証拠(2)

 姉のなつは、歩き始めてすぐにバレエを習い始めた。二歳、三歳、四歳……幼児の頃の彼女の写真は八割がバレエの衣装やポーズで写っている。はるの目には、姉の手脚の優美な所作や、ぴんと伸びた背筋や、細く引き締まったプロポーションが、ひどく理想的なものに見えた。自分もバレエを習いたい、と春香は何度か両親にねだったはずだが、気づくといつもその話は立ち消えていた。実際、姉の取り組んでいる厳しい練習や自己管理のノルマを、自分が同じようにこなせるとは到底思えなかった。姉は何かを「持って」生まれた人間で、家族の誰とも似ておらず、独自の理念と情熱を持ってバレエという芸術に打ち込んでいるように見えた。


 真相の一端を垣間見たのは、姉がバレエを辞めるときだった。

「そろそろさ、バレエ、辞めていいかな?」姉は夕食をとる手を止め、緊張した面持ちで母を見た。

「ああ、うん」母はテレビに気を取られて、半分笑っていた。「バレエ……バレエね、はいはい」

「これから勉強忙しくなるし。あと、生理のとき辛い」

「そうね、潮時かもね。随分長く続けたねえ」母は振り向いて、感慨と呆れの混じったような声で言った。

「だってお母さんが無理矢理習わせたんじゃない」と、姉は苦笑いを返した。「絶対、女の子は必ずするもんだからって」

「え、じゃあ、私は?」春香は思わず甲高い声をあげた。

「ええ? そんなこと言ったっけ」母は乾いた笑い声をあげて、テレビに目を戻した。

「そうだよ。私が、一回でも休みたいって言ったら一時間くらい説教してさ……小さい頃は週二で行ってたよね。上のクラスと掛け持ちして」

「ああ、春香が生まれる前ねえ」と母は言った。

「プロに行けるコースだから、絶対サボれない、ってお母さんいつもめっちゃ怒ってたのにね。春ちゃんが生まれたらいつの間にか行かなくなってて、おかげで命拾いしたわー」姉は春香を見てにっこりと笑った。「土曜日の上級コースの先生、超スパルタで怖くって。春ちゃんが生まれてから行かなくて済むようになったから、私はとても感謝したよ」


 なにそれ、と笑いながら返そうとしたが、春香は声が上手く出なかった。


 春香の記憶にある限り、両親が姉のバレエに特別な興味を示す素振りはなかった。ありきたりな子供の習い事のひとつとして、成果が出れば褒め、発表会にはカメラを持って駆け付けたが、姉の練習に対して口を挟むとか、上達を求める、叱咤激励するというような場面は一度も見たことがなかった。

 お姉ちゃんはバレエが好きなんだねえ。たまにはズル休みしてもいいんじゃない。そんなに打ち込みすぎると、身体に毒だよ。

 母は能天気な声色で、姉の高尚な取り組みを茶化すことが多かった。母は初めからそういう人間で、姉も初めからこういう人間なのだと、春香は素直に信じ込んでいた。

 自分の生まれる前に、この家に全く違った家庭が存在していたのではないかという閃きが、春香の腹の奥に不穏な塊となって首をもたげた。

 急に薄ら寒くなって隣の父を見やると、父はいつになく慌ただしい仕草で茶碗を持ち上げ、その中身を一心不乱に掻き込んでいた。



 バレエを辞めてからしばらく、姉は沈んだ顔で物思いに耽ることが多かった。しかし、やがて受験のために塾に通い出すと活力を取り戻し、放課後も休日も「自習室に行く」と言って家には寄り付かなくなった。姉は学区外の高校に進学して更に帰宅が遅くなり、大学に入ると一人暮らしを始めた。そのまま遠方に就職し、やがて連絡が途絶えた。



