通勤(2)

 大さじ二杯、を計るスプーンを持っていないことに気づき、三倉は駅ビルの百円ショップに寄って計量スプーンのセットを買ってから帰宅した。そのうち自炊は覚えたいと思っていたが、まさかこんなきっかけで道具を買うとは、と自嘲する。気のせいか、帰りの電車に乗っていた間の記憶が薄い気がしたが、疲れている日にはよくあることだと思い直した。


 赤潮のくれた手順書の通りに、器に水を計り、赤い粉を混ぜ、一分待って青い粉を混ぜた。赤潮が作ったものよりも随分いびつな紫色の塊ができた。これで大丈夫なのだろうか。

 出来上がった塊をちゃぶ台の上に置いてしばらく眺めたが、消える気配もない。失敗かもしれない。あの男に適当な手品を見せられて騙されたんじゃないだろうか。しかしまだ金を払ったわけでもないし、嘘だったなら嘘だったで良いような気もした。

 冷蔵庫を漁ってビールと昨日の残りの惣菜を引っ張り出し、ちゃぶ台の前に戻ると紫色の塊は消えていた。それでも、あまり感慨は湧かなかった。結局この手続きがどういう意味を持つのか分からないし、置いたはずの物が見当たらないなんてこと自体も、疲れている日にはありがちなことに思えた。


 翌日は仕事でトラブルに見舞われ、一日中それどころではなかった。したがって三倉が自動化の効果に気づいたのは更にその翌日だった。

 いつもと同じ時刻の電車に乗り込んだ瞬間、ふわりと眠りに落ちるような感覚があり、我に返ったときには職場の最寄駅のホームだった。

 帰りも同様だった。電車に乗りこむまでは意識が確かにあったが、気づくと自宅の最寄駅で降りていた。

 居眠りをしていたような感覚に近く、時間が経過したという実感はぼんやりと残っていた。ただ、その間に何を見たのか、何をしたのかは、全く思い出せなかった。もちろん、思い出したとしても大したことのない記憶、ただいつも通り電車に揺られていたというだけのことなのだろうが。

 出勤や退勤のたびに湧き上がる、これからまた電車に乗るのか、といううんざりした気持ちが、急に三倉の日常から消えた。

 一週間が瞬く間に過ぎ去り、三倉は前回の予約通り、木曜日の十五時に再度あのマンションの308室を訪ねた。



「調子はいかがですか」赤潮は前回と全く同じ服装に、全く同じ口調だった。

「とてもいいです。悩みがほぼ無くなりました。心が軽い毎日です」

「それは良かった」

「それで、できれば電車の中だけでなく、朝起きてから職場に着くまでと、職場を出てから家に着くまでを、自動化してしまいたいんですが」

「いいですよ」と赤潮は言った。「朝は、起きた瞬間からずっと自動で、帰りは、家に着いたところまででいいんですね」

「そうです。あと、あの……仕事で外回りも多いので、職場を出たからと言って退勤とは限らないんですけど」

「大丈夫ですよ」赤潮はあっさりと言った。「通常の退勤は職場を出た瞬間から、出先から直帰する場合は仕事を終えてその建物を出た瞬間から、としましょう。仕事を終えた瞬間に屋外に居た場合は……そうですね、その場から五歩以上離れた瞬間から、としましょうか」

 それから赤潮はまた手帳を取り出し、タクシーアプリは何を使っているか、辛い物を食べる習慣はあるか、苦手な動物や虫はあるか、等々、脈絡の無さそうな質問を幾つかしてメモを取った。

 そして前回と全く同じく、一度退出してから小瓶と器を持ってきて、同じ手順で紫色の球を作り、テーブルの中央に置いた。

「これは催眠術みたいなものなんですか」三倉は聞いた。

「そういうものも混じっています。催眠術ってのは割と科学的なものですね。ただ、それだけではありません」

「魔法、ですか」

「そんな感じですね。気になりますか」

「いえ……なんというか、思っていたよりも、効果が普通なので、意外っていうか。ほんとにただ居眠りでもしたような感覚で、そういうことって普通にありそうなことだし、魔法という実感がないです」

「魔法なんてそんなものですよ。というか技術なんて大体そんなもので、あれば当たり前で、地味なものです。水道の蛇口を捻って水が出てきても、誰も感動しないでしょう、少なくともこの国では。でも考えてみたらすごい技術ですよ。飲み水が勝手に家に届くなんてね」

「まあ、そうですけど」

「複雑でよく練られた技術ほど、地味で目立たないものです。科学でも非科学でも同じこと。日常に溶け込んで誰からも意識されないようなものこそが、最も強力なまじないなんです」


 テーブルの上の紫色の球は消えていた。




 革靴を見るたびに思い出す。就活に備えて必要な物を買い揃える算段を母と話していたときに、「革靴なんてまだ早い。働いてもいないのに」と、父が割り込んだこと。鞄も、スーツも、ネクタイの一本までも。父の指示で最も安い量産品を与えられた。

