建前

 見知らぬ建物を見るのは好きだ。それが自分の家より立派でも、あるいは遥かにボロくても。

 今、みやが見上げる建物はそのどちらとも言えなかった。小綺麗に作られたマンションで、建物のグレードは木宮の住む量産型の団地よりもずっと良かったが、かなり年季が入って外壁がくすんでいた。それに、建物とその周辺一帯の空気が湿っていた。スカートの中で太腿の擦れ合う部分がベタついて、木宮は少し後悔した。もっとオフィス然とした場所だと思っていたから、見栄を張って普段は着ない服を出してきたのだが。

 エントランスを潜りながら、ここに住んでみたらどんな気分だろうか、と考える。そんな予定は無くても、思い描くだけで楽しい。違った暮らし、違った便利や違った不便。幸福だろうか? それとも不幸? 住み始めてしまえば、全ては取るに足らない日常になるのだろうか。


 マンションのエレベータは、思わず写真を撮りたくなるほどレトロなデザインだった。全てのボタンが丸く、盤面から大きく飛び出ており、深く押し込むとオレンジ色に点灯した。

 308室には「(株)RPA」という表札が出ていた。インターホンを鳴らすと、銀縁の眼鏡を掛けた、痩せて背の高い男が出迎えた。

 普通の住居と同じく、玄関口で靴を脱ぎ、スリッパに履き替えるスタイルだった。廊下の突き当たりの部屋に通され、木宮は革張りのソファに腰を下ろした。


 細身の男はかわと名乗った。差し出された名刺の四隅には、木の葉を模したような不思議な紋様が入っていた。

「えっと、こちらをご利用いただくのは初めてですよね」

 瑠璃川の声はなんとなく高めで、不思議な抑揚があった。歳は三十代くらいだろうか。襟付きのクリーム色のシャツに、似たような色合いのチノパン。色白で、髪色もやや茶色に近い。

 写真に撮ったら色のバランスを間違ったみたいに見えそうだ、と木宮は思い、思わず笑いそうになって慌てて真面目な顔を作った。

「ここのことは、チラシか何かで?」瑠璃川は聞いた。

「いえ……ネットで調べて」

「へえ。何かネットに出してたかな」瑠璃川は首を傾げた。

「なんか、知り合い……の友達、だったかな、そういうのやってもらった人がいると聞いたことがあって。それで調べたらインスタのアカウントが出てきたので」

「ほう。インスタあったんだ、うちって」瑠璃川は他人事のように呟いた。「ともあれ、ありがとうございます。わざわざお越しいただいて。ここに来るの勇気がいったでしょう」

「え? いえ、まあ、緊張はしますが……知らない場所ですし」

「けっこう、女性の方だと外で会うようにして欲しいと言われたりするんですよ。胡散臭い男と密室で二人きりはしんどいと」瑠璃川は少し笑いながら言った。「もし良かったら、次回から外にしましょうか? 駅ビルの中の飲食店とか」

「いえ、他人に見られるほうが嫌ですね。ここで大丈夫です」と、木宮は言った。

「わかりました」瑠璃川は頷き、「ではさっそくですけど、ご依頼の内容をお聞きしましょう」

「あの……こういうのって、やってもらえるのかどうかわからないんですけど、駄目なら駄目で構わないんですが……」

「ええ、もちろん、無理なら僕が断りますからね」

「毎週の、ゴミ出しなんですけど」と、木宮は言った。

「ああ、それならもちろん可能ですよ」

「本当ですか。うちは団地で、建物を出てしばらく歩くんです。ゴミの収集所が、別の棟の脇にあって。歩いて五分くらいかな。毎週火曜なんですけど」

「火曜日だけ?」

「とりあえず、火曜日だけでいいです。ほんとは金曜日もゴミの日ですけど。その日は暇だから別にいいんです。私、金曜と日曜以外はパートを入れてて」

「そうですか。じゃあ、そのパートがあって、なおかつゴミの日でもある火曜日が忙しいというわけですね」

「そうです。まあ、昼からのパートなんで朝が忙しいってわけでもないんですけど。昼からパートだからこそ、朝は家でゆっくり休みたいんですよね。なんかそこで元気をチャージするというか」