「姉が小さい頃ってうちは教育熱心な家だったんじゃないかなと思います。教育ママっていうか、早期教育って言うんですかね? 赤ちゃんのうちから習い事させて、ひらがなとか足し算とかも幼稚園前から始めて、英語も習わせて、バレエも極めまくって、いつかプロからお呼びが掛かって……みたいな。よく分かりませんけどね。だってうちってすっごい庶民ですよ。庶民中の庶民、ド庶民ですよ。バレエでプロみたいな道に進んだって、母も父も運動音痴だしバレエの知識も無くって、マネージャーみたいなこともできるわけないし、そんな金も無いのに。馬鹿ですよねえ。それで結局、私が生まれた後、体調崩して半年入院しちゃって、たぶんそれで挫折して諦めたんでしょう。っていうか飽きて目が覚めたんだと思います。こんなことしてもしょうがないって……でも姉はたぶん、急に価値観を変えられなくて、ずっと自主的にバレエを続けてたんだと思います」

 きみさかはるはかなりの勢いで止めどなく喋ってから、ふと我に返ったようにぴたりと静かになった。


 かわが間仕切りの向こうから現れ、雨でずぶ濡れになっていた彼女に熱い番茶を出し、乾いた大きめのタオルを渡した。

「あ、すみません」春香は恐縮した様子で受け取った。

「あちらにお手洗いがあるんで、どうぞ、遠慮なく使ってくださいね。少し広めになってますから」瑠璃川は廊下に続くドアを示して丁寧に言うと、また間仕切りの向こうにいなくなった。


「さっきの眼鏡のやつが瑠璃川と言います」あかしおは間仕切りの方を軽く見やってから、また正面の春香に目を戻した。「で、俺が赤潮です。普段はこの二人ですね。一応、もうひとりいるんですが、あんまり来ないので。外に株式会社って表札が出てますけど、ほとんどサークルか同好会みたいなものなんで。……えっと、先ほどお聞きした感じだと、お姉さんのことでいらしたんでしたっけ。何かご依頼があるわけじゃないんですね?」

「ええ。すみません……依頼とかは特にないんです」春香はタオルで顔や髪を少し拭き、それから所在なげに膝の上に置いた。

「大丈夫ですか。お手洗い、使われます? ドライヤーとか貸せればいいんですけど。ここ、住居として使ってないんで、そういうものが何も無くて」

「いえ、大丈夫です。すぐ乾きますから」春香は湯呑みをゆっくりと取った。

「基本的に、というか、これは絶対の原則ですが」赤潮は手帳を取り出して頁を繰りながら言った。「お客様の個人情報や依頼の内容は誰にもお話しできません。ご家族でも恋人でも、どういう事情があっても。俺からお話しできることは無いんです」

「そうですよね、……」春香は湯呑みを覗き込むように俯いた。「けど、私はどうしても、姉が何に悩んでいたのかを知りたいんです」

「あなたが今、お話しくださったことじゃないですか?」赤潮は特に表情を変えずに少し首を傾げた。

「そう思いますか? やっぱり姉はバレエのことで私を恨んでいたのでしょうか」

「恨んでいた? そう思うんですか?」

「違うんですか?」春香は顔を上げた。その表情はどこか切羽詰まっていた。

「違うかどうか、俺にはわかりません。お姉さんが悩んでいたかもしれないという話も、バレエの話も、あなたを恨んでいたかもしれないという話も、今、俺はあなたから聞きましたよ。ええと……君坂さん、ですね」赤潮は手帳の頁を繰る手を止めた。「あった、ここにメモが残っていました。もう三年前ですね。きみさかなつさん。確かにうちにいらしていて、俺が依頼を受けました」

「やっぱり来てたんですね。それで」春香は湯呑みをテーブルに置き直し、ぐっと身を乗り出した。

「うーん、特に無いですね。それ以上は」赤潮は手帳をじっくり読み返しながら言った。「来ていた、というだけです。二度いらして、二つほど自動化を依頼されて、俺がそれを引き受けました。何か不具合があったり、自動化が不要になったらまた来てくださいとお伝えしましたが、その後いらっしゃらなかったようです。それはまあ普通というか、他のお客様と変わりないですね。通常のご依頼でした」

