたぶん、私なのだ。孤独が好きだと気取りながら、どこかで本当の一人きりになる怖さを認められなかった。その心の隙が怪しげなものを部屋に居付かせ、肥大化させたのだ。
ふらふらになって帰宅すると、駐車場に背の高いロングコートの男が立っていた。
瑠璃川だった。
「こんばんは。尾瀬さん」
「なぜここがわかったんですか?」
「え、住所を検索して」
「なぜ住所を……」
「あなたが教えてくれたじゃないですか。先日、電話をくれたとき」
そうだったような気もした。私に呪術が掛かっているという話に気を取られて、その後の会話がほとんど頭から抜けていた。
「かなり、消耗してらっしゃるようですね」瑠璃川の、眼鏡の向こうの目は気遣わしげだった。「いったん、その例の壁を見せていただけますか? 僕の声がするという」
「けど……私、ほんとにお金が無くて」
「もちろん、料金はいただきません。僕が個人的に気になって勝手に来ただけですから」
断るわけにもいかないようだった。
素性のよくわからない男が帰宅を待ち構えていて、部屋に上げろと迫る状況はかなりの問題だが。
状況はそれだけ深刻ということなのだろうか。
舗装されていない敷地に砂利を敷いただけの通路を通り、駐車場の裏側に回る。横長の建物に錆びたドアが四つ並んでいる。三つ目が私の家だ。
鞄から鍵を取り出して開ける間、瑠璃川はぐるぐると首を巡らせ、建物全体や周囲の様子を見回していた。
「見た感じこの場所自体は安全そうなんですけどね。古いけど、方角も良さそうだし。まあ、古いというだけで色々と……」
私が玄関を開けた途端、瑠璃川は口を止めた。
ズン、ズン、と、重い音が響き、「あっ、出してくださいよー」と、誰かののんびりした声が響いた。
「この壁なんですけど」私は廊下に上がり、靴脱ぎ場のすぐ右側を指して言った。
「本気で言ってます?」
玄関口に立った瑠璃川は、声も顔色も一瞬前とはまるで変わっていた。痩せた長身の男は、信じられないようなものを見る目で私と、玄関の右側を見比べた。
「何が、ですか?」
「あなた、これは犯罪ですよ」瑠璃川は言った。「大丈夫? いや、大丈夫じゃないな。なんだこれ。一体何を自動化したんです?」
「何って、何が?」急激に怖くなった。
「出してくださいよー」と、壁の声が言った。「寒いじゃないですか。ていうか誰ですか、誰か来たの?」
「参ったな……少し荒っぽくしますよ。術師がわからないんでは他にしょうがない」瑠璃川は素早く靴を脱いで狭い廊下に上がり、私の真後ろに回った。
私が何か聞き返す前に、瑠璃川は鋭く何かを唱え、間髪を容れず私の背中を強く叩いた。
ドッ。
肺に響くような強い衝撃を感じ、私は思わず俯いて咳き込んだ。
くらくらと嫌な感触の目眩がした。
顔を上げると、湿気で壁紙がたわんだ壁の隣に、磨りガラスの折戸が現れていた。
瑠璃川が折戸の足元側の蝶番に触れ、その隙間に差し込まれていたワイヤーハンガーを取り除いた。
折戸が開いて、痩せた女が転がり出てきた。
毛布をマントのように被り、ショートの髪はボサボサになっている。青白い顔に驚愕の色を浮かべ、大きな目を見開いて瑠璃川を見上げた。
「日奈子! 何してるの」私は思わず言った。
しかし、言いながら、友人が無事で良かったという気持ちと、誰だこの女は、という気持ちが同時に存在していた。
日奈子は毛布が身体から離れないように片手でしっかり掴み、もう片手には食べかけのカロリーメイトを握っていた。
折戸の向こうはトイレ付きの狭い浴室で、足元には毛布がもう一枚敷かれていた。壁際に大量のカロリーメイトやお菓子の箱、トイレロール、天然水のペットボトルが積み上がり、空の湯船にはゴミを纏めた袋が置かれていた。
瑠璃川は廊下にうずくまる日奈子と浴室を見比べながら、ひどく困惑した顔だった。
「あのですね……これは監禁でしょ。僕は市民の義務として通報をしなきゃいけませんよ」
「違うんです、あたしが悪いんです!」日奈子は廊下に座り込んだまま顔を上げ、瑠璃川を見上げて必死そうに叫んだ。
「いや、あなたが悪くても、ですよ」
「そうじゃなくて、サオリは被害者なんです。ここはあたしの家なんです」日奈子は私を振り返った。彼女の大きな目には涙が浮かんでいた。「あたしたち、家賃を節約するために一緒に暮らしてて……けど、一人の時間がないのはキツいと思って、知り合いに催眠術を掛けてもらったんです。二人とも、お互いのことが気にならなくなるように。けど、あたしは上手くいったけどサオリが変な風になっちゃって」
「催眠術ねえ。そういうことにしときましょうか」瑠璃川は溜息をついた。「で、その結果がこれですか?」
「知り合いはそこまでしてないって言いました。でもサオリはあたしと暮らしてたこと自体を忘れちゃったんです」
「まあ……そうでしょう。同居人の存在を意識しないようにと雑な誘導をして、その後の調整やケアを怠れば、当然本人にとって都合の悪い事実を優先的に忘れます。あなたがこの部屋の借主で、尾瀬さんが居候だったなら、尾瀬さんは自分の肩身の狭い立場を積極的に忘れたかったでしょうね。その立場の差が、下手な術の副作用としてはっきり出てしまったわけだ」
