証拠(1)

 私と姉は姉妹だった。


 歳はそれほど離れておらず、ある程度成長してからは「双子ですか」と何度も聞かれるほど見た目は似ていた。私と姉は同じ家で育ち、もちろん同じ親に分け隔てなく育てられ、趣味や性格もよく似ており、いつも一緒に遊ぶ、気の合う姉妹だった。

 それでも姉は私とはまったく違っていた。もしかしたら全ての始まりは、私を産んだ直後に母が長く入院したことだったのかもしれない。あるいはもっと単純化して言えば、私が生まれたことこそが、姉が私と離れることになった全ての原因だったのかもしれない。




 訪ねてきた女がびしょ濡れだったので、あかしおはエアコンを「送風」にして風量を強くした。さすがに「暖房」にするのは季節柄、難しかった。

「すみません、ドライヤーとかあれば良かったんですがね」赤潮はバスタオルを一枚、女に渡し、またもう一枚をソファの真ん中に敷きながら言った。「とりあえずここに座ってください。あんまり居心地良くないかもしれませんけど……」

「いえ、すみません」女は曖昧な動作で頭を下げながら腰を下ろした。それから、受け取ったタオルで顔、頭、腕をバサバサと拭き、最後にそのタオルをショールのように肩から掛けた。


 色白できりりとした目をした、若い女だった。濡れたワンピースは元来のカーキ色が更に濃くなって黒っぽく見えた。意志の強そうな顔立ちに反して、手足は細く頼りない印象だった。


 赤潮はローテーブルを挟んで向かい側の、同じ形のソファに腰を下ろした。彼は背が高く、肩幅も広かった。精悍な顔立ちも相まってそれだけで威圧感を与えそうだったが、垢抜けないTシャツとくたびれたジーパンという部屋着のような格好がそれを少し中和していた。


「えっと、いま何か温かいものを……」

「いえ、あの」女は赤潮の言葉を遮って口を開いた。「すみません、実は忙しいんで……すぐ本題に入ってもいいですか」

「ええまあ……どうぞ」と赤潮は言った。「あ、一応お名前を伺っても?」

きみさかです。君坂なつと言います」

「君坂さん」赤潮は呟くように言いながら、メモ帳と筆記具を取り出して新しいページに書き留めた。「すみません、これは自分用のメモなんで。頂いた個人情報はきちんと秘匿しますし、他のことに使ったりはしません」

「ああ、最近はそういうの煩いんですかね。私は気にしませんが……」

「まあ、気にする方は気にされますんで」

「私は別に、素性にしろ何にしろ、秘密でも何でもないんですよ。今、学生なんですけど、講義つまんないから、それ自動化してもらおうかなって。出席して、教室の入口でカードをピッてして、講義受けて板書をノートに写して、終わったらまたピッてして出るだけです。今期は週に十二……十三コマだったかな。ひとコマ毎に講義室の移動があって、水曜の午後はキャンパスも移動します。それでどの程度自動化できるのかなっていう……」

「あんまりお勧めしませんけどね、勉強の自動化は」と、赤潮は言った。「我々の技術は、要はルーティンをこなす際の記憶を薄れさせる、意識を弱める、といったものになるので、勉強みたいに経験の積み重ね自体を求めるものとは相性が悪いですよ。自動化はできますけど、そうすると知識はほとんど身に付かないので、講義を受ける意味がなくなります」

「別にいいんです。頭良くなるために大学行ってるわけじゃないので」

「しかし何らかの経験のために行くわけでしょう。講義そのものに興味はないとしても、そこで色んな人に出会うとか、大学の空気感を味わうとか」

「うーん、他の人はそうだと思いますけど、私は違いますね」君坂はちょっと肩をすくめ、改めて被ったタオルの両縁をしっかりと握って肩に巻きつけた。「私はほんとに、大学そのものに興味がないんです。そこでの経験も記憶も、なんにも要らないです。単位だけもらえればいい」

「ではなぜ大学に行ってるんです?」

「アリバイ作りのためです。ちゃんとやってるよ、っていう。周りの目から見て、やってる感じになってれば、それでいい。私自身には何の記憶も成果も残らなくていいの」

「そこまでわかってて承知の上なら、別に構いませんけどね」


 赤潮は立ち上がり、部屋の奥の引き戸型の間仕切りを動かして、その向こうに消えた。やがて、簡素な盆に幾つかの道具と、湯気のたつ湯呑みをひとつ乗せて戻ってきた。


「どうぞ」赤潮は熱い番茶の入った湯呑みを君坂の前に置いた。

「それは何に使うんですか?」君坂は湯呑みを取りながら、目は赤潮の手元の他の道具の方に向いていた。

 少量の水の張ったガラスの小鉢、ティースプーン、それにコルク栓のされた小瓶が二つ並んでいて、片方には赤い粉、もう片方には青い粉が入っていた。

「ひとまず、講義と移動時間のみを自動化しましょう」赤潮は小瓶の栓を抜き、赤い粉を水の入った小鉢に入れた。スプーンで混ぜると少量のペーストのようなものができた。「講義室に入った瞬間から、次の休み時間が始まるまで。教室やキャンパスの移動は『休み時間』に入れません。だからだいたい、朝に講義室入って昼休みまでは、あなたはほぼ眠ります。午後一の講義室に入って放課後になるまでも同様。空き時間があれば、空き時間には毎度目が覚める。それ以外は、眠っている間に終わります」