「なるほど。一応、うちで提供する自動化の仕組みとしては、身体を動かすのはお客様ご自身なのですが、その点は大丈夫ですか?」

「ええ、わかっています。身体がというより、気持ちの煩わしさを取りたいんです」

「了解しました。その点は間違いなく達成できると思います」瑠璃川は頷き、それから少し何かを考えるように首を傾げて斜め上を見た。「……ゴミをまとめるところからの方がいいでしょうかね? 専用の袋にまとめて、口を縛って」

「ああ、それは旦那がやってくれるんで別にいいです」

「なるほど」

「私はほんとに、捨てに行くだけです」

「では玄関を出てから戻るまで、としましょうかね」

「階段とかあるんですけど、大丈夫ですか」

「もちろん、大丈夫です。動くのはご自身の身体なので、階段を上り下りできる状態であることが前提ですが。その点は今までなさっていたことだから大丈夫でしょう。どんな感じかというと、ゴミを持って玄関を出るとその瞬間になんとなく眠るような感じになります。で、気付いたらゴミを捨て終わって戻ってきている。他の人の目には、お客様がいつも通りに自分で歩いてゴミ捨てに行っているように見えます。挨拶すれば返事もしますし、車が来たら避けたり、ゴミ捨て場にカラスがいたら追い払ったり、まあ普通に普段からやっていることは何でもします。ただお客様ご自身にはその記憶がほとんど残らない。あれ、いつの間にか終わってたな、と。そんな感じです」

「すごい。本当にそんなことが、できるんですね……」

「まあね。看板に偽りなしです」

「あの、それで……挨拶に返事をしたりも自動になるんですね?」

「ええ、ルーティンの範囲内なら。よほど変な挨拶でなければ目は覚めませんね」

「いつも火曜日にめっちゃ話しかけてくる近所のおばさんがいるんですけど」

「なるほど。世間話みたいな感じですかね」

「そうです。だいたい息子の自慢です。小学生で。勉強がどうだの行事がどうだの」

「それで立ち話をなさると」

「はい。で、月に一回か二回は、うちでお茶を飲んでって、と言われて、部屋に上がらされます」

「ほう……」瑠璃川は眼鏡の奥の目を少し大きくした。

「それが面倒なわけです」と、木宮は言った。「ゴミ出しなんて正直どっちでもいいですが、そのご近所付き合いというやつが私はどうにも苦手なんです。疲れちゃって。これからパートなのに、一人でゆっくりしたいのに……と思うと」

「ふーむ」瑠璃川は先ほどとは逆方向に首を傾げた。

 それから少し沈黙が流れた。応接間は静かで、エアコンが一定の音を立てて冷風を吐いているだけだった。

「お客様の希望としては」瑠璃川はまだ斜め上を見上げながら、聞いた。「そのご近所さんのお誘いは適当に断って家に戻りたい、ってところでしょうか。それとも、お誘いは受けることにして軽めにお茶と世間話に付き合い、帰宅するところまでを自動化、ですかね」

「それもできるんですか」

「料金がちょっと変わりますが。複雑なもののほうが高くなります」

 瑠璃川はスマホを取り出し、電卓モードにして、二種類の数字を示した。

「どちらも可能ですよ。技術的なことに関しては、手数の違いだけです。お話を聞く限りでは、相手の持ち掛けてきた話に対してどの程度付き合うかっていう問題だと思うので、ルーティンとしてはそう複雑でもなさそうです。愛想良く応えるか、理由を付けて切り上げるか。立ち話で済ませるか、家まで上がるか。断ると面倒な相手なんでしょうか?」

