未来

 男はさいと名乗った。丸顔で気弱そうな顔立ちとは不釣り合いなほど、目つきに険があった。自分でここを訪ねておきながら、相当警戒して疑っている様子だった。

 采野は革張りのソファにかなり浅く腰掛け、ぴんと背筋を伸ばしたまま、かわの出した緑茶と茶菓子には目もくれなかった。


 瑠璃川は特に気にした様子もなく、ローテーブルを挟んで向かい側のソファに腰を下ろし、「さっそくですが、依頼の内容を伺いましょうか」と言った。

 柔らかく、どこか不思議な響きに感じられる高めの声だった。背が高いが、それ以上に細さと頼りなさが目立つ体型だ。銀縁の眼鏡の向こうから、少しだけ茶色味のかかった目がじっと采野を見つめていた。


「その……子供がいるんですが」采野は少し躊躇った後に口を開いた。「その世話を、自動化したいなって思いまして」

「子供の世話?」

「はい。できませんかね」

「できますけど……いや、内容にもよるかな? どんなことでしょう。何歳くらいですか?」

「あの……九ヶ月です」

「ああ、赤ちゃんですか。手のかかる時期ですね。世話って全部ですか? それとも、風呂とか寝かしつけとか、決まった一部分だけを自動にしたいってことでしょうか」

「うーん……」采野は一瞬顔を顰めて、すぐに元の表情に戻った。「妻が買い物をしてる間、お店のキッズコーナーっていうんですか、ああいう遊び場で、遊ばせてるんですけど。ただ見てるのもダルくなって、スマホを見ちゃうんですよね。でも、妻にはちゃんと子供を見てろって怒られるんです」

「なるほど」と、瑠璃川は頷いた。

「先週、事件があったじゃないですか。うちの市内で……モールのキッズコーナーで遊んでた子供が通り魔に遭って、親が目の前にいたのに気付かなくて……」

「ニュースになってましたね」

「そう。あれ以来、妻が神経質になっちゃって。私が、子供遊ばせながらスマホ見てると、すごい怒るんです。でもねえ、見てたって大半の時間は、することないんですよね」

「じゃあその手持ち無沙汰な時間を自動化ってことですかね」

「難しいでしょうか」

「いえ、全然難しくはありませんよ」瑠璃川はスマホを出し、電卓モードにして数字を表示した。「だいたいこれくらいの金額でやれると思います」

「えっ」

「高いですかね」

「いえ……思ったより安いというか……」采野はソファの上で落ち着きなく身じろぎを繰り返した。「なんだか生々しいですね、こうして金額を見ると。この額で、子供を見守る時間が削減できるわけですか」

「削減ってわけでもありませんけどね。時間は普通に過ぎるし、子供を見るのは結局はお客様ご自身ですし。ただ、ルーティンと呼べる範囲内のことであれば、お客様の記憶には残らないようにして、いつの間にか終わってたな、といった感じにできます。居眠りをしたみたいな気分だと言いますね、実際に利用された方は。寝てたらいつの間にか終わってた、という感じです。だから、面倒くさいなとかダルいなとか感じなくて済むので、気持ちの面でコスト削減になる。ついスマホに触ってしまう、なんてことも無くなるから、きっと奥様も納得されるかと」

「実際にはそれはどういう技術なんです? 仕組みというか……」

「一応ね、詳細は企業秘密なんですよ。一部は科学的なもので、一部は非科学的なものです。組み合わせて上手く利用するんです。お子さんが遊び始めると、自動でそれが働き始めて、お客様はある種の眠ったような状態になります。そしてお子さんが遊び終わるときに目が覚めます。傍目には眠っているようには見えないし、話しかければ返事もしますし、不自然なことは何もありません。だからまあ、誰にもバレないです。奥様にも、お子さんにもね。それと、ルーティンを外れる場合はその時点で目が覚めます。お子さんが怪我しそうになったり、危ないところへいきそうになったり、それこそ不審者が来たり、不審者じゃなくても誰か意外な人物が近付いてきて、挨拶することになって、とか……そういうときは、すぐに目が覚めます。だから、イレギュラーなことへの対処が遅れる、という恐れは全くありません」

