証拠(3)
葉書の差出人欄には異様な図形と「九月二十三日」「感染し、死ぬ」の文字が墨で書かれていた。
「どう思いますか?」春香の声は語尾が掠れ、手元が小さく震えた。
赤潮は大きく溜息をついて、ソファから身を乗り出し、葉書を手に取った。
ちらりと裏返して、写真とメッセージのある面を眺め、また宛名と奇妙な図形のある面に戻す。
「これは、その……呪術、とかなんでしょうか」春香は聞いた。
「まずシンプルにこの言葉は呪いですね」と、赤潮は言った。
「呪い?」
「単に不吉な言葉を言ったり書いたりするだけで、それは呪いになります。人を不幸にさせるし、具合を悪くさせる。集中力を削ぎ、ミスや不運を誘発する。ただその効果は概ね科学的なものです。心理学で説明が付く。再現可能だしコントロール可能です。この感染して云々やよくわからない日付は無視して構いません。気にしないことです。たぶん去年の九月でしょう。もう過ぎてますし、あなたは死んでいない」
「この葉書が来たのは去年の十一月ですよ。だからこれは、次に来る九月という意味で、今年の九月のことかと思ったんですが……」
「いえ、違います」赤潮は妙にきっぱりと言った。「そもそもこの書かれている文字には、特別な力は無いんです。あなたに嫌な思いをさせて怖がらせることが目的の、ただの悪戯です。だから気にしてはいけません。誰にでもできる、つまらない言霊にすぎません。ただ、問題は、この図形の方ですね」
「この図形が、何か」
「断言はできませんが、こちらは呪術の跡がありますね。科学的ではないほうの呪いが、使われた可能性があります」
赤潮はそれから顔を上げ、奥の部屋に向かって「ちょっと
少し間があってから、瑠璃川が顔を出した。「なんでしょう。タオル足りませんでした?」
「これ」赤潮は葉書を瑠璃川に見せた。
「うん? うーん?」瑠璃川は伸ばしかけた手をぴたりと止めたが、また改めて手を伸ばし、葉書を受け取った。
銀縁の眼鏡の奥の目が細くなり、瑠璃川は不思議な無表情で差出人欄の図形と文字を眺めた。
「なんだと思う?」と、赤潮は聞いた。
「なんでしょうね」瑠璃川は惚けた口調で言ったが、顔はまったく笑わなかった。「術師かな。たぶんそうだろうね」
「だよな。何か仕込んであるよな」
「ううーむ。目的がわかんない」
瑠璃川は首を傾げ、葉書も同じ方向に傾けたり、逆に傾けたり、裏返して写真とメッセージを眺めたりした。
「これは誰宛ての、何? この宛名の、さいたま市の君坂春香さんというのが、あなたですか?」
瑠璃川はソファに座ったまま身を固くしている春香を見た。
「はい」と、春香は頷いた。「姉からの葉書です。それで、これが来た翌週に亡くなったんです」
「なんと……それはそれは。それでは大変だったでしょう」瑠璃川は言いながら、また葉書をじっと見つめて目を細めた。
「やはり何か、良くないものなんですか?」春香は膝の上のタオルを握りしめ、不安な顔で瑠璃川を見上げた。
「良くは、ないですねえ」瑠璃川はまだ図形を睨んでいた。「まず無害な呪術なら、基本的に掛けた本人にしかわからないので。こうやって僕や赤潮にもはっきりわかるっていうのは、相当なことですよ。悪意が……というか、害意が無いと、こうならないですね」
「姉が自分でやったんでしょうか。それとも誰かに頼んで……」
「お姉さんだと思うんですか?」赤潮は春香の方に向き直り、真面目な顔でじっと見た。
「え? でも……」
「亡くなったお姉さんが過去の挫折を逆恨みして自分に呪いを掛けた、なんていう希望的観測に縋らない方が良いですよ。犯人が生きた人間で、悪意に満ちた他人かもしれない。ストーカーとか通り魔とか。そちらのほうがよほど怖いし、その前提で対応した方が良いです」
「まあ十中八九、お姉さんではないでしょう」瑠璃川が言った。「この九月二十三日という日付はあなたやお姉さんにとって特別な日だったりしますか? 誕生日とか」
「いえ、私の誕生日も姉の誕生日も違います。この日付には特に心当たりはないんです……私が忘れてるだけかもしれませんが」
