第3章 〈燼灰〉オロトエウス

33 奪還

 時計塔前広場の空は抜けるように青く、視界を埋めつくすほどの群衆が詰めかけていた。石の処刑台の上には罪人を括るための太い石柱が立てられている。興奮に沸き立つ人混みを前にして、ネイは隣の女に話しかける。

「まさかアンタが賛成してくれるとは思わなかった。あれだけ泣きじゃくっていたのに」

「ハッ。誰のことを言ってるんだか」

「……ありがとう。決断してくれて」

 ナザレは舌打ちをする。

「まさか。私は私のためにやったまでだ。ただ……」見守るネイの前で、ナザレの視線が揺れる。「あの『巨人還り』を見殺しにすれば、姉さんに叱られる。ただそれだけだ」

 姉さえ助け出せればいい。『呪い憑き』など知ったことか。

 そう公言していたはずの彼女が、ここに立っている。それだけで十分だった。

「素直じゃねェ」

「まったくじゃな」

「ナザレはわるいやつ!」

「なんでだよ。悪くはねえだろうが」

「すなおじゃないから」

「クソガキめ」

 髪をぐしゃぐしゃかき混ぜるナザレに、「やめて」と言いつつ、アイリーの顔は嬉しそうだ。

「……行こうか」

「お嬢さん方、ご武運を」

「がんばって!」

「グクマッツも、頼んだよ」

「あいさ」

 ネイとナザレは人々の群れに割り入った。目指すは処刑場の最前列だ。舌打ちや罵声を浴びるが、ここでも『敬虔』の威光が発揮されて、人波をなんとか抜けていく。

「お、タニシャじゃぞ」

 二人が進む間にタニシャが処刑台に引っ立てられてきた。この数日でかなりやつれて見えるものの、目のかがやきは失せていない。

「あまり喋んないでよ」

 肩に留まったヨルにネイは話しかける。喋る神像は目立ちすぎる。木彫りの像に宿った〈大地母竜〉は、ややキイキイ声になっているものの、いつものヨルだった。

「構わんじゃろ。どうせみんな処刑に夢中じゃ」

 ヨルの言葉通り、群衆の目は処刑台に釘付けだった。立てられた石柱にタニシャが鎖で縛られるのを、人々が興奮した声で野次る。投石まではいかないが、ゴミや野菜クズが投げ込まれるのを、脇に控えた兵士たちが注意している。

「野蛮じゃのう」

「もっと野蛮なのを叱りに行くんでしょ」

 ネイが言うと、神像の首がこくこく頷く。

「そうじゃな……〈燼灰〉め。母の愛しきこどもらにあのような仕打ちをしておいて、よくも母と番いたいなどと言いおったものじゃ」

 前を歩いているナザレが噴き出す。「番う?」

「言わんかったか。新しい竜を生み出すために母と番うと言いおったんじゃ。あやつめ、母は別に生殖なんぞせんでもを産むことができるというに……」

 突然明かされた情報に動揺するが、ともあれ、今は目前の事態を切り抜けることだ。

 と、群衆がざわつく。皆が頭上遠く、帝城の方を見ている。

 真っ青なホーミダルの晴天に血のごとき色の巨躯が浮かぶ。ゆったりと、まるで泳ぐように飛翔するその身体は、胴から両手足まで、竜に詳しくない者が見ても分かるほどにぶ厚く肥え、神なる存在というにはあまりに不格好だ。だが、彼の威風はそんなことで衰えるものではない。そこにあるだけで生物を屈服させる、燃え上がるような魔気が吹きつける。

 ホーミダル擁竜ようりゆう帝国の王――〈燼灰〉オロトエウス。

 その背にまたがる〈騎手ライダー〉は〈灰王〉ニスバルド・アングール。

 ニスバルドは痩せこけた陰気な顔をしているが、目だけはぎらぎらと煮えている。〈燼灰〉の傀儡と言われる男だが、人形というにはあまりに人間の悪性を宿した目だ。王を先導するように、二頭の亜竜がまず、石の処刑場に降り立った。

「トロットリード」

 その片割れ、乗り手のないワイバーンを見てナザレがつぶやいた。

「急ごう」

 中空に浮かんだオロトエウスにまたがり、〈灰王〉が長々と演説をぶつ。大筋はナザレの予想通りで、さすが〈傀王〉だけあって、他人に動かされるのは上手いものだった。聞き流しつつ聴衆の中を進み、ちょうど長広舌が終わったところで、最前列まで出ることができた。

 頭上ではニスバルドが芝居がかって手を掲げている。

「では、この者が『呪い憑き』であると証明しよう」

 彼はそう言うと、離れた位置で待機していたルマンに視線で指示を出した。

 ルマンが指を鳴らすと、トロットリードの頭がゆっくりとタニシャを向いた。

 シゥ――

 亜竜の喉から灼熱の息吹ブレスが放たれ、群衆が悲鳴を上げる。なるほどニスバルドの――考えたのはルマンだろうが――デモンストレーションは狙い通りの効果を発揮し、群衆はワイバーンの息吹ブレスに晒されても生き延びた少女を見て、さらなる恐怖の声を上げた。