「面倒、ってわけでもないですが、ご近所だし、今後も町内会での関わりとかあるし、あまり失礼なことをして気まずくなるのは嫌です」

「そうすると、家に上がってお茶、という流れになったら、今まで通り月に一、二度は付き合う。それも含めて自動化、にしましょうかね? あるいは、ゴミ出しと立ち話程度までを自動にしておいて、家に上がる流れになったら自然と目が覚める、みたいにしておくことも可能ですけど。その、もしお茶の最中の会話をちゃんと覚えておきたいのなら」

「いえ、別に覚えていたくないです。毎回同じ話ですし。聞く価値もないです、個人的には」

 言ってから、さすがに口が悪すぎたか、と木宮は気恥ずかしくなった。

 しかし瑠璃川は楽しそうに笑った。「会話のための会話ですね。そういうのは気心の知れた仲なら良いもんですよ。なんの思い入れもない近所のおばさんでは、確かに苦痛だ」

「まあ他に聞いてくれる相手もいないんだと思います。うちの団地も高齢化で、老人ばっかだから、話が合わないだろうし。私も子供がいないから共通の話題は無いんですけど、まだ歳が近いから何となく聞いてもらえそうとは思われてるのかも」

「付き合いってそんなものですよね」

 瑠璃川はスマホの画面を再度見せながら、料金と自動化するルーティンの範囲を確認し、それからソファを立った。


 襖のような形状の間仕切りの向こうに瑠璃川は一度引っ込んだ。それから小さいガラスの器とスプーン、二つの小瓶を持って戻ってきた。

 小瓶は片方に赤い粉、もう片方に青い粉が入っていて、木宮は小学生のとき流行った「星の砂」を思い出した。

「魔法をかけましょう」瑠璃川は木宮の向かいのソファに座り直し、器とスプーンを少し持ち上げた。

 器の底に少しだけ透明な液体が溜まっている。

「これはただの水です。水道水、大さじ二杯」瑠璃川はスプーンで軽く水面をかき混ぜ、そこに小瓶の赤い粉を入れた。粉は水によく溶け、赤い泥のようなものができた。

「一分待ちます」瑠璃川は壁掛け時計を振り返った。「ぴったり六十秒じゃなくても構いません。約一分。待つ、と思うと長いんですよね……何か他のことをしてればあっという間なのに。人間って勝手なものでね、退屈は嫌。でも、忙しすぎてもパンクしちゃう。何もしないのも嫌、何かするのも嫌。ノルマを押し付けられるのは嫌、でも取り上げられると腹が立ったりね。あと十秒。魔法を信じますか? あなたが信じなくても、まあ……」

 瑠璃川はもう一つの小瓶の青い粉を足して、更に混ぜた。紫色のクッキー生地のようなものができ、彼は細い指で直接それをかき集めて、掌で丸めた。

「……これで一度目が終わり」瑠璃川は出来上がった紫色の団子を、ローテーブルの中央に置いた。「二度目はお客様ご自身でやってもらいます。粉と、手順書をお渡ししますから。家に帰ったら同じようにこれを作ってみてください。難しいことは何もないです。料理じゃないので、失敗もないです。二度目を終えると魔法は完了です。毎週火曜日のゴミ出しと、それに付随するお付き合いを自動化。今日が金曜日ですね。金曜と日曜以外はお仕事されてるということですから、来週また金曜日の今くらいにお越しいただけますか? 自動化の具合をお聞きしたいんです。それでうまくいっているようなら、そのときにお支払いをいただきます。本日は特にお会計はありません」

「えっと、これで終わり?」木宮は不安げな顔で相手をじっと見つめた。

「はい、終わりです。効果は火曜日にわかります」

「なんだか信じられない……いえ、疑ってるわけじゃないんですけど」

「あなたが疑っても効果は消えませんから。万が一、何か困ったことがあれば、金曜日を待たなくても良いので、ご都合の良い時に来てください。日曜以外はいつでも開いてます。夜七時まで」





「それでね、なんで私がその寂しい団地のおばさんの愚痴を聞かなきゃいけないの? って思うわけ」はタピオカ入りのミルクティーを吸って少しのあいだ口をもぐもぐ動かしてから、すぐにまた喋り出した。「こっちは忙しいんだよ。家事に育児にパートに。夫んとこのお義母さんの病院にも付き添わなきゃいけないし。予定がいつもパツパツなの。ゴミ出しの帰りなんて、走って帰って誰にも挨拶もしたくないくらい」