「それだけならまだ良かったんです。そのうちサオリは、あたしがトイレや風呂入ってる隙に無意識に閉じ込めてしまうようになって……」
「無意識ってレベルじゃないですけど?」瑠璃川はハンガーを軽く持ち上げた。
「でも、サオリは本当に気付いてないんです。自分でわからないうちに閉めちゃってるみたいで。それで、一、二時間待つと気付いて、開けてくれるんで」
「一、二時間じゃないですよね?」瑠璃川は浴室に積まれた大量の食料をハンガーで指した。「一日二日、の間違いですよね?」
「こうなったのは最近です。それまでは大した問題じゃなかったんです。初めはほんの十分か十五分くらいでした。それがだんだん長くなって……」
「当然、その術師には相談したんですよね?」
「しましたよ! 二人とも催眠術を解いてもらったんです。それであたしは無事に解けたけど、サオリはそのままです。治らなかったんです」
「それで?」
「それで、も何もないですよ。その知り合いに言ったけど、もう解いたからこれ以上は知らない、って。何回も電話してたら着拒されました」
「まあ責任取りきれなくなって逃げたんでしょうね。クズ・オブ・クズですね」瑠璃川は冷たい口調で言った。本気で怒っている様子だった。
それから瑠璃川は、突っ立っていた私を見た。
「……じゃあ、ここが壁に見えていて瑠璃川さんの声がしたのは、私の頭が作り出した妄想ですか?」私は聞いた。
「妄想の一種と言えます。そのクズの術師が掛けた術が下手で、色々こじれた結果の副作用でしょう」
「何度も呼んでた?」私は日奈子に向かって聞いた。「開けてくださいとか、寒いとか……」
「気付くタイミングがあるからね。そろそろ気付きそうかな、って思うタイミングで声掛けてた」日奈子は毛布を握りしめたまま頷いた。
「あなたも十分おかしくなってますよ」と、瑠璃川は日奈子に言った。「あなたの場合は術のせいじゃなくて、尾瀬さんの奇行に付き合ううちに感覚が麻痺したんでしょうけど」
「ごめん」と、私は言った。「ここは、私の家じゃないんだね?」
「住んでいていいんだよ?」日奈子は焦ったように言った。「仕事やめて、困ってるって聞いたから……こんなふうになっても家賃はちゃんと入れてくれてたし、あたしも助かってた、だから」
「でも、元は日奈子の借りてた部屋なんだよね」
「そう。そうだけど」
「それが思い出せないんだ」
私は狭い廊下と剥き出しのキッチン、その奥に続くリビングを眺めて考えた。
ここに住むことになった経緯も、催眠術師のことも、まるで思い出せなかった。
この町でできた数少ない友人の一人が、本当に私の友人なのかどうかも。
「まあ、お二人とも精神に大怪我をしたような状態ですから。すぐには回復しないと思いますよ」瑠璃川は靴を履いた。「僕にできる処置はしましたから、術自体は解けているはずです。あとは同居を解消してしばらく距離を置くことです。半年くらい疎遠にしてれば自然と回復されると思いますけど。ただ、お金の都合とかもあるでしょうから、僕があまり口出すのもね……お二人でよく話し合ってください」
私は日奈子と話すのもそこそこに、出て行ってしまった瑠璃川を追った。
日が暮れてすっかり暗くなった駐車場で追い付くと、瑠璃川は振り返って少し困ったような笑みを見せた。
「瑠璃川さん、あの、お金を……ちゃんと料金を」
「大丈夫です。依頼されてませんから」
「そういうわけには」
「僕は他人の術を解くプロではないんで、これでお金を受け取るわけにはいかないんです。道端で誰か倒れてたら助けるのと同じことです。駅のホームで具合悪そうでしたから、助けただけです。今日のことはその延長です」
「すみません……」お礼を言うべきだとわかっているのに、謝罪の言葉しか出てこなかった。
ひどく情けなくて、恥ずかしかった。
「災難でしたね。あまり、気に病まないでくださいね。あなたも彼女も、悪いことをしたわけじゃないんですから。運が悪かっただけです」
「………」
「世の中はクズばかりじゃないってことを、覚えておいてくださいね。困っていれば無償で助けてくれる人もいますよ。他人がクズばかりだと疑いながら暮らすと人生がしんどいし、余計な出費が嵩みますよ。何事も、ほどほどに」
「私、そんなふうに見えてるんですか?」
「極論に走るタイプに見えますよ。まあ若いうちはみんなそうです、気にしないで。何事も大抵なんとかなります。ならなかったら、またお電話を」
一方通行の細道をタクシーが走ってきて、弱い外灯しかない駐車場に真っ白なヘッドライトを浴びせた。
瑠璃川はもう一度、とらえ所のない笑みを見せると、するりとタクシーに乗り込み、窓から私に軽く手を振った。
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