「じゃあ……危険ではないんですね」

「もちろんです」

「でも、私が子供の面倒を見ているときの記憶が無くなるんですよね」

「そうなりますね」

「そういうのって、親としてどうなんでしょうか」

「さあ。別に子供は困らないんじゃないですか?」瑠璃川は軽く首を傾げた。「お客様ご自身がそれで良いかどうかだと思いますけど。やっぱりやめときます?」

「え……いえ……」

 采野はまた居心地悪そうに身じろぎし、腑に落ちない顔と怒った顔が入り混じったような表情を一瞬だけ浮かべた。


「やれるんなら、やってください」と、やがて采野は言った。


「では承りましょう」瑠璃川はソファを立ち、応接間の奥の間仕切りの向こうに消えた。


 戻ってきたときには、小さな盆を携えていた。粉の入った小瓶やガラスの器、ティースプーン等が乗っていた。瑠璃川は再びソファに座り、ローテーブルの上に持ってきた道具を並べて手続きを始めた。

「これ、なんですか?」采野がかなり怯えた声色で聞いた。

「非科学的な手続きです。超常現象を呼び起こして、利用します。あとで、家に帰った後、お客様にもこれをやっていただきますよ」

「えっ」

「水を小さじ二杯。普通の水道水です。それに赤い粉を混ぜます」瑠璃川は小瓶のコルク栓を抜き、中身の赤い粉を全て器にあけた。スプーンでよく混ぜ、それから壁の時計を振り返った。「一分お待ち下さい。ぴったりじゃなくてもいいです。だいたい、です」

「あの、ほんとにこれ、なんなんです?」

「自動化をします。あなたの望むルーティンを、あなたの意識の外へ。それがご依頼ですよね?」

「えっと……」

「怖いことは何もありませんよ。嫌ならすぐやめられるし」瑠璃川は時計から手元に目を戻し、別な小瓶の栓を抜いた。「一分経ったら、青い粉を混ぜて。それで丸めて、できあがり」瑠璃川は混ざって紫色になったそれを掌に乗せて丸め、小さなボール状にしてテーブルの上に置いた。「このお団子は適当に置いとくか、捨てちゃってください。食べられないのでね。放置してるとそのうちどっかに消えます」

「消えるって」

「跡形もなく消えます。これは魔法の粉なんで。理屈は気にしなくて大丈夫です。あ、作るときご家族に触られないように注意してくださいね。他の人が触れてしまったら、失敗します。まあその場合は最初からやり直すだけですから、またここに来てください」

「………」

「お支払いは効果を確認して、不具合やご不満な点があればそれを調整してからになりますので、本日は以上です。この、同じ粉と手順書をお渡しするんで、帰ったらやってください。それで設定完了なんで、後は様子を見ましょう。来週か、来月くらいに予約を入れときますかね? その時に具合をお聞きして、大丈夫そうならお支払いということで」

「はあ……」采野はずっと釈然としない顔をしていた。「え、あの、もし、上手くいかなかったら、というか、これやめたくなったら……」

「やめたくなれば打ち切ります。もし、次回来ていただいた時点でもうやめる、となった場合は、お代はいただきませんよ」

「そうなんですか?」

「そう。試運転は無料です。あの、そもそも今の時点で気が進まないようでしたら、今ここでキャンセルできますけど。これは別に悪魔の契約とかじゃないんでね。いつでも引き返せるし、お金以外のものを取ったりしませんよ」

「ええ……それはわかりますけど」


 結局、采野は酷く不安そうな顔のまま、赤と青の粉の小瓶と手順書を受け取って帰って行った。




 瑠璃川が客人を送り出してから応接間に戻ると、奥の間仕切りが開いてあかしおがのそっと顔を出した。

 瑠璃川と同じくらい長身で、更に瑠璃川よりも遥かに体格が良いので、応接間に立つと急に部屋が狭くなったように見える。若さのまだ残る精悍な顔立ちで、普段はあまり表情を変えないほうだが、今はかなりうんざりした顔だった。

