34 『霹靂神(オクソール)』
「雄の体というのも案外悪くないもんじゃな」
光が晴れると、暢気な声が言った。トロットリードに宿ったヨルだ。
「いいから予定通りに行くよ。王様がお怒りだ」
耳をつんざくようなオロトエウスの咆哮がネイの言葉を裏付ける。大勢の国民の前で大恥をかかされた王の怒りは凄まじく、噴き上がる魔気によって全身が倍にも膨らんで見える。
「たしかに顔が赤いのう。意外と
ヨルはぬけぬけと言ってのける。ひとっ飛びで一気に高度を上げると、翼を回して時計台前広場から離れた。オロトエウスも追ってくるが、あの体格では当然というべきか、さほど速度は出ないようだった。
「よく分かるんですね。さすがはヨルネル様」
元々赤いのに、とタニシャが言った。トロットリードの背には、ナザレを先頭に、タニシャを抱える恰好でネイが座る。向かい風の中で話すのは難しく自然と大声になる。
「タニシャは肝が太いな。もっと混乱すると思った」
「死を覚悟した身ですから」
「ヨルのことは聞いたのか?」
「はい。ルマンという方が話しているのを。魂が引き継がれてきたって。もちろん、失礼がなかっただろうかとか、最初は不安になりましたけど、ヨルネル様が生きてらっしゃったんですから。タニシャのことより、まずそれを喜ぶべきだと思いました」
さすがは信仰のために自ら死を選んだ女だけある台詞に、ヨルが身震いする。
「くうう。聞いたか? 嬉しいことを言ってくれる。ぬしらにも見習ってほしいものじゃよ」
「危ないから落ち着いて飛んでくれるかな」
ナザレの舌打ちが上空に響く。
「お前ら全員、立派に肝が太いだろ。私たちは〈燼灰〉に追われてるんだぞ」
「ナザレさんは回心なさったんですか?」
「どういう意味だ」
「ネイさんたちの仲間になったようなので」
「馬鹿馬鹿しい」
「そうなんですか? わたしはてっきり……」
ネイの位置からは見えないが、ペースを乱されたナザレの渋い顔が浮かぶようだ。タニシャとアイリーが本当に姉妹ではないのか、次にザイルに会った時にはよく確かめねばなるまい。
「まあ、オロトエウスがその気ならとっくに
狂ってはいても愚かではない、というグクマッツの評を思い出しつつ背後を見れば、こちらを追跡する赤い竜の姿が確認できる。こちらの目的は、帝都からオロトエウスを引き離すことだから、状況は今のところ狙い通りに進行していた。後はグクマッツの「仲間」たちが帝城からシアを連れ出してくれるだろう。
「『巨人還り』っていうのは……」
「ああ」タニシャの疑問に口を開く。「そのことだけど……」
ネイは手短に『巨人還り』のことを説明した。タニシャの手に力が籠もるのが見えた。自分が信仰の大敵の生まれ変わりだというのだから、無理はなかった。同じ不運でも、『巨人還り』はいわば天災であり、『呪い憑き』のように『呪い』をかけた者を恨むことも難しい。
「だからじゃないけど、私はタニシャを助けたことを後悔しないよ。もしも恨まれたって」
「恨むなんて! そんなこと、ありません……」
逆巻く風の中でかき消えそうなタニシャの声。
「そろそろいいだろう。ヨルネル」
ナザレのひと言でヨルが方向転換をする。ナザレの言うとおり、帝都はすでに地平の小さな染みとなり、眼下には森が広がっている。左手にはリウグノッグとの国境を作る山脈。そして正面からは、オロトエウスの赤い体躯が接近してくる。
接敵を待つネイの脳裏には、皮肉めいた思いがよぎる。
帝都南方の辺境地帯。かつて〈燼灰〉によって根こそぎ焼き払われた大森林も、十三年も経てば森としての力強い植生を取り戻していた。あるいはこれだけしか戻らなかったと言うべきだろうか。すくなくとも、森を通う道や集落、そこを歩いていた者たち、そんな人間の営みは完膚なきまでに破壊されてしまったのだから。
デルイース辺境戦争最大の戦場。
ネイの故郷だ。
その戦火をもたらした張本人がやってきて尋ねる。
《我を寝所から引き離して、何が狙いだ》
《フン。母への敬意もなくしたか。正体見たり枯れ尾羽根じゃな。まさか敵に尋ねられて正直に狙いを教えるほど愚かと思われていたとは、母も心外じゃよ。それとも敵の知性も推し量れぬほど愚かな
慣用句は間違っても、相手の怒りを煽るのは的確にやってのける。それを賢さと呼ぶべきかは疑問があるが、ヨルの挑発は奏功し、オロトエウスはそれに
炎が翼の先端すれすれをかすめ飛んだ。それだけで大気が乱れてホバリングがぐらつく。威嚇と分かっていても身が冷える威力だ。何よりほとんど予備動作がない――亜竜のような「蛇のうなり」も、オロトエウスの
《もはや言葉までなくしたか!》
予備動作を読んだナザレが「掴まれ」と叫ぶと同時、ネイは凄まじい浮遊感の中に叩き込まれた。
めくるめく急降下。轟音と共に炎が間近を過ぎる。森が眼前に迫る。
墜落ぎりぎりでヨルは首を上げた。胃が裏返る。梢に腹をこすりつけるような低空飛行。それを追ってさらに幾本もの炎が奔った。火力を絞っているとはいえ、信じられない速射。位置を変えずに首だけめぐらせての
低空を維持したまま、襲いかかる砲火を抜け、オロトエウスの真下を通過する。
瞬間、反転――ヨルは空を駆け上がった。固定用のストラップが身体に食い込み、ネイはタニシャを抱えた腕に力を込めた。上昇の勢いを乗せ、敵の反応前に背後から急襲する。
《痴れ者が――》
肥大した体躯からは想像しがたい速さで、オロトエウスが転身した。
開かれた喉が正面に迫り、奥から
「今!」
ネイに抱きしめられたタニシャが両手を前に突き出す。
凄まじい業火は、タニシャが持つ巨人の力によって打ち消され――ない。
白い熱の波濤が目前に押し寄せる。
それを紙一重で躱し、ヨルはオロトエウスの脇をすり抜ける。オロトエウスの燃え立つ双眼、ニスバルドの煮えたような眼。赤い翼、分厚い背、黒い
躱しきれなかった翼の先が黒い灰となって崩れ散り、金の光がそれを癒やす。
《灼けぬものはないと言ったわ》
こちらをふり返ったオロトエウスが哄笑した。
《ひと息で殺さずにおいたのは、せめてもの慈悲と思われよ。母上》
彼自身の言葉通り、オロトエウスの
だからネイは言った。
「そんなことは知ってるよ」
そして片手を掲げた。立てた中指に、金の環。
ランビヤックの金鎖――古ドヴェルグの狩猟具の本質は、たとえ砕けようと融けようと、使い手の魔力によって自在にくり出されるその金鎖だ。細い鎖は幾重もの輪となってオロトエウスに絡みつき、宙をきらめいてネイの指へと続いていた。
「だけどアンタは知らない。私がアンタを殺すために積み上げてきた年月を」
底抜けの魔素がネイの心臓から右手へと流れ出る。いま、ネイは竜の背にある。
目をつむって神の名を呼ぶ。
「――『
まぶたを貫く白い光。轟く雷鳴が咆哮をかき消した。
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