「どんな依頼だったのかは……」

「それはお話しできません。それに、知っても知らなくても同じだと思いますよ。少なくとも妹さんの話はまったく出ませんでしたし。依頼は学生生活に関することでした。大学のこと、そしてアパートでの暮らしのこと、それだけですね、俺が聞いたのは」

「そうですか……」と言って、春香は少し俯いて黙り込んだ。


 応接間にひとつだけあるはめ殺しの窓に、雨が打ち付けていた。磨りガラスになっていて、外の様子はほとんど窺い知れない。ただ、日没が迫って急激に暗くなっているようだった。


「お姉さんに、何かあったんですか?」と、赤潮は聞いた。

「あの……亡くなったんです。去年の暮れに」春香は俯いたまま、低い声で言った。

「そうでしたか……」赤潮は筆記具を栞のように挟んで手帳を閉じた。「お悔やみ申し上げます。それならさぞお辛いでしょうね。何もお力になれず申し訳ないです」

「いえ」と春香は短く言った。

「お姉さんの持ち物に、俺の名刺が入っていたんですね。それを見てここを訪ねられたと」

「そうです……他にも姉のことを知ってそうな人の所へはなるべく行ってます。ここだけじゃなく」

「そうしなければいけないご事情があるってことでしょうかね。お姉さんの亡くなった状況に不審な点があったとか?」

「ただの交通事故、と、警察は言ってます。高速道路でスリップして、カーブを曲がり損ねて。相手がいたわけでもなくて、単に色々不運が重なった上での運転のミス、ということでした。運転していたのは彼氏で、彼氏も亡くなっています」春香の口調は滑らかで、もう何度も色々な相手にこの説明を繰り返してきた様子だった。

 赤潮は黙って相手を見返し、先を促した。

「その事故の直前に、姉からこれが来たんです」春香は大きめの手帳を取り出し、その中に挟まっていた一枚の葉書を取ってローテーブルの上に置いた。

 上半分が写真、下半分がメッセージ用の空欄になっていた。花柄のカバーが掛かったソファに若い男女が並んでいる。夏華と思われる女性はハート型のクッションを抱えており、男性はピースサインかハートを作ろうとして途中でやめたような、半端な仕草で写っていた。自宅で撮ったプライベートなスナップを、よくあるプリントサービスで葉書にしたものと思われた。


 メッセージ欄には太めのボールペンで「はるちゃんへ 元気にしています 夏華」と書いてあった。


「これはお姉さんの字ですか?」と、赤潮は聞いた。

「ええ、そうだと思います。私もこんな字なので。真似したわけじゃないのに、姉妹で似るんですよね」

「そうすると、じゃあ、お姉さんから近況を報せる葉書が来て、その直後に亡くなられたと」

「こんな葉書が来たの、初めてなんですよ。姉が今どこで何をしてるのかって、親も私も知らなかったんです。関西の方で就職したとは聞いてました。でも、住所も就職先も知らされてなくて。メールしても、返事があったり無かったり。電話も出ない。なんとなく何処かで元気にはしてるんだろうけど、消息はよく分からないって感じが続いてて。だから、この葉書が来てとてもびっくりしました。そしてすぐ次の週に、姉は亡くなったんです」

「この、写っている人が、一緒に亡くなった彼氏さんですか」

「そうです。この人のことも、私や親は全然知りませんでした。一緒に暮らしていたようなのですが。しかもこの彼、ご両親が早くに亡くなっていて、ほぼ天涯孤独みたいな人だったようで……親戚の、おばあさんの妹さん? みたいな方が見えたんですが、その方も別に関わりがあったわけではないようで、生前の二人のことについては何もわからないと。結局、向こうの方の葬儀とか片付けなんかはご友人みたいな方が取り仕切ってました。その友人という人も、彼氏さんの幼馴染だけど、姉とは会ったことがないと」