 高卒の父は、三倉が大学に入った頃からいつも面白くなさそうだった。理系の学生に課される、世間一般の「学生」イメージとはかけ離れたハードスケジュールも、レポートと出席点の無茶苦茶なノルマも、前時代的な研究室の師弟制度も、理不尽な慣例と不文律に満ちた就活の実態も、父は全く知らなかったし、知ろうとしなかった。

 身近な先輩や指導者達に聞いても、「うちの世代よりはマシ」「去年は特殊だったから……」とお茶を濁されるばかりで、その点でも三倉の学年は孤立していた。そして実家の金銭面の格差という点で、三倉は同学年の中でも孤立していた。疎外されていたわけではないが、単純にロールモデルがいなかった。

 無理をして入った大学だった。受験の年の十ヶ月間は全てを投げ打ち、朝から晩まで机に齧り付いた。国立大なら、勉強さえできれば馴染めるから、と、周りの大人に言われた。自分でもそう思っていた。馴染めているつもりだった。仕送りで一人暮らしをする同級生達は、皆いつも金が無いと騒ぎ、バイトに明け暮れ、場末の汚い店に入り浸って安酒を煽っていた。

 しかし連中は結局、就活の時期が迫るといつの間にかちゃんとしたスーツと革靴と鞄と、それなりの見栄えのネクタイや腕時計を持っていた。フルオーダーのスーツを揃えている者も珍しくなかった。

「しまむらの靴だと落とされるらしいぜ」同じ研究室の同級生はニヤつきながら耳より情報をくれた。自分で全部揃えたかと聞くと、「鞄は拘りがあったので自分で買った」と言っていた。鞄、か。


 仕方がない。世の中は初めから不平等なのだ。理不尽であることが常態なのだ。今から急に騒ぐことでもない。

 ただ、何年経っても、胸にわだかまるしこりが取れない。

 通勤電車で他人のスーツや革靴を見るのが苦痛だった。



 目が覚めると職場にいる。昨夜、布団に入ってSNSを眺めた後の記憶が無い。もちろん、眠っていたのだ。睡眠をとり、起きて身支度し、電車を乗り継ぎ、職場に辿り着くまで、今朝も何一つ変わったことがなかった。ごく普通の朝。

 仕事はいつも通りに忙しく、こちらも特に変わりなかった。定時は六時だが、誰もそのことを覚えてはいない。あれも本日中、これも今週中……夜中までズルズルと居座る社員ばかりで、それを前提にタスクが割り振られる。一度、どうしても定時で上がりたい日があると上司に相談したら、「残業ことを会社に断らなくていいんだよ」と笑われた。だからって、無断で帰ったら不機嫌になるくせに。

 しかし、仕事で疲れ切ってもその後電車に乗ることを考えずに済むので、前より仕事に打ち込みやすくなり、残業が長引いてもイライラしなくなった。

 その代わり、というべきか、帰宅してからの疲労感は増した。今までだって、夜中に帰ってきて何をするでもない日々だったわけだが。それでもビールを飲みながらSNSを眺めたり、配信アニメの続きを観たりはしていた。近頃はそれをする体力も残っておらず、どうにか食事と風呂を済ませて泥のように眠るだけ。そして目覚めれば職場にいた。



「すみません、予約をしていなくて……」

 雨の夜だったが、また普段にも増して蒸し暑く、三倉はハンカチで何度も額を拭った。

「もちろん大丈夫です。どうぞ」ドアを開けたのは、初めて来た時に会った細身の眼鏡の男、かわだった。「先月の方ですよね。赤潮君の担当した。確かもう仕様が確定して、お支払いも済んでましたね」

「ええ……そうなんですが、ちょっとお話ししたいことが」

「そろそろいらっしゃる頃だと思ってましたよ」

 瑠璃川は三倉にスリッパを勧め、突き当たりの応接間に通し、冷たい麦茶と茶菓子を出した。

 瑠璃川と入れ替わりで、赤潮が現れた。本日はジャージのような生地のズボンに、無地のグレーのTシャツという姿で、もうこのまま布団に入って寝るのではないかと思いたくなる服装だった。

「調子はいかがでしょう。上手く動いてますか」赤潮は開口一番に聞いた。

「ええ、そこは完璧です、すごく……違和感も無いし、上手くいってます」

「それは良かった」

「ただ、本日お伺いしたのは、その、仕様のことじゃなくて、完全に個人的なことでして……本当に申し訳ないのですが、自動化を打ち切って欲しいんです」

「そうですか」赤潮はそれほど驚いた様子は見せなかった。「何か、思ったのと違いましたかね」

「いえ、思った通りなんです。完璧でした。完璧に私の望み通りになりました。だから赤潮さんには本当に感謝しております」

「それじゃ、もう当初の悩みは解決したということでしょうか」

「いえ……解決したというか、別な悩みがまた生まれたというか」

「それなら、その新しい悩みの方を自動化しましょうか?」赤潮はメモ帳を取り出した。

「いえ、もういいんです……いいんです」三倉はソファの真ん中で、すっかり恐縮した姿勢になって俯いた。


 赤潮は黙っていた。

 雨粒が窓に激しく打ち付けているのが、部屋の中まで聞こえていた。


「すみません、せっかくやっていただいたのに」三倉は俯いたまま言った。

「いえ、こちらはお代をちゃんといただいてますから」

「すみません……」

「そう重く受け止めないでください。我々の提供する技術なんて、自分で言うのもおかしいけど、大したことないものですよ。水道から飲み水が出る技術に比べたら、実に小規模でくだらないものです」