 赤潮はもうひとつの小瓶の栓を抜き、青い粉を器に追加してスプーンで混ぜた。やがて赤いペーストは紫色の塊になった。赤潮はそれを掌に取って小さな球状に丸め、テーブルの中央に置いた。

「周りの目にはあなたがいつも通り出席してノートを取っているように見えます。挨拶や簡単な雑談にも普通に返事をします。ただ、あなたの意識にほとんど上らないだけです。何か変わったことが起きてルーティンを外れた場合、自然と目が覚めます。だから事故やトラブルの心配はありませんし、重要なイベントを見逃すといったことも無いです。この、ルーティンを外れる際の繋ぎ方に結構気を遣っているんですよ。自画自賛ですけど……もし科学的な方法だったら、特許を取りたいところです」

「科学的ではないんですね」君坂は湯呑みを抱え込むように持ったまま、相手をじっと見返した。

「一部は科学的です。心理学や脳科学。医学的なことも少し。それと呪術を取り混ぜて、いいとこ取りをしています」

「呪術は科学ではないんですか?」

「今のところ違いますね。何故なら再現性が無いから。それに、検証を受け付けない。例えばほら、俺がさっき作ってここに置いたものはいつの間にか消えていますが」

 赤潮はローテーブルの中央を示した。そこにあったはずの紫色の球が跡形もなく消えていることに気づいて、君坂は「えっ」と声をあげてのけぞった。

「これがいつ消えたのか、何故どうやって消えたのか、動画に撮って検証することはできません。それをした場合は、呪術全体が失敗します。そして、最初からやり直さなければいけませんけど、やり直して成功するという保証ももう無くなってしまいます」

 君坂は少しの間、驚きと疑惑の入り混じった顔でローテーブルと、赤潮の顔を見比べていた。

「気にすることはありません」と、赤潮は言った。「気にしすぎると上手くいきませんから、気にしないことです。呪術というと大仰に聞こえるでしょうが、これ自体には何のリスクも無いし、深い意味も無い、ささやかなおまじないに過ぎません。同じ粉をお渡しするので、家に帰ったらご自身でも同じものを作ってください。手順書を渡すので、その通りにするだけ、それで設定が完了します」



 君坂は二週間後にまたやって来た。

 その日はよく晴れていた。君坂は淡い桃色のふわふわしたワンピースを着て、前回よりも顔色は明るく、軽やかな雰囲気だった。

「いかがですか。使ってみた感じは」赤潮はアイスティーを出してから、彼女の向かいに座った。

「快適です。とても便利で。助かってます」君坂は微笑んだ。

「それなら良かったです」

「それで、ただ、実は今日もうひとつお願いをしようと思って」

「もうひとつ?」

「自動化するルーティンを追加したいんです。お金はもちろん追加分をちゃんと払います」

「はあ」赤潮はあまり表情を変えなかった。「まあとりあえず、内容をお伺いします」

「家に帰ってから次の日家を出るまで、ってできますか?」

「いや、できますけどね……」赤潮は苦笑した。

「できる? 本当? じゃあ、お願いします」

「それはできますけど、君坂さんの生活がどうなるか考えると、あまり気が進まないですね。家にいる間が自動で、講義中も自動で、そうなると記憶にはっきり残る時間が少なすぎませんか? 土日はどうします」

「土日も同じくです。バイトしてるんで……結局平日と似たようなものです。行き先が大学かバイト先か、っていう違いだけです」

「これは俺の個人的な興味で聞くんですけど、何か理由があるんですか?」

「アリバイ作りです」

「アリバイ」

「勉強だけじゃなく、恋愛もちゃんとやってるよ、っていう」

「家にいる時間が?」

「そう。実は、彼氏とほぼ同棲してるんです。私はアパート借りてて、彼は自宅生なんですけど、なんやかんやで自宅まで帰るのも億劫で泊まっていく、みたいなのが続いて。それももう半年以上になるんで、居るのが当たり前みたいな感じになってきましたね」