「そうしないんですか?」と、あかしおは聞いた。

「いや、したいよ。したいですよ。でも付き合いってものがあるでしょう。あんまり態度悪いと、町内会の当番で変なの押しつけられるらしいし……」

「俺なら、そんなことなら町内会もやめますがね」

「そりゃ、あなたは男だもの。忙しいんでパス、って言えばそれで通るでしょう。女はそうはいかんのですよ」

「へえ……」

 駅ビルの地下のフードコートは、いつも通り閑散としていた。二階に入っていたカフェで話すはずだったのだが、臨時休業中だったため、ここになっていた。

「ともかくその人の家に呼ばれたら、お喋りしてお茶とお菓子いただいて帰るまで、自動で終わってて欲しいかなって。そういうのを自動化してもらえるんですよね?」

「ええ、そうですね」赤潮の手元には紙コップに入ったブラックコーヒーがあったが、手付かずだった。

 フードコートのテーブルに着くとやや窮屈そうに見える、長身で体格の良い男だった。精悍な顔立ちで表情も少なく、一見とっつきの悪い印象がある。しかし仕事柄なのか、意外にも口数は多く、話を聞き出すのが上手かった。

 歳は二十代後半くらいだろうか。色の抜けたジーパンと冴えない柄のTシャツという服装のせいで、もっと若そうにも見える。

 対する佐久間は三十半ばの女性で、いかにも今どきのお洒落な主婦という雰囲気なので、この二人の組み合わせは少し奇妙だった。

 と言っても、その妙な組み合わせをわざわざ目に留めて気にするような通行人はいない。全体に寂れて閑散とした駅ビルだった。


「この料金で大丈夫そうでしたら、さっそくやりましょうか」赤潮はジーパンのポケットから手帳と筆記具を取り出し、新しいページを繰って数字を書いて見せた。

「あー、へえ……そんなもんなんですね」佐久間は金額を見て頷いた。「もっと高いかと思ってた」

「高くしてもいいんですけどね。競合はほぼいないし。ただ、我々が責任を持てる範囲がどこまでかって考えたとき、釣り合いの取れる金額も自ずと決まってきます」

「つまり、これで私が不幸になっても責任は取らないと」

「可能な限り、気に入っていただけるように調整はしますよ。無くしたほうが良いものなら打ち切りますし。結果的に利益が出ないとしても、佐久間さんの暮らしが良くなることが優先です。ただ、一度起きたことを取り消せるわけではないのでね」

 赤潮は言いながら、隣の席に置いたショルダーバッグを開けて、小瓶、器、スプーン、天然水のペットボトルなどを取り出した。

「え、何これ」

 テーブルに並んだ道具を見回して、佐久間は戸惑った顔をした。

「自動化のための手続きです。呪文とかお札とか、そんな感じのです」赤潮は小瓶のうち二本を佐久間の近くに置き直し、更に四つ折りにした紙を添えた。「こちらは佐久間さんがご自分でやるぶんです。家に帰ってから、この手順書の通りにやってください。今から俺がやるのと同じです。簡単ですし、これ自体には意味も無いものです」

「意味が無いなら、なんでするんですか?」

「それが呪術というものなんで」

 赤潮は金属製の計量スプーンを使って、ペットボトルの水を二杯計って器に入れた。それから小瓶のコルク栓を抜いて、その中の赤い粉を器に全て入れ、スプーンで混ぜた。

「一分待ちます」赤潮は腕時計を見た。「何秒かズレても構いません。だいたい、です」

「ほんとに、依頼しといてこんなこと言うのも失礼かもだけど、すっごい胡散臭いですね」

「そうなんですよね」と、赤潮は真顔で返した。

「あなたは、変わってるねえ」

「まあ、変わってないとこんな仕事はしませんよ」赤潮は腕時計の秒針が一周するのを待ってから、もう一本の、青い粉の入った小瓶を開けて先ほどの器に加えた。やがて紫色の塊ができ、赤潮はそれを掌で丸めて球形に整えた。