「気づいてしまったんです」三倉は言った。「私の不満は通勤に対する不満じゃなくて、への不満だって。いえ、世の中じゃないですね。の不満です。自分のこれまでの人生が不満なんです。だから何を自動化したって結局同じことです」

「そういうもんですかね」赤潮はわずかに首を傾げ、開きかけていた手帳を閉じた。

「通勤の時間が消えれば、見たくないものを見ずに済む。でも、見たくないものを消してしまったら、平日はずっと私は仕事をしているだけです。家と職場を往復するだけ……通勤が自動化できたぶん、仕事に熱中してしまうので、家ではグッタリ寝ているだけです。これじゃ何のために生きているか分からない」

「立派なことだと思いますけどね。会社に勤めて、自立して健康体で暮らしているなんて」

「空っぽなんです。世の中を見る機会が無くなったら、それってどこかに監禁されて仕事だけさせられてるのと変わりなくて。なんだか、自分の生きてる意味がわからなくなってきて……」

「実はですね、通勤中に何か三倉さんが満足できるような『夢』を毎回見てもらうように、調整することも可能なんですけど。あんまり荒唐無稽なものは俺の専門外ですが……例えば、それほど混んでない電車に乗ってる夢、なんてのは」

「いえ……やっぱり夢では駄目です。現実でないと。それが私にとって不満だらけの現実でも」三倉は顔を上げた。「社会に色んな人達の人生があって、自分もその一員だってことを実感したいんです。通勤はそのための大事な時間でした。失ってみてそれがよくわかったんです」



「やれやれ」瑠璃川は客人が去ると急に雑な手つきで客用スリッパを籠に投げ込み、応接間に戻った。「あの人、結局ひと月持たなかったねえ。最初に来たときから辛気臭い顔してたもん。赤潮君に投げて正解だったよ。僕あんなの絶対無理!」

「俺はああいう実直な人の方が気が楽だよ」赤潮は手帳にあれこれ書き留めてから顔を上げた。

「まあそう、僕はそれで助かってるけど。だから君は儲からないんじゃん?」

「お前の売上も似たようなもんだぞ」赤潮は言い返した。

「人生がどうちゃら、生きる意味がどうちゃら」瑠璃川は先ほど客人が座っていたソファに寝転んだ。「はあ辛気臭い。人生が暗い。うちはカウンセリングルームじゃないっつの。大人のくせに趣味や生き甲斐のひとつも無いから、無駄な考えごとばっか浮かぶんだよ」

「いや、あの人は仕事が生き甲斐なんだと思うよ」と赤潮は言った。「通勤を自動化して、余った体力で真っ先にすることが仕事だもの。営業慣れしてる雰囲気だったけど、何か専門知識が必要な商品でも扱ってるんじゃない? 話しぶりも頭良さそうだったし」

「ふーん。どうせなら仕事も自動化しちまいましょうって、言ってやりゃ良かったんだよ」

「そう言わないであげるのが優しさだろ」

 赤潮はソファから立ち上がり、客の使ったグラスと小皿を下げに行った。


 瑠璃川はしばし腕枕をして天井を見上げていたが、急にぴょんと上体を起こした。「もしかして、雨止んでない?」

「そうかね」と間仕切りの向こうから赤潮は答えた。

「何か食べに行かない? もう七時になるし、閉店にしましょ」

「外、暑いぞ」

「こういう日に外で飲むビールが美味いじゃん」

「下戸のくせに知ったようなこと言うな」

 赤潮は洗い物を終えて応接間に戻ってきた。

 瑠璃川はもう立ち上がって、すっかり出かける体勢になっていた。

「帰んなくていいの?」赤潮は聞いた。「奥さん待ってるだろ」

「今、メールしたからいいよ。たまには人生に潤いがないと」

「『たまに』かね。お前の場合」


 玄関を出ると、途端にむっと立ち込める湿気が二人の全身を包んだ。

「あー、思ったより、マジで暑いね」

「だから言ったろ」

「けどこういうのが、夏の夜の外出って感じだよ。汗だくになって店に入ると、エアコンの風が超冷たい」

「俺は眠ってる間に店に着いてた方がいいけど」

「え、やってあげようか?」瑠璃川はエレベータの呼び出しボタンを押しながら振り向き、眼鏡の奥の目をじっと赤潮に向けた。

「いや、断る」赤潮は素早く目を逸らした。「お前はマジでやりそうだからキモい」

「怖いじゃなくてキモいなの?」

「お前の術だけは絶対嫌だわ……」

「赤潮君のと同じなのに」

「だから嫌なんだよ」

 到着したばかりのエレベータに乗り込み、やたらと出っ張った古風な「1」のボタンを押し込みながら、赤潮は大きく溜息をついた。

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