「うーん。ありそうなことに思えますね」赤潮はソファの上で少し居心地悪そうに手を組み直した。「すみません。俺は他人だからすごく冷たい言い方をしてるのかもしれませんが……ありふれたことに思えます。音信不通だったお姉さんから唐突に葉書が来て、その翌週に偶然にも亡くなられてしまった。お姉さんが急にその葉書を送ろうと思ったのは、何かの虫の知らせだったのか、とも考えたくなりますが。しかし、自分の事故死を予期してる人なんていませんよ。予期してたら、避けられることですからね。そのタイミングで葉書が来たのは、やはり偶然です」

「でも……」

「ひとつお聞きしたいのですが、お姉さんが学生のとき、つまり、俺のところに依頼に来た三年前。お姉さんは学業の様子や彼氏のことについて、あなたに話したり、それとなく知らせてきたりしましたか?」

「いえ……姉はそのときもう、一人暮らしだったから。ときどきメールのやりとりはしてましたが、誕生日おめでとうとか、季節の挨拶程度でした」

「亡くなった彼は、学生時代からの彼でしょうか?」

「違うと思います。向こうの方は大学もずっと関西だったようなので。姉が就職して向こうに引っ越して、その先で出会ったんだと思います」

「そうですか」赤潮は少しだけ俯いて間を置いた。


 それから赤潮は手帳をまた取り上げて、先ほどの頁を開いた。


「これは俺の個人的な想像に過ぎませんが、お姉さんは自分が大学で学業や恋愛を上手くやっているかどうか、妹のあなたには伝えなかった。しかし就職して別な方と知り合い、その人と一緒に暮らすようになり、その様子を『元気にやっている』と報せてきた。その事実がすべてだと思いますよ」

「そう……でしょうか」

「お姉さんの俺への依頼は、ちゃんと上手くやっているように体裁を保ちたい、というものでした。これは、ここにいらっしゃるどのお客様もそうです。できればやりたくない、面倒だと感じていることを、自動化して、ちゃんとやっている体にしたい。学生生活全般に対して、お姉さんはあまり興味を感じていなかったようですね。学業も恋愛も、アリバイ作りのようなものだとおっしゃっていました」

「アリバイ?」

「不思議な言い方ですよね。印象深かったので、ここにメモしていました。お姉さんは確かに心に空虚なものを抱えていて、その当時の暮らしには生き甲斐を見出せていなかったのかもしれません。ご家族に卒業後の行先を知らせなかったのも、あるいはそのせいかも。けど、その後良い出会いがあって、幸せを手にしたんじゃないでしょうか。この写真のお姉さんは幸せそうに見えます。そしてお話を聞く限りでは、お姉さんが春香さんを恨んでいたようには思えません。もしお姉さんが春香さんを嫌っていたなら、学生時代の成績や恋愛模様を逐一あなたに自慢していたはずです。なにせ、そのアリバイ作りのために金を払って、呪術の依頼までしたわけですからね。でも、お姉さんがアリバイを示したい相手は、少なくともあなたではなかった。お姉さんにとって春香さんは、見栄を張りたい相手ではなく、まっとうな幸せを共有したい相手だったんだと思います」


 春香は見開いた目に力を込め、泣き顔と怒った顔の入り混じったような表情になった。


 しかし彼女はすぐに首を振ってその表情を打ち消し、

「これを見ても、そう思いますか」

 そう言って春香が葉書を裏返すと、住所と宛名の書かれた面が見えた。


 左下の差出人の欄に名前や住所が無く、替わりに奇妙な図形が描かれていた。太極図と西洋の魔法陣を折衷したような、どこか禍々しい印象のある図だった。太く黒い線は筆と墨で引かれているように見える。


 そして、おそらく同じ筆で、その図形の上下の余白に「九月二十三日」「感染し、死ぬ」という言葉が記されていた。

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