「これを、どうするんですか?」

「どうもしません。置いときます」赤潮はテーブルの上に紫の球を置いた。「これで終わりです。家に帰って、佐久間さんも同じことをしてください。お子さんに触られないように気を付けてくださいね。ご本人以外の方が触れると上手くいきません」

「うーん。えっと……これだけ?」

「今日はこれだけです。お支払いは次回になります」

「なんだか変な感じ。騙されてるみたいな気分です」

「騙されたと思って、これで数日試してください。もし何か上手くいってなければ、次回来ていただいたときに調整しますので」




 応接間に一つだけある窓は、はめ殺しの磨りガラスだ。不透明なそのガラス越しにもわかるほど、強い日差しが建物全体を蒸していた。

「ああ、働きたくないな」赤潮は革張りのソファから壁掛け時計を振り返った。

「依頼人ですか。何時?」向かいのソファにだらしない姿勢で沈んでいた瑠璃川が、スマホから顔を上げた。

「三時」

「あれ、僕の依頼人は三時半だけど。大丈夫なの?」

「お前はここで、だろ。俺は外なんだ。ここに寄ってもらって合流して、駅に移動」

「ああ、先週の主婦の人」

「そうそう」

「こっちも主婦だよ。主婦の依頼はやっぱり多いね」

「まあ、俺らの呪術は家事との親和性が高いからな、元々が」

「でも家事じゃなくて人付き合いだったな、僕の依頼人は。ゴミ出しに行くと帰りにご近所さんが話しかけてくるんだって。お茶に付き合わされて面倒くさいと」

「うん。なんかよく似た話だな」

「え、そっちも?」

「そう。ゴミ出しの途中で近所のババアに捕まる。それを自動化して欲しいと」

「ええー。同じ人じゃないよね、まさか。その依頼人、僕と赤潮君に二重に依頼を掛けたりしてない?」

「いや、そんなことせんだろう。俺の依頼人は佐久間さんだ」

「こっちは木宮さん。でも、名前は自己申告だし」

「いや、それで俺とお前にダブルブッキングはせんだろう。何のメリットがある?」

「佐久間さんってちょっと大人しい感じで、ぽっちゃりした人?」

「いや、痩せてる、ように見えたが。大人しくもないと思うし。けっこうグイグイ喋るほうだよ」

「じゃあ別人か」

「っていうか、二人とも同じおばさんに引き留められてる可能性はあるな」

「まあ、ありそう。住所聞いた?」

「聞いてないけど。団地と言ってた気がする」

「こっちも団地と言ってた。うーん。まあでも、このへん似たような団地は沢山あるし、似たようなおばさんも沢山いるだろうしね」

「その似たような人同士で付き合えば平和なのにな」

 赤潮の依頼人、佐久間は三時を過ぎても来なかった。

 赤潮と瑠璃川はそれぞれソファにだらしなく沈み込んでスマホを弄って過ごした。客が遅刻したりすっぽかしたりするのはよくあることなので、二人とも特に気にしてはいなかった。