「ぱっと見で思い当たらないなら、関係ありませんね。こういうの、見てすぐにドキッとするような特別な日付であれば、呪術のコスパが上がるので、あえて誕生日にしたりってのはよく使う手ですが。あなたがすぐに思いつかないのなら無意味な日付なんでしょう。そういう点でも、身内の犯行の線は薄いかなと思います。誕生日や特別な記念日を知らない程度の他人だと思います、これを書いたのは」
「この葉書を送ったのは姉ではないということですか?」
「うーん。こっち側の写真とか筆跡がお姉さんのものと考えて不自然じゃないのであれば、まあ、お姉さんが送ってきた葉書に、誰かが余計なものを書き足したってところじゃないですかね。あなたの家のポストを漁って、確実にあなたが見るであろう郵便物を選び、これを書き足した、というのが一番ありそうなことです」
応接間に少しの間、沈黙が流れた。
一呼吸置いて、春香が小さく短い溜息をついた。その目から涙がぽろぽろと数滴落ちた。春香は慌てたようにそれを指で拭って、
「すみません、なんだか……考えることが多すぎて」
「お気持ちはわかりますけど、のんびり考えてる場合じゃありませんよ」瑠璃川は言った。「埼玉からいらしたのなら、もう本日帰られるんでしょうか? それともホテルか何か?」
「ビジネスホテルで……一応明日までいる予定です」春香は答えた。
「明日の何時くらいまで?」
「チェックアウトが十時ですが。そのあと、姉のことを知ってそうな人に、もう何人か会う予定でしたけど、こうなってしまうと必要ないのかなって気もします」
「ふむ……」瑠璃川はまたじっと葉書を持ち上げて、墨で描かれた図形を見つめながら、「では明日の正午にしましょうかね」と言った。
「正午に……何をですか?」春香が不審そうに返した。
「これを燃やします」瑠璃川はきっぱりと言った。
「そんなことして、大丈夫ですか?」
「大丈夫というか、できるだけ早くそうした方がいいんです。ほんとは今すぐここで燃やせば、一旦この葉書に仕込まれたものは消えますが。それだと犯人がもう一度同じような呪詛を仕掛けてくる可能性が残ってしまうので、ちょっと心配ですからね。ややリスクはありますが、明日の正午まで引き延ばして、犯人を炙り出しましょう」
「大丈夫? できるの?」と、赤潮が聞いた。
「うーん、今日の仕込みを僕がやって、明日はリン君にパスしようかと」
「あいつ頼みかよ」
「だってそれが確実じゃない? 僕は本業のほう休めるか微妙だし」
「リン君の予定を聞いてからにしろよ」
「じゃあ、今、聞いといてよ」
「ええー」
赤潮が溜息をつきながらスマホを取り出した。瑠璃川はポケットから銀色のジッポライターを出して、慣れた手つきで火を点け、その細長い炎の先に葉書をそっと近づけた。
「ちょっ……」春香がびくっとしてソファから腰を浮かせた。
「大丈夫、大丈夫」瑠璃川は子供をあやすような口調で、薄く笑みを浮かべて葉書を上下させた。
「今、燃やすんです?」春香は不安な顔で聞いた。
「明日です。今は仕込みです。これをやった術師にプレッシャーを掛けて、文字通り炙り出す」
「やり過ぎるなよ」と、赤潮はスマホを操作しながら言った。「呪詛返し返しをされるなよ。お前の巻き添えで死にたくない」
「大丈夫だって」瑠璃川は葉書に描かれた図形の縁を、ぎりぎり焦げ目が付かない程度にライターの炎の先でなぞった。そして今一度、眼鏡の奥の目を真剣に細めてから、パチンとライターの蓋を閉じた。
金属の立てる鋭く硬い音が狭い応接間の中に響き渡り、少しの間その余韻が残った。
「明日の正午、中央いずみ公園へ」瑠璃川はまだ葉書を見つめながら言った。「中央駅の北口から真っ直ぐ歩けば着きますから、迷わないと思います。噴水の前にいます。僕は行けるかどうか分かりませんが、赤潮は必ずいるので。あともうひとりは?」
瑠璃川はスマホを見ている赤潮を振り返った。
「うん、もうひとりは、たぶん来る」
「たぶんじゃ困るんだけど?」
「だから彼の予定を聞いてからにすればいいのに。まあ、来させるよ……お前からちゃんと引き継いでおけよ。俺は見てるだけにする」
「完全に及び腰だねえ」瑠璃川は軽く笑ってから、ソファの上で不安げな顔をしている春香をまた見た。「この葉書はこちらで預かりますね。今まで持ち歩いていて平気だったようですから、あまり警戒しすぎなくて良いと思いますけど、念のため足元と頭上にはお気を付けて」
