35 〈燼灰〉オロトエウス

「……魔術で護ってこれか」

 耳鳴りに顔をしかめながら、ネイは右手を見た。中指から広がる幾何学的な熱傷。『軽雷ショック』ならまだしも、ヨルの魔力を借りた最上級の雷撃魔術となれば術者の反動も大きかった。鎖も膨大な電流に焼き切れ、ふたたび金環だけに戻っていた。

「『賦活ヴィタル』」

 魔術でじわじわと治癒していく痒みに、ネイはさらに顔をしかめた。

「そんな……」

 驚愕の混じったタニシャの声に、ネイは顔を上げる。

「バケモノが。あれだけのを喰らってピンピンしていやがる」

 ネイは二人の視線の先を覗く。雷でつかの間揚力を失ったのだろう、焦げた竜鱗りゅうりんを振るい落としながらオロトエウスが上昇してくる。一応はオロトエウスの庇護を維持しているのか、ナザレの時とは違い、〈騎手ライダー〉であるニスバルドにも大した被害はなさそうだ。

「さすがは母のじゃなあ」

「感心するところじゃない。お前は敵味方の区別がついてないのか?」

「敵も味方も等しく母のじゃよ」

「ネイさんのおっしゃっていたとおりでしたね」

「うん。こんなので片付くはずがない」

 予測通り、一枚目の手札は切ることになった。それはいい。問題は残りの手札で倒しきれるかどうか。ネイはこちらに向かってくるオロトエウスの姿を眺めながら思案する。

「待て。何か来る」

 そう言ったのはナザレだった。すぐにネイも気づいた。

 風切り音だ。左手の山並みを見れば、稜線を乗り越えてくる黒影は一瞬で数を増し、軍勢となった。ざっと見て五十はいる。さらに後続も続々とやって来るのが見える。

「亜竜……法院の部隊?」

「まさか。〈北鎮祭〉で出払ってるからこそ、〈燼灰〉だって行動を起こしたんだろ」

 ナザレの答えは端的だった。ネイは眼下のオロトエウスを見た。動きを止めて亜竜たちを注視する姿には警戒の色があり、援軍を歓迎しているようには思えない。

「少なくともオロトエウスの側じゃなさそうだね」

「とはいえ母たちの味方ともかぎらんからのう。一旦下がったほうが無難じゃろう」

 ヨルはそう言って亜竜と逆方向に羽ばたいた。

《我が血の猛りを阻む者は何者か。いらえなくば、死があるのみと知れ》

 オロトエウスが大音声で誰何した。対する亜竜部隊は不気味な沈黙を保ちつつ、半球形に〈燼灰〉を取り囲んだ。乗り手は皆、飛行服の上から黒いローブを被っており、かつてのナザレと同じように、所属を隠す意図が見てとれた。

「畏れ多くもホーミダル擁竜ようりゅう帝国の王がお訊ねになられるのだ。打ち伏して答えよ!」

 ニスバルドが叫ぶが、傍目にも亜竜の軍勢に圧倒されているのが明らかな反応で、落ち着いた〈燼灰〉と比べるといかにも貧相に聞こえてしまう。

《木偶が出しゃばるな》

「も、申し訳ありません。我が君……」

「怒られとるのう」

「〈燼灰〉にもああ呼ばれているんだね」

 ネイ達が勝手なことを言い出している間にも、オロトエウスは告げる。

《答えぬならばそれもよかろう。名も無きまま、灰となるがよい》

 大気が震え、放たれた息吹ブレスが空を鋭角に薙ぎ払った。射線上の十数頭の亜竜は、瞬時に原形を留めない黒い塊と化した。煙と灰を尾のように引きながら墜落していく。

 間を置かず二射、三射が続いた。一射目ほど劇的ではないにせよ、炎はさらに数頭を蚊でも払うかのように墜とした。とめどない攻勢に、亜竜部隊は陣形を維持したままオロトエウスから距離を取る。それを追ってさらに幾条も白光がほとばしる。

 ネイの脳裏に、史書の頁が思い浮んだ。

 その竜が空を歩む時、大地はあまねく燃え盛る。過ぎゆく村々は燃え、森は焼け、人々は火炎の中に息絶えて、後には死の灰が地平のかぎりまで降りしきる。

 ゆえに万竜号するに、

「〈燼灰〉のオロトエウス……」

 ナザレが絞り出すように言う。

 先ほどまでは手遊びだったのだとはっきりわかる、馬鹿げた、規格外の大火力。

 これが王。これが竜。これが、〈燼灰〉オロトエウス――

「でも、あっちだってこれくらいは想定していたはずだ」

 ネイのつぶやきどおり、亜竜部隊も怯んでばかりではなかった。後続を迎えて数を増やしつづけ、オロトエウスの息吹ブレスが十七射を数えたところで、減損を含めても目算で百以上に達した。領邦の一つや二つたやすく滅ぼせるほどの戦力だ。

 十八射目で一頭が墜ちたところで、ついにオロトエウスの攻撃がやんだ。さすがの〈燼灰〉も無制限に息吹ブレスを連発できるわけはない。その隙に亜竜部隊が隊形を整えはじめた。