「あいつは、まずくない?」と、赤潮は言った。

「聞いてたの」

「替わろうか? 次から俺が応対するよ」

「いや、大丈夫……まあ、無理そうになったら君にパスするかも」

「現時点で結構無理じゃない? お前との相性最悪だろう」

「でも、ああいう人、赤潮君の方が向かないでしょう。大丈夫、きっちり金取るから。彼の望むものはここには無いんだから、どうせすぐ飽きると思う」

「そうかねえ」

「あの人は鏡に話しかけてるだけだよ。鏡よ鏡、世界で一番美しいのは……みたいな。自分の言ってほしい言葉がもう決まってて、それを引き出すためにあれこれ言ってるだけだから。こっちが返事をしなかったら、つまんなくなってすぐ他へ行くよ。意外とこれっきりでもう来ないかも」

「だといいけど」




 采野は翌週のぴったり同じ時間に訪れた。

 先週よりは緊張が取れた様子で、険のある目つきも少し和らいでいた。

 それに、やや機嫌が良さそうだった。

「あの、これって他のルーティンも追加でお願いしたりできるのかな、と思って」采野は革張りのソファに浅く腰掛けると、すぐに喋り出した。「寝かしつけとかお風呂とかおっしゃってましたね。そういうのも追加できるんですか?」

「はい、できますよ」と、瑠璃川は言った。

「あの……どの程度までできるんでしょう」

「技術的には、無限にできますが」

「無限?」

「もう、お子さんを抱っこするたびに記憶が無いとか、家にいる間ずっと記憶が無いとか、そういうことも別に可能です。ただ、あんまりやり過ぎるとお客様の生活が薄くなりますからね。極端に長時間の自動化を望まれる方は少ないですよ」

「もちろん、子供は可愛いんですよ。愛情を注いで大事に育ててます。ただあまりにも……大変だなって感じることが多くて。うちは夫婦二人だけで、双方の実家も遠いから、簡単に人には預けられないし。妻だって寝ないで頑張ってくれてます。でも私は仕事もあるし。自分の時間も欲しい。我儘なんですかね? 自分達で望んで子供を設けたからには、自分の時間も睡眠時間も投げ打って子供に尽くすしかないんでしょうか」

「ベビーシッターとか頼まれては? 市のサポートとかあるし、ここで自動化なんか依頼するよりもかなり安く済みますよ」

「もちろん、どうしても、のときはそういうのも使いますけど。でももう、普段の、普通の毎日が本当に大変で。けどやっぱり、なるべく親として子育てには関わりたいですし……」

「風呂と寝かしつけを追加で自動化しますか?」

「そうしていただけるなら、とても助かるんです」

「ではやりましょう」瑠璃川はソファを立ち、間仕切りの向こうへ行った。


 そしてまた、前回と同じように小瓶や器を並べて、てきぱきと紫色の塊を作った。


「これで自動化ができるって、なんだか不思議ですね」采野はじっと瑠璃川の手元を見つめながら言った。

「そうでしょう。僕も不思議です」と、瑠璃川は薄く微笑んだ。

「あの……失礼ながら、ご結婚は、されてますか?」

「ええ、妻がおります」と瑠璃川は言った。

「そうなんですか」

「意外でしょう。既婚者に見えないとよく言われます」

「……お子さんは?」

「実は子供もおります」

「へえ……」

「意外でしょう」

「何歳ですか?」

「もうかなり大きくなりましたよ」瑠璃川は言いながら、采野の手元に赤い粉の入った小瓶と青い粉の入った小瓶を置いた。更に、ポケットから四つ折りにした紙を取り出し、中身をちらっと確認してから采野に差し出した。「今回分の材料と手順書です。手順は前回と同じですけど、まあ一応。これ渡しておきます。それでお代のほうなんですけど、前回設定した試運転は上手くいったということで、いったんその分をご精算いただいても良いですか? で、今日設定した分は新しい依頼ということで、今日から試運転を開始し、また次回来ていただいたときにお支払いという形で」