 三時二十分になり、瑠璃川が伸びをしながら立ち上がった。

「ちょっと赤潮君。僕これからここで面談なので」

「はい、はい」

 赤潮がまだスマホの画面を見ながら生返事をしたとき、インターホンが鳴った。

「ほらもう来ちゃったよ、僕の依頼人が」

「いや、俺の依頼人かも」

 赤潮は応対しようとする瑠璃川のすぐ後ろについて行った。

 二人が玄関を開けると、通路には木宮が立っていた。ワイドパンツにスニーカーと、先週初めて来たときよりくだけた服装で、そちらが彼女の普段着のようだった。

「お待ちしておりました」瑠璃川は会釈した。「あ、こっちの大きいのは社長の赤潮です。お気になさらず」

「え、はあ、社長さん」木宮は苦笑いした。

「社長も何もないんですよ。平社員がいないんだから……」

 赤潮がぶつぶつ言い返したとき、通路に別な女の叫び声が響いた。

 エレベータから降りてきたばかりの女は、308室前の木宮、瑠璃川、赤潮の顔を順番に見回しながら、呆然とした顔で立ち尽くしていた。

「ああ、佐久間さん」赤潮が言った。「丁度良かった。そしたら俺らは駅に移動しましょうか」

「ど、どうして木宮さんがここに?」佐久間は首を緩く振りながら一歩下がった。「ここで話したことの秘密は守られるんじゃないんですか? なんでこの人を呼んだの?」

「えっ、どういうことですか」木宮も取り乱した様子で瑠璃川を見た。「佐久間さんに話したんですか? 私の依頼を?」

「落ち着いてください。僕らは依頼人のことをもちろん口外しませんよ」瑠璃川は言いながら、赤潮に向かって(早く行け)と目配せをした。

「おかしいでしょ、こんな……」佐久間は、サンダルを靴に履き替えて出てきた赤潮に向かって、泣きそうな顔で叫んだ。

「とりあえず出ましょうか。そもそもあなたが遅刻するからいかんのです。時間通りに来ていただければ、鉢合わせなかった」

「何がどうなってるわけ。これって詐欺じゃない?」

「こんな利益のない詐欺をしませんよ。いいから、乗って」赤潮は佐久間を宥めながら、エレベータの方へ誘導した。

「さて、僕らは中で」瑠璃川は玄関に立ち尽くしている木宮を促した。

 木宮の顔も泣きそうになっていた。「どういうことなんです……? やっぱり魔法を掛けるとか何とかは嘘だったってこと?」

「違いますよ。どういうことなのか知りたいのは僕の方です。とにかく上がっていただいてゆっくりお聞きしましょう。……それとも、僕たちもどこか外へ移動しましょうか?」

「……いえ」木宮は強く首を横に振って、308室の玄関ドアを潜った。




「つまりあなた方はお互いに、自分が暇な曜日に相手を招待し合っていたわけですね」

 瑠璃川は熱い紅茶を淹れ、それに今切ったばかりのレモンの輪切りを添えて出してから、木宮の向かいのソファに座った。

「木宮さんは金曜日に。佐久間さんは火曜日に。ゴミ出しの帰りに相手を呼び止め、家に招いていた。そして互いに、相手の招待を煩わしく思って自動化を望んだ」

「だって、こっちが一方的にご馳走になるわけにはいかないです」木宮は俯いて震え声で言った。「何度も家に上がってお茶やお菓子をご馳走になってるのに、こちらが家に上げなかったら、ただ食いになりますし、裏で何と言われるか……」

「でも、ご自分がホストになる曜日は、それなりに気晴らしにもなってメリットがあったから、その部分の自動化は望まなかったわけですよね」

「………」

「あの、責めているわけじゃないんです。ただ、僕と赤潮とで同じ術を使い合ってマッチポンプをするわけにはいかないんで。そういう形になってしまうと知っていたらお引き受けしなかったし、別な手立てを考えることもできました。だから、最初にお話しいただきたかったですね。もちろん、木宮さんに隠すつもりがあったわけじゃないことは、承知してますけど」

「すみません……でも、こんな……」木宮は言葉を上手く纏められず、唇を噛み締めた。

「それに、お二人ともここで鉢合わせしたからって、相手が何を依頼したのかは知らないはずなんだから、騒がずに普通に挨拶すれば良かったですね……お二人とも馬鹿正直に慌てちゃったから、お互いに相手が『お茶会』の自動化を依頼したのだと分かってしまった。適当に旦那さんの用事とか何とかで誤魔化せたのに」