「あの……やっぱり燃やさないと駄目なんですか?」と、春香は聞いた。
「燃やさないと駄目ですね」瑠璃川は優しげな声できっぱりと言った。
「でも、姉の最後の手紙なので……」
「それでも駄目です」
「その、呪いの部分だけ切り取る、とかでは駄目ですか?」
「駄目です。全部燃やします。これはあなたのためだけじゃなくて、関わった僕らや、あなたの周りの人達にも影響のあることなんで」
「そうですか……」春香は項垂れるような形で俯いた。
少しの間沈黙が流れたが、赤潮が何かを言いかける前に、
「あ、そういえば」と春香は顔を上げた。「お金、どうなりますか? お祓いをしてもらうわけだから、何か料金が……」
「いえ、これは俺たちの本来の仕事ではないんで、お代はいりません」赤潮が答えた。「見つけてしまった以上放置はできないんで、人助けをするまでです」
「でも、それでは申し訳ないです」
「申し訳なく思う必要なんかありませんよ。お姉さんのご依頼でこっちは儲けさせて貰ったんだから」
「ていうか本職じゃないことで金なんか取ると後々大変なんですよね」と、瑠璃川が被せるように言った。「そして急かすようで申し訳ないんですが、ここでこの葉書を前にして長話をしてると色々よろしくないんでね、もうホテルに移動した方が良いですよ。暗くなる前にね。雨、止んだのかな? 一応傘をお貸ししますよ、また降るといけないから」
瑠璃川は殆ど追い立てるくらいの勢いで春香を廊下に案内し、遠慮しようとする彼女に無理やり傘を持たせて送り出した。
「大丈夫かな」
玄関のドアが閉まってから、赤潮がぽつりと言った。
「まあリン君は、しくじらないでしょ」瑠璃川は呑気な口調で返した。
「うーん、その点はそんなに心配してないけどさ……」
翌日も雨だった。朝から灰色の雲がみっちりと空を覆い、弱い雨が絶え間なく単調に降り注いだ。
正午が近づくとそれがぴたりと止み、嘘のように綺麗な青空が広がった。
気温が急激に上昇し、日射で温められたアスファルトからもうもうと湯気が立ち上がった。
雨水が蒸発してみるみるうちに乾いていく道を、春香はゆっくりと踏みしめるように歩いた。昨晩は考え事が止まらず、ほとんど眠れなかった。頭が重く、足元がふわふわとして頼りない。湯気の立ち込める道路の異様な風景が、まるで現実のものに思えない。
噴水のある公園はすぐに見えてきた。カラフルなタイルの敷き詰められた広場が通りに面しており、「公園」という呼称から想像していたよりも遥かに大きい。車道と同じくらいの幅の遊歩道がゆったりとカーブしながら奥へと続いており、ときおり自転車に乗った学生や買い物カートを押した老人などが通っていく。
もっと人目に付かない場所でなくて良かったのだろうか、と春香は不安になった。
赤潮は噴水の池の縁を囲むベンチ型の石に腰掛けてスマホを見ていたが、春香が近づくとすぐに気付いて立ち上がった。
噴水の水飛沫の効果で辺りは涼しい風が吹いており、広場の空気は澄んでいた。春香はようやく目が覚めたような気分になった。
「お待たせして、申し訳ありません」
「ああ、いえいえ、まだ時間じゃないですよね」赤潮は腕時計を見た。「すいません、まだもうひとりが来ないもんで。瑠璃川は結局やはり来られないので、あともうひとりだけです。
「若い?」
「そう、高校生です」
「へえ……」春香は少し驚いたが、それ以上は言葉が浮かばなかった。
「もうすぐ十分前なのに。暢気な奴だ」赤潮は腕時計を見ながらぶつぶつ言った。「あいつ、正午って言われて十二時ぴったりに来る気じゃないだろうな」
間もなく、ヂリンヂリン、と強めのベルの音と甲高いブレーキ音を響かせて自転車が突っ込んできた。
「うわっ」赤潮は仰け反った。
「お待たせー」自転車の主はふわりと降り立って、流れるような動作で自転車を噴水の前に停めた。
異様な顔立ちの若者だった。瞼の上や頬骨が盛り上がって迫り出し、目と鼻と口が揃って厚ぼったく大きい。それぞれの位置も微妙に対称性を欠いていて、人の顔というよりも祭事に使うお面のような印象を与えた。