「えーと……ええ、はい」

「すみませんね。もちろん類似したルーティンの追加ということですから、かなり割引にはなります。前回ご提示した価格の倍になるなんてことはありませんよ。ただほんと、これは僕側の都合というか、たまに試運転が無料だということを利用してどんどん仕様変更を重ねてお支払いを先延ばしにするお客様がいらっしゃるんで。何度かそれをやられて参っちゃって。それで最近は、仕様が大きく変わったり追加されたりする場合には、都度ご清算いただくようにしてるんです」

「ええ、もちろんそれは、大丈夫です。そうしていただいた方が、私も安心です」

「カードとか電子マネー、使えますよ。使います?」

「いえ、お金持ってきてます」采野はもぞもぞとポケットから財布を取り出した。


「犯人、捕まりませんね」瑠璃川はカーボン複写式の領収書に数字を書き入れながら、ふと言った。

「犯人?」

「キッズコーナーの通り魔の」

「えっ。あの犯人は捕まってないんですか?」

「その人じゃなく、模倣犯みたいなやつが犯行予告を出したでしょう」

「ああ……」

「そっちが捕まらないらしいんですね。まあ、ただの悪戯なんでしょうけど」

「うーん……怖いですね」

「赤ちゃんなんか連れてたら、戦うことも逃げることもたぶん無理ですからねえ。予告自体が悪戯だとしても、怖いですね。早く捕まるといいんですが」

「なんだか子供が育てにくい世の中ですよね」と、采野は言いながら、また一瞬ひどく顔を顰めた。




 采野はその翌週もぴったり同じ時間に来た。

 今日はどこか沈んだ様子で、表情は暗かった。声にも力がない。

「自動化の具合はいかがでしょうか」

「上手くいってます。助かっていますよ」

「それなら良いのですが。大丈夫ですか? すごくお疲れのようですね」

「ええ……どうも精神的な疲れが溜まっているようで」采野は俯いてぼそぼそと言ってから、急に顔を上げた。「あの……本当に申し訳ないんですけど、その、また追加していただくことってできますか?」

「どうぞ」と瑠璃川は言った。「お聞きして、できそうならします。できないものもありますが」

「泣き声が、もう……無理で。無理って言っちゃいけないですが、ほんとに泣き声聞くと、身体がすくんで、ついイライラしてしまって」

「九ヶ月とおっしゃってましたっけ」

「ええ、はい、もうすぐ十ヶ月……」

「泣き声がした瞬間から泣き止むまで、自動化しましょうか」

「できるんですか」

「大丈夫ですよ。ただね、これだけ気をつけていただきたいんですが、僕らの呪術は精神疾患の方に使うことはできません。これは技術的にどうこうというより、倫理的な問題っていうか、そこまでは責任持てないということで、お断りをしてるんです。だから、ちょっとストレスが溜まってて体力を温存したいだけ、ということであればお力になれますけど、本格的にノイローゼになってるとか、鬱の兆候が出ているとかであれば、お断りしないといけなくなります」

「ええ、それはもちろん、そうですよね、それは大丈夫です……」采野はソファの上で何度も身体の位置をずらした。「職場で定期的にストレスチェックも受けてますし。鬱とかノイローゼとかの心配は無いと思います。ただほんとに最近忙しすぎて、余裕がちょっと無くなってるというか……疲れが取れて落ち着いてきたら、こういう自動化もすぐ使うのやめるつもりですし」

「ひとまず、今回分、用意してきますね」瑠璃川は立って間仕切りの向こうへ行った。


 いつもの道具を揃えて戻ってきた瑠璃川を、采野は座った位置からじっと不審そうな目で見上げていた。


「あと、前回分は、恐れ入りますが、本日お支払いいただきます」

「ねえ」采野は猜疑に満ちた目をきゅっと細めて、すぐそれを打ち消した。「あなたには私がどんな親に見えていますか? あなたも、子育てをされてるんですよね」

「うーん。よくいる普通のお父さんだな、としか」瑠璃川はソファに座り直し、ローテーブルに道具を広げていつもの手続きを始めた。「まあわざわざ呪術を依頼するお父さんは珍しいですけどね。でもおっしゃることはよく分かるし、みんなの悩みなんじゃないですかね」