「えっ。本当だ」木宮は顔を上げて目を見開いた。「わあ、私すっごい馬鹿だわ」

「安心してください。向こうも同レベルの馬鹿だから」

「ちょっと……なんの慰めにもなってませんよ」木宮は仕方なさそうに苦笑いをした。

「ともかく僕の要件は僕の仕事のことです。自動化は上手くいきましたか?」

「ええ、ほんとに、火曜日のゴミ出しと『お茶』の記憶は全然ないです」

「それは良かったです。それで、このまま同じ仕様で継続するなら、本日お代をいただいて完了のはずでした。しかし、元を辿るとこの毎週火曜日のお付き合いは、木宮さんが毎週金曜日にたびたび佐久間さんを誘って家に呼んでいたことから始まっていて……」

「違います、向こうが先です」

「卵が先か鶏が先か。向こうはあなたが招待するせいだと思っていて、あなたは向こうが招待するせいだと思っている。でも、図らずも本日、お互いの本心が知れたんですから、ここですっぱり辞めてしまうのがベストじゃないでしょうか。こっちが誘わなければ向こうも誘ってこない。だから、自動化は必要ない。僕と赤潮にとっては、仕事がひとつ無くなるのは大変残念なことですけどね」

 木宮はレモンティーを一口、口に含み、大きな溜息とともに肩を落とした。

「私……もう消えたいです」

「へえ」

「こんな……だってこんな。どうして。この後もずっとご近所付き合いは続くんですよ。これからどんな顔をしてあの人と顔を合わせればいいの。お茶はもちろん辞めますけど、でも結局付き合いは続くじゃないですか」

「引っ越すとか」

「そんなお金ありません。あったところで夫にどう説明すればいいんです」

「使うゴミ捨て場を変えるとか?」

「そんなことしたって、町内会での関わりはありますし」

「実を言うと、僕としてはもうひとつだけ提案がございます」瑠璃川は長い足を組んでソファに深く座り直した。

「と、言いますと?」木宮はおずおずと顔を上げた。

「すべてのご近所付き合いを、まるごと自動化するんです」

「………それは、どういう」

「曜日も、時間も、関係なく。玄関を出てから戻るまで、あるいは団地の敷地を出るまで。毎日、毎回、自動化しましょう。ゴミ出しと町内会と、ちょっとした世間話程度ですよね? 団地の敷地内ですることなんて。それくらいなら丸ごと自動化できます。もちろん料金は少し嵩みますが。倍は掛からないはずです」

「家の中と、団地の外でのことしか記憶に残らないようにするわけですか」

「そう。佐久間さんとも、今後何度も顔を合わせるでしょう。でも、あなたの記憶には残らない。だから気まずくないし、今日あった出来事も悪い夢だと思えばいい。あなたが消えるのではなくて、向こうに消えてもらいましょう。あなたの意識できる人生から」

「そんなことが……」

「できちゃいますね。どうでしょう? 元の悩みも解決するし、今日起きたことの解決にもなる。一石二鳥です」

 木宮はティーカップに伸ばしかけた手を迷うように引っ込め、また俯いて考え込んだ。

「あまり他の依頼人のことを言うのもアレなんですけどね」瑠璃川はふとスマホを取り出して、画面を眺めながら言った。「赤潮も佐久間さんに同じような自動化を提案したようで、佐久間さんは承知するみたいですよ」

「ひとつ、お聞きしたいんですけど」木宮は言った。

「はい。僕に答えられることなら」

「自動化が働いている間も、その人は周りの目には普通に振る舞っているように見えるわけですよね」

「そうです。話しかければ返事もするし、表情も判断力もいつも通りです。それがルーティンの範囲内である限りはね」

「周りの人が、その人を観察して『自動化』を使っているかどうか、見分ける方法はありますか?」

「無いですね。見分けられません。術をかけた本人にしか分からない。僕ですら、赤潮がかけた術を見分けられるかというと、かなり難しいです」

「わかりました」木宮は最後に一口だけ紅茶を啜って、カップを置き、ソファから立ち上がった。「瑠璃川さん、ありがとうございました。短い間ですけど、こんな私の悩みを聞いていただいて」