「なら、余計にその時間は大切じゃないですか?」

「うーん」君坂は一瞬顔を曇らせて視線を落とした。しかしその表情はすぐに消え、また顔をあげて微笑んだ。「正直、もう倦怠期だし、向こうは来年卒業だから。賞味期限付きの付き合いなんです」

「へえ……」

「私たちどっちも、遠距離で続けられるほどマメじゃないし、相手に合わせて就職先を変えるとかも難しいし。でも今別れると、それはそれで外聞が悪いというか……向こうも、卒業前の最後の冬を独り身で過ごしたくはないでしょう」

「学生さんのお付き合いにも、外聞とかあるんですね」赤潮は生真面目な調子で言った。

「結構ありますよ。え、そういうの、ありませんでした?」

「さあ、俺はモテなかったから」赤潮は軽く肩をすくめた。「とにかくお勧めはしませんよ。あまり長時間の自動化は」

「何か副作用がありますか?」

「技術的な面での副作用はないですけど」

「じゃあいいんです。やってください」

「まあ、諸々ご承知の上でのご依頼なら、俺が反論する余地もありませんけどね」


 赤潮は立ち上がり、前回と同じく小鉢や小瓶を用意して戻ってきた。


 慣れた手順で、赤潮は二色の粉を混ぜ合わせ、紫色の球を作って置いた。

 君坂はまじまじとそれを見つめた。

「見張っている間は消えませんよ」赤潮は言った。「そして消える消えないはこの手続きの完了には関係ないので。もう終わってます」

「そうなんですね? 本当に不思議ですね」君坂は笑った。「正直すごく疑ってたんですよ。ただの自己暗示みたいなものなのかなって……でも本当に、講義の自動化が効いたから」

「まあ、これで金を取ってますからね」

「赤潮さんは、呪術師なんですか?」

「そうでしょうかね。呪術を使う人という意味では、そうです」

「他にも何かできるんですか?」

「うーん、まあ、できたりできなかったり」

「悪霊を祓ったり?」

「どうでしょうか。祓えることもあるかもしれません」

「悪霊ってやっぱりいるんですか」

「まあ、何か厄介なものに取り憑かれている人は時々います。それが悪霊と言えるのかどうかは、よくわかりませんけど」


 赤潮は使い終わった道具を盆の上に集めた。


「本日お支払いをいただきますね」赤潮は言った。「あと、また粉と手順書をお渡しするので、家でご自分でも混ぜて、作っていただいて。前回と同じです。それで上手くいけば、完了となります。何か不具合があればまたこちらにお越しください。あと、自動化を解除されたくなったときも。それと、生活が大きく変わる場合も、一応来ていただいたほうが良いですね。例えば卒業されるとか、引っ越されるとか……基本的には、そういう環境の大きな変化があれば自然と自動化は無効になるので、放っといても害はないと思いますけど、稀に誤作動もあるので」

「誤作動ってどんなことですか?」

「ほとんどないですけど、意図してない動作を自動化してしまったりとか、道を間違えるとか、そういうちょっとしたことですけどね」

「引っ越したのに、前の家に帰ろうとしたり?」

「そう、そういう感じです」


 粉と手順書を受け取り、支払いを終えてから、君坂はふと窓を振り返った。はめ殺しの磨りガラスの向こうは薄暗くなっており、大きな雨粒が打ちつけていた。


「ああ、また、雨。私って雨女なんですよね」

「大丈夫ですか? 少し、雨が弱まるまで待った方が」

「いえ、傘を持ってきてるんで」君坂はバッグの隅から折り畳み傘を取り出した。

「ねえ」赤潮は身支度を終えて立ち上がった君坂を、座ったままじっと見上げた。「もしかしたらがっかりされたかもしれませんけど、あまり気に病まないでくださいね。お力になれずすみません」

「どうしてです? とても助かりましたよ」

「何か聞いて欲しい悩みがあったのなら、俺は聞いてあげられませんが、どなたかに聞いてもらっては」

「そう見えますか? 大丈夫です」君坂はちょっと困ったように笑った。「私は悩みを話しに来たわけじゃないです。ここがそういう場所じゃないことはわかってます」

「すみません、差し出がましいことを申し上げて。個人的に、ただ不安なんですけど、これからどうされるんです? 勉強も恋愛も君坂さんにとっては何かのアリバイに過ぎないのなら、逆に君坂さんにとって意味のあることって何が残りますか?」

「意味のあることですか。本を読んだり、お洒落したりですかね。あと、美味しいもの食べたり? 別に、勉強と恋愛以外にも色々ありますよ。変でしょうか?」

「いえ……確かにそうですね。つまらないことを言ってすみません」

「ありがとうございました、色々と」君坂は部屋を出る前に改めてきちんと頭を下げた。



 そして彼女はそれきり、大学を卒業するはずの時期になっても、そこを再び訪れることはなかった。

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