「そう……ですか。みんな、こんなもんなんでしょうか」

「分かりませんけどね。僕は見ての通りの変わり者だし、僕の妻も変わってるんで……一般論としてどういう親が普通なのか、知ってるわけではないです。なんとなくそんな感じなのかな、って思うだけで」

「私のような依頼をする親が、世の中に沢山いるんでしょうか?」

「そもそも、日常生活のルーティンを自動化しようとする人は世の中に沢山いませんよ。うちのお客様だというだけで十分珍しいです」

「………」

「これで」と言って、瑠璃川は紫色の丸い塊をテーブルに置いた。「今回分も完了です」

「あの、瑠璃……川さんでしたっけ」

「はい」

「瑠璃川さんは、父親を辞めたいと思ったことは、ありますか?」

「さあ……あったところで、どうもならないですからねえ」

「どうもならない?」

「家が急に吹き飛んだらどうしようなんて、普段考えませんでしょう。あり得ないことをいちいち想像しませんね。たぶん采野さんはね、ご自分で思ってらっしゃるよりも疲れてますよ。あまり呪術に熱中しないでくださいね。こんなこと、これでお金を取ってる僕が言うのもおかしいですが、こんなに足繁く通ってくるほどの価値はありませんよ。時間もお金も、他のことに使われたほうが良いです。買い物したり映画を観たり……それか、サウナなんていかがでしょう? 確か中央駅前に新しいのが建ちましたよ」




 朝から晴れたり曇ったりを繰り返していた空が、やがて土砂降りという結論に落ち着いたようだった。瑠璃川は応接間のエアコンを除湿モードに切り替え、再びソファに寝転んだ。

「今日は閉めてしまいたいな。こんなんで誰も来ないだろ、さすがに」向かいのソファに座っていた赤潮は、ローテーブルの上のノートパソコンの画面を眺めながらぼんやりと言った。

「まあでも、うちのお客さん変なの多いから。雨の日に限って混んだりするじゃん」

「そういや、今週、あのヤバい人来ないな」赤潮は壁掛け時計を見上げ、時刻と曜日を確かめた。「ここんとこ毎週、今くらいに来てなかった?」

「ああ、あのみたいなお父さんね」

「だから、そう思ってるんなら俺に回せば良かったのに……なんで裏でそんなに罵るんだよ。怖いって」

「あいつはもう来ないと思うよ」と瑠璃川は、寝転んだ姿勢でスマホを見ながら言った。

「へえ、なんで?」

「日曜日に西松屋で会った。この町は狭いねえ。気づかないふりをしたんだけど、向こうが気づいちゃってさ……正体が割れたから、もう来ないと思うよ」

「正体って何だよ。妖怪みたいな言い方だな」

「まあ妖怪の類なんじゃないの? 采野さんね、奥さんと来てて、ベビーベッドを探してたよ。店員さんにも色々聞いてた。奥さんのお腹、かなり大きくなってて、もう安定期だね。秋には生まれるんじゃないかな」

「二人目できてたのか」

「いや、一人目でしょ。ベビーベッド二台は買わないもの。上の子がいるならそのお下がりで済むはず」

「え?」赤潮はパソコンから目を上げた。


 瑠璃川は仰向けになって無表情にスマホを見上げていた。


「待って……いや、なんで? ってことは全部、作り話? 子育てに悩んでて、忙しくて辛くて、見守りとか風呂とか自動化したいって……」

「まあ、作り話だろうね」

「親戚の子を見てた、とかでもなく? 実在しない子供?」

「実在はするさ。奥さんのお腹の中に。つまり、未来の悩み。もちろん全部空想だけど」

「いやいやいやいや。おかしいって」

「おかしいよ。だから妖怪の類でしょ。やっぱ赤潮君に投げれば良かったなー。精神が削られた……」

「えっ……マジで怖いんだが……なんなの。お前も怖いわ」赤潮はノートパソコンを急に閉じた。「もう、閉めよう。今日は閉店にしよう。なんか猛烈に気分が悪くなってきたような気がする!」