春香は実家の玄関に置かれている沖縄土産のシーサーの顔を思い出した。
「どうも」若者は春香を見て軽く会釈し、赤潮には「まだ来てないの?」と聞いた。
「さあ」と赤潮は肩をすくめた。
「え、なんか、めっちゃやる気ない」
「俺は見学だから。立ち会うだけ」
「ええー。あんたの客じゃないのかよ」
「いや、そういうわけでもない。縁があって、たまたま関わることになっただけで……」
「またナンパかよ。いい大人がいい加減にしてくれよなあ」
「違うって。まるで俺がしょっちゅうナンパしてるみたいな……風評被害だろ、これ」赤潮は春香を見て、「そんなことしてませんからね。こいつが燐太郎と言います。うちの三人目の社員です」
「どうも。急にすみません」と、燐太郎は改めて春香に会釈した。それから彼は広場をぐるりと見渡して、「うーん、来てる感じはないな」と言った。
「何が?」春香も思わず広場を見回した。ぽつぽつと人影はあるが、散歩中の老人だったり、ベビーカーを押した親だったりと、ごく普通の昼間の公園の風景だった。
「瑠璃川さんが仕込みをしたんで、術師本人がここに来るはずなんですけどね。魔法で来るつもりの人かな。そういうの嫌なんだけどなー」
「これね」と言って、赤潮は鞄から例の葉書を取り出して燐太郎に渡した。
「おいおい、ハダカで持ってきたの?」
「え、服着てるけど」
「あんたじゃなくて葉書のほう!」燐太郎は葉書の両面をあらためて、墨で描かれた図形と不吉な言葉を見ると、醜い顔をぐにゃりと歪めた。「腐ってるな。ほんとに性根が腐ってるなー。せめて言葉が通じる奴だといいけど。そしてよく、これを普通に鞄にそのまま入れて来ようと思ったな、そういうとこ気をつけた方がいいよ」
「えっ、駄目だったんですか?」春香は思わず聞いた。
「いや、この人の話です」燐太郎は赤潮を示した。
「元々は、私が持って来たんですが。私もそのまま鞄に入れて……」
「まあそれは、掛けられた本人なら、しょうがないというか。本人が運ぶ分には、どういう持ち方しても同じなので。でも、ご無事で何よりでした」
燐太郎は当たり前のことのようにさらりと言ったが、それが余計に本当らしく聞こえて春香は背筋が寒くなった。
それから燐太郎と赤潮はぶつぶつ言い合いながら、道具を出してあれこれ作業を始めた。足元のタイルにチョークで円を描き、その中に短い白い木の角棒を数本、組むように積んで、マッチで火を点けた。角棒は薪木用のものらしく、すぐに火が回って小さな焚火ができた。
「パパッとやっちゃいましょうね。ここたぶん、焚火禁止だから」燐太郎は屈んで、焚火の上にそっと葉書を乗せた。
春香が何か言いかける暇もなく、葉書はすぐに表面が黒くなり、穴が空いて半分に折れ、それぞれの欠片の隅々まで縮んで煤に変わった。
「来ないかな?」
燐太郎は焚火の前に膝をついてじっと覗きながら、両手を胸の前で奇妙な形にそっと組んだ。
急に、音も立てず火が大きくなり、燐太郎は腰を浮かせて素早く一歩下がった。組んだ手の形は変えない。
青白く高く燃え上がった炎の中に、男の顔と上半身が浮かんだ。
『なんや、シロートか』絡み付くような濁声で、顔が喋った。『坊さんでも神主さんでもないな』
春香は無意識に、引き攣るような悲鳴をあげていた。
赤潮がその肩に手を置き、「知り合いですか?」と耳元に小声で聞いた。
春香は首を横に振った。「知らない……知らない人です」
「十分な猶予を持たせて分かりやすい場所を指定したのに、直接来なかったということは大した用事はないんでしょうね?」中腰で手を複雑な形に組んだまま、燐太郎は言った。
『ガキが。ナマ言いよる』
「なぜこの人を狙いましたか?」
『この人って誰や。知らんわ』
「適当に目についた葉書に悪戯しただけ?」
『ああ、たぶん。もう忘れたが。なんなん? 用はそれだけか?』
「もう二度と、関わらないで、くれますね?」燐太郎はゆっくりと言葉を区切りながら言った。
『はあ? なんで俺がそんな約束しなきゃあかんの?』炎の中の男が顔を歪め、歯を剥き出した。『俺に契約をさせる気か。ドシロートの癖に。調子乗ってんなよ、小僧』
「はい、お返事承りました」
不自然に一拍置いてから、燐太郎は言って、手の形を解いた。