「帰るの?」瑠璃川は眼鏡の奥の目を少し細めて見上げた。

「帰ります」

「自動化は?」

 木宮は黙って、すごく困ったような顔でふわりと笑った。




 枕元のスマホがマリンバの音を奏で始めた。火曜だ、と木宮はまだ夢うつつで考える。火曜と金曜だけこの音が鳴るように設定している。ゴミ出しを忘れないためだ。

 隣の布団を伺うが、夫の姿はない。今日は早番だったか。それなら朝食をサボれるから気楽だ。

 起きて簡単な身支度をし、玄関へ行くとそこに口を縛った可燃ゴミの袋が三つ並んでいた。夫が出勤前に用意していったものだ。三つか。面倒だな。持てないことはないが、嵩張ると階段を下りにくい。

 棟の前の道路に出ると、頭上には真夏らしい快晴の空が広がっていた。ここ数日の雨を乗り切って急に勢い付いた蝉の声を浴びながら、木宮は黙々と歩いた。

 四号棟の傍のゴミ収集所は、最近大きな金網付きのボックスが設置された。これで猫とカラスの被害が激減したので、町内会の最近の活動の中では最も有意義なものだった。

 風はほとんどない。もう、昼と同じくらい蒸していた。パート先に出勤する頃には身体が汗臭くなっていそうで、木宮はうんざりした。

 同じ道を引き返す途中で、ゴミ袋を抱えた佐久間とすれ違った。

「おはようございます」

「あら、おはようございます」佐久間はいつもの朗らかな笑顔で言い、「ねえ」と、いつもの口調で呼び止めた。「昨日ね、北海道からクッキー届いたんですよ。農場の自家製のね、ちょっとお洒落な感じの。旦那の親戚が送ってくれて」

「へえ、北海道……」木宮は努めて平静を装った。「北海道なら、きっと美味しそうですね」

「お茶淹れますから、一緒に開けません? まだ開けてないんですよ。子供に食い散らかされちゃ勿体無いし、旦那と開けたってねえ、どうせ酒のつまみしか興味ないんだから」

「ええ……ちょっと今日は用事が入っちゃってて」木宮は言った。

「あらそうなの。じゃあ、うん、またの機会に……」

「いえお気になさらず。食べちゃってくださいね」木宮は曖昧に手を振り、あえて忙しそうな動作で歩きだした。

 気にしない、大丈夫。

 佐久間は赤潮の提案を受け入れたはずだ。彼女は団地の敷地内での全ての行動を自動化していて、ルーティンのひとつとしてこちらに話しかけているだけ。だからどんな断り方をしたって、なんなら無視して走り去ったって、佐久間の記憶には残らないのだ。

 もう、悩みは完全に解消されたのだ。

 無駄なお金を使わなくて良かった。パート代のうち、毎月の返済に回した残りは好きに使っていいことになっているが、それをおばさんとの付き合いに注ぎ込むなんてやはり馬鹿げている。前から欲しかった靴を買うか、夫と焼肉にでも行ったほうが余程いい。それに、返済を繰り上げたっていいのだ。さっさと全部片付けて、こんな団地は出て行ってやる。

 先ほどの短いやり取りを、木宮は何度も思い返した。おかしな言い方をしなかっただろうか。食べちゃってください、は余計だったか。またの機会に、とか言っていたから、来週また誘われるのだろうか。

 何度も、ふとした瞬間に、ひとつの疑念が浮かぶ。もし、あのとき木宮がしたのと同じ決断を、佐久間もしていたら。今後の付き合いの全てにおいて、相手の記憶が必ず無いのなら、自分がわざわざそうする必要はない。こちらはリスクを取らず、相手にだけ記憶を失ってもらえば良い。佐久間だってそう考えるのではないだろうか。


 だとしても、することは同じだ。


 あの魔法を使っているかどうか、見分けるすべは無いのだ。使を続ければ良い。相手がこちらとの会話を覚えていても、いなくても。こちらは覚えていないふりをやり遂げるだけ。きっと向こうもそう望んでいる。


 胸にわだかまる疑念を振り払うように、木宮は階段を小走りに上がって玄関に入り、重たい金属製のドアを素早くぴったりと閉めた。

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