「まあいいんじゃないの」と、瑠璃川はスマホを弄りながら生返事をした。


 赤潮はパソコンを持って立ち上がり、寝室に向かいかけてから、また動きを止めて振り返った。


「じゃあ、あれ? お前はいつ気づいてたの?」

「最初から」と瑠璃川は言った。

「最初から? いちばん最初?」

「そもそも呪術が掛かってなかったから。彼は自分が依頼した呪術を使っていなかった。それは僕が術師だから、二度目のご来店ですぐわかるわけ。まあ彼は僕が気づいてることを知らないから、ずいぶん夢中になって演じてたけど」

「だから、俺に回さなかったのか……」

「それもあるし、そもそも初っ端のキッズコーナーの件が嘘だから。この市内のモールやショッピングセンターのキッズコーナーは、あの事件以来、全部閉まってるよ。通り魔は捕まったけど、犯行予告をした模倣犯がまだ野放しだからね。怖くて誰も使いたがらないし、店側も開けたくないでしょう。結局何も起きないみたいだから、そろそろ再開する店も出てきたけど、あの時点では見守りの自動化をしたところで彼がそれを試運転できる機会はほぼ無かった。でも彼はそのことに触れなかったし、遊び場の一斉閉鎖を知らないみたいだった。だから、あいつが子供の世話をしてるという話が嘘か、もしくは子供の存在自体が嘘だろうなと、最初から疑ってたよ」

「ええー……」赤潮は何か言葉を追加しようとしたが、何も出てこなかった。しばらく間を置いてからようやく出てきた言葉は「怖い」だった。

「マジ怖い。あの偽パパはそれでこの後、本物のパパになるわけ?」

「なるんでしょうねえ。奥さんが妊娠してるのは僕がこの目で見たから間違いない」

「あんな、妖怪みたいなのが親になるのか……なれるのか?」

「なれるなれない、じゃないんだよねえ。なるしかないんだよ。どんなに向いてなくても、やる気がなくても、親は『失格』にはならないから……向いてなくたって強制的に十年もやらされたら上手くなるよ。子供もその親と暮らすコツを学習する。だから大抵は幸せな家庭を築けるよ」

「全然、そう思えない」赤潮は首を振り、ぶつぶつ言いながらパソコンを片付けに行った。


 瑠璃川は無言でスマホを弄っていたが、やがて顔を上げて「ねえ!」と言った。「赤潮君、サウナ興味ある?」

「無いです」奥の部屋から、赤潮の声が返ってきた。

「なんで?」

「人前で脱ぎたくないので」

「あっそう? タトゥーとかある人だっけ?」

「無いけど」赤潮は応接間に戻ってきた。「何、サウナ行きたいの? 一人で行けよ。あと、これは真剣な提案なんだけどさ、今度からを受けるのはやめない? 最初の時点で依頼の内容がおかしいんだしさ、しかも嘘だとわかってたんなら、付き合うなよ。すぐお断りして出禁にして。頼むから」

「でも、いい金ヅルだったよ。西松屋で出くわさなかったらあと三回は金取れたと思う」

「そんな危ない橋、渡らなくていいから。お前は本業で十分稼いでるだろ」

「息子の学費にはまだまだ足りないので……」

「本当にムカつくわ、お前」


 赤潮は玄関のドアに「閉店」の表示を出しに向かった。

 しかし一歩遅く、インターホンの呼び出し音が鳴った。

「ほら、雨の日に来るでしょう」瑠璃川はスマホを置いてソファから立ち上がった。「采野さんじゃないよね?」と、廊下に向かって聞く。

「違うみたい。女の人」赤潮は廊下の壁の防犯モニターを確認して言った。「たぶん新しいお客さんだ。お前出る?」

「いや、赤潮君に任せた」

「はいはい」赤潮はそのままサンダルを突っ掛けて玄関に降り、ドアを開けた。「こんにちは……どうぞ。わざわざ雨の中、ありがとうございます。依頼の方ですよね? とりあえずお入りください」


 雨と湿気のにおいが強い風とともに吹き込んで、濡れたワンピースが全身にびっちりと張り付いた若い女が入ってきた。

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