「赤潮さん。もう消しちゃっていいよ」燐太郎はまだ燃え盛っている炎と黒い男の影を見やって言った。
赤潮が近付く前に、炎はみるみる縮んで、本来の焚火の色に戻っていく。
『おい! なんで……クソ! ふざけやがって!』声だけが喚き立てていた。『俺は承知してないぞ! この野郎! おい、何回でもまた呪ってやるからな! 死ぬまで追い込んだるからな!』
「うるせー奴だな」赤潮は焚火を踏んで消しながらぶつぶつ呟いた。
「赤潮さん、会話しないで」燐太郎は子供を叱るような口調で言った。
濁声は篭って遠くなりながら、まだ続いていた。
『いいことしたつもりかよ? え? その女に呪いを掛けてやって、生きる理由を作ってやったんだぞ! 俺は親切でやってんだ! 誰かに恨まれてるって思いながら、人のせいにして生きてくのは楽だろうがよ! 俺がその女、楽にしたったんや、これは親切やぞ、それを自分ら台無しにしやがって、この、そ、』
赤潮が最後の火種を踏み潰すと、声はぷつりと途切れた。
噴水の音と通りの車の音が戻ってきて、春香は今までそれが消えていたことに気付いた。
足元には半分ほど焦げた薪木が転がって、赤潮は更にそれにペットボトルの水を掛けた。葉書の燃え殻は、もうどこにあるのかわからなかった。
「真に受けてはいけませんよ、わかってると思いますが」赤潮は春香を振り返って言った。「言葉の呪いは誰にでもできるんです。口だけなら、何をどうとでも言えるんですから」
「陰口と一緒ですね」春香は頷いた。「でも、あの人はまた呪いを掛けると言ってましたが……」
「いや、それはできないです。燐太郎が契約をさせたので」
「でも、断られたのに」
「あいつは返事しちゃったから、その時点で負けです」燐太郎は埃を払うような動作で手を二回打ってから、言った。「こっちはお願いしてるんじゃなくて束縛の呪いを掛けてるんだからさ。『はい』でも『いいえ』でも、返事したら終わりなんです。ひとのこと素人呼ばわりしたくせに、こんな初歩的なことで……まあ、俺が舐められてたのかな」
「こいつの術はわりと強力なんで安心してください」と、赤潮は言った。
「じゃあ俺はこれで」燐太郎は自転車のサイドスタンドを上げたかと思うと、もう走り出していた。「午後の課外があるんで。あと、片付けよろしくー」
春香が慌ててその背中に例の言葉を述べたが、若者は振り向かず片手だけ挙げて、広場を突っ切りあっという間に通りに出て行った。
「さて、俺らも撤収しますか。駅まで送りますよ」
赤潮は濡れた薪木をビニール袋に集め、タイルに溜まった煤混じりの水を靴の裏で擦って散らした。
「いえ……ここで大丈夫です。新幹線が、もう指定席を取ったので」春香はスマホで時刻を確認して言った。「ありがとうございました。あの……何もお礼ができなくて……」
「いえ、こちらこそ、お姉さんの葉書を残すことができなくて申し訳ない」
「そんなこと」
「大事な話をしに来てくださったのに、ろくなことができなくてすみません。俺たち三人とも、気が利かないもので」
「そんなことないです」春香は少し声を強めて言った。「助けていただいて、ありがとうございます。私、あの……さっき、姉の声を聞いたんです」
「声?」
「あの男の人が火の中に出てくる直前。声がしました。顔も一瞬だけ見えたような」
「そうですか」
「写真と同じ顔で笑っていました。『春ちゃん』って聞こえました。その、それだけですけど」
「不幸や恨み言とかじゃないなら、とりあえずは良かったですね」
「はい。もちろん、私の錯覚なのかもしれませんが……」
「いえ、あなたが見て聞いたのなら、確かにお姉さんだと思いますよ」赤潮は穏やかな声で言った。
春香は少し驚いたように目を見開いてから、ふっと肩の力が抜けたように微笑んだ。
駅に向かって去る春香の背中が十分小さくなったのを確認しながら、赤潮はペットボトルに残っていた水をゆっくりと飲み干した。
「見える人か。難儀だな」
赤潮は低くぼそりと呟いて、もう一度彼女の姿をよく目に焼き付けてから、公園の奥へ続く遊歩道へと大股に歩き出した。
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