「どういうことでしょうか。何か、オロトエウス様の周りを回りはじめて……」

「『熱殺竜球』だ……」ネイが感嘆の息を漏らす。「まさか現代でこんなものを拝めるなんてね。あっちには古典兵術に詳しいヤツがいるのかな」

 亜竜部隊がとるのは、かつて巨人殺しのために開発された戦術だ。

「数頭単位のグループで別々の軌道をとって標的の周囲を周回する。そうやって再充填の隙を消しながら息吹ブレスによって包囲殲滅していくんだ――いや、白戦もやるのか!」

 軌道から飛び出した亜竜がオロトエウスに切り込んだ。牙の一撃は分厚い腕で払いのけられたものの、竜鱗りゅうりんを裂いて血が飛び散るのが見えた。亜竜はそのまま別の軌道に合流する。

「あれは単に入れ替わりに息吹ブレスを撃つよりも、ずっと高度な連携が必要じゃ。よほど訓練されておると見えるが、ナザレよ、本当に法院のこどもらではないのか?」

「違うな。その戦術ってやつも私は聞いたことがない」

 ネイたちが話す合間にも矢継ぎ早に放たれる息吹ブレスが遠間から、あるいは牙や爪、棘が直接に、オロトエウスを削っていた。赤い鱗が宙に飛び散る様子は剣戟の火花にも見える。

「……聞いたことはないが。どうやら効果はあるらしいな」

 ナザレが評する。最初の猛攻から一転、オロトエウスは追い込まれて見える。

 時折、充填を終えた息吹ブレスが放たれるものの、さしたる打撃にはならない。重複しない多数の高速周回軌道を用いた『竜球』の陣形は、一度に複数頭が同じ射線に晒されないための方策でもある。事実、布陣が完成して以降、オロトエウスは数頭しか亜竜を墜とせていなかった。

 ふと、ネイの視界の端に光がちらついた。方角からすると帝都のほうだが、一瞬であったために確証が持てなかった。疑問を口にしようとしたところで、ヨルが言った。

「母もあれには難儀させられたものじゃ」

 感慨深げなヨルにネイは尋ねた。

「反乱の時に?」

「ああ、そうじゃ。よく覚えておる……」

 かつて〈大地母竜〉ヨルネルは、巨人ではなく、自らのこどもの手にかかり死んだ。

 その〈不義のこどもたち〉の一頭たるオロトエウスの身体から、目に見えて血が滴っていた。真紅の身体から流れるさらに鮮烈な赤。弾け飛ぶ血と鱗が『竜球』の中心に華を咲かせる。

 その時、数頭の亜竜が『竜球』の軌道を外れた。陣形から離れた位置で乗り手たちは一斉にローブを払った。タニシャが息を飲み、「そういうことか」とナザレが声を漏らす。

 ローブの下の飛行服には紋章があった。六本の剣と星を抱えて丸くなる竜の図像。それは、かつてのリウグノッグ王国の国章だ。

 十一年の雌伏を経た、二度目の反乱――

「帝都は〈リウグノッグ解放戦線〉の手に落ちた。辺境領邦の多くもこちらについた」

 ナザレが「道理で武器を隠した連中が多かったわけだ」とつぶやく。

「いまも帝都に向かって、私たちに倍する亜竜が進軍している」

「我らにはアヌーヴン様とザイゴート様が共にある!」

 代わる代わる男たちが叫んだ名は、それぞれリウグノッグの竜と〈騎手ライダー〉の名前だ。ともに〈燼灰〉が幽閉しているという話だったが、助け出されたのだろう。

「なるほど。〈大地母竜〉を味方につけられれば、竜は二頭だ。加えて三百以上の亜竜。法院の主力は〈北鎮祭〉で留守、仮に介入されても『呪い憑き』の処刑で〈燼灰〉側への心証は最悪だ。ルマンの野郎、上手く立ち回りやがった」

「最初からこれが狙いだったんでしょうか?」

「だろうな。ルマンがいつリウグノッグについたかはわからんが、いま考えてみればあの護衛達も妙だった。法院の人間が、反撃に魔術一つ使ってこないのはおかしい」

 ナザレが言っているのは祭殿からの護衛達のことだろう。

「ヨルを連れ出したのはアイツらだったってこと?」

「というより、途中で成り代わったということじゃろうな」

 現状からすると、〈大地母竜〉の奪取は最初から作戦に組み込まれていたのだろう。煽り立てた上で〈燼灰〉を倒してしまえば、法院への反逆を防いだという大義名分も立てられる。

「貴様の二十年にわたる暴政もこれで終わりだ。降伏せよ〈燼灰〉!」

 なおも続く『竜球』による猛攻。その上で、〈解放戦線〉の一人が宣言した。

〈燼灰〉すら封殺する恐るべき戦術。

 だが、とネイの心中には不意の疑念が浮かび上がる。

 彼は〈不義のこどもたち〉、まさにその戦術を編み出した側――〈騎手ライダー〉を乗せ、身内までも裏切った者たちなのだ。

 あれほど偏執的な彼が、その対処を考えなかったなど、あり得るのだろうか?

「革命……。これからホーミダルはどうなってしまうんでしょう」

 そう言うタニシャの言葉に反し、ネイの背はぞわりと粟立った。

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