「けれど安堵せよ。――我が君」

《民よ。懼るるなかれ。この天地に、我が息吹いきに灼けぬものはない》

 轟く遠雷の声を、群衆は大歓声で迎える。帝王と〈騎手ライダー〉はそれに鷹揚に応え、

「今だ」

 ネイの合図で、ナザレが竜笛りゆうぶえの音色を変えた。トロットリードはあるじの「声」に素早く応じた。振り抜かれた尾棘びきよくが鉄鎖を断ち割る。

 トロットリードがやって来てから、ナザレは竜笛りゆうぶえを吹き続けていた。先ほどの息吹ブレスも、ルマンの指示に応じてナザレが指示した。彼がもっとトロットリードと心を通わせていれば、指示と反応とのわずかなズレに気づけたに違いない。

「来い、トロットリード!」

 すでに溜めていた魔力で速度を得たワイバーンは、翼の一打ちで、あるじのそばに駆けつける。二人の連携はその場の全員の反応を超えていた。

「シャダータング!」

 ルマンが自分の亜竜を呼んだ時には、既にナザレはトロットリードにまたがって群衆の頭上にあった。不可視の毒息ヴェノムもそこまでは届かない。ネイのほうは処刑台に駆け上がり、タニシャを抱きかかえていた。

「ネイさん……」

「逃げよう」

「どうして」

「私がそうしたいからだ」腕の中のタニシャを見る。「私がアンタに生きていてほしいから」

「でも、」

 タニシャの言葉をかき消すように、群衆から悲鳴が上がった。トロットリードが息吹ブレスを放ったのだ。炎は飛び立とうとしたシャダータングの鼻先を抑える。そうして出来た隙に、トロットリードは群衆に飛び込むようにして降下してくる。群衆を巻き込むのを恐れて動けないルマンを尻目に、ネイはタニシャを抱えたまま亜竜の背中に飛び乗った。

「行け!」

 亜竜は上空へとんぼ返りし、燃え立つ一対の眼とかち合う。喉奥には炎が逆巻く。

《蛆どもが!》

「我が君、なりませんッ!」

 ニスバルドの悲鳴。

〈燼灰〉の名の由来たる火炎が、処刑場に集まった群衆を巻き込み、なだれ落ちる――

《ばかもの!》

 オロトエウスが動きを止める。彼の目は小さな木彫りの像に注がれていた。

〈大地母竜〉ヨルネルの神像はネイの肩から飛び降りると、トロットリードの首を歩いていく。ネイたちも、集まった群衆も、ルマンやニスバルド、そしてオロトエウスも、そのちょこちょこした歩みを息を詰めて見守った。

 トロットリードの頭にたどり着き、ヨルはふう、と息をついた。

 そしてふたたび〈完全言語〉で呼ばわる。神像のキイキイ声では届かないからだ。

《母のとして恥じることはないか、オロトエウス!》

《母上……》

 ものすごく遠い遠雷。

《母の記憶がないのを良いことに、ばかなことをしおってからに。すべて思い出したぞ。おぬしらが母の愛しきこどもたちにした仕打ちをな!》

 ヨルの封じられた記憶に、その仕打ちは刻まれていた。

『人竜大戦』の際、新たな力を得た若い竜たちがいた。かれらは当時、弱小種属であった人間を〈騎手ライダー〉として背に乗せた。生まれついた力で敵を押し潰すことしか知らなかった竜と巨人の戦いにおいて、人間の謀略の才は役に立ち、かれらは戦線を着実に押し上げた。

 やがて『人竜大戦』は竜の勝利に終わる。しかし、背に乗せた小さな種属に影響された若い竜たちの野望は、それにとどまらなかった。かれらは竜の陣営をも裏切り、反対する者たちの魂を封印した。かれらは大陸をいくつかに分断し、それぞれに国家を樹立した。

 それが〈不義のこどもたち〉。

 いまなお生き残るその一頭こそ、〈燼灰〉オロトエウスだ。

《お前などと番うものか、ばかめ!》

 ヨルは怒鳴り、続けざまに非常に猥褻なことを言った。ドラゴンの生殖に関わる罵倒らしく、実際の状況がどんなものはわからなかったが、〈完全言語〉ゆえ、種属の壁を越えて意味するところが理解できてしまう。時計塔広場の全員が顔をしかめた。

《覚悟せい。母みずから――おぬしの尻を引っ叩いてやる!》

 そこまで言い切ると、コトン、と神像は倒れた。転がってくるそれをネイはすんででキャッチし、そして、金の光があたりにほとばしった。

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