29 竜の巣穴
搬入口からすぐは大きな倉庫になっており、広い棚に物資が並べられていた。隣には食堂と調理室がつながっていたが、その先はもはや、通常の建物の体を成していなかった。
蟻の巣のように繋がった廊下は多くがむき出しの黒い岩壁で、帝城であるはずなのに調度も置かれていない。各所に設けられた小部屋も同様で、人が生活するためというより、侵入時に敵を待ち受けるための設備と思われた。
帝城に入ってしばらく、二人は地下へのルートを探しながら進んでいた。
「馬車を帰して、帰りはどうするつもりだ」
曲がり角で立ち止まったネイに、ナザレが尋ねてくる。こうして曲がり角ごとに警戒しているのだが、侵入して以来、人の気配を感じたことは一度もなかった。
「ずっと待たせるのも無理でしょ。同じ場所から帰れるとも限らないんだし」
「なら二人を見つけた後はどうするつもりだ」
「なんとかするしかないね」
ナザレが盛大にため息をつく。珍しく舌打ちではなかったのは、実際、彼女自身もそうするしかないと分かっていたからだろう。元より出たとこ勝負な作戦だ。
何度か角を曲がると急に空間が開けた。壁から取り上げたランプを掲げてみても天井が見えない吹き抜けの部屋。高さは帝城そのものと等しいのではないかと思われた。
ナザレの「まるで竪坑だな」という感想がしっくりきた。これまでの廊下とは異質な円形の吹き抜けは、大鉱山の竪坑の底というのがいちばん近い形容に思えた。
ランプの火を見ると風の流れが感じられ、どこかで外に通じているらしかった。
見上げているうちに薄闇に目が慣れてきて、竪坑からさらに同じような大きさの横穴がいくつか分岐しているのがわかった。ここと同じ水平面ではなく、何メートルも上がったところに横穴が口を開いているのだ。ネイは合点する。
「こっちはオロトエウス用なんだ」
「なるほどな」ナザレがつぶやく。「私たちが今まで通ってきた道は使用人のためか」
「多分、オロトエウスの目につかずに移動できるようにしてあるんだろうね」
臣下たちが獰猛で短気な君主と鉢合わせすることのないように。
「文字通りの竜の巣穴だな」
幾本かの竪坑とそれらをつなぐ横穴。巨体の竜のための太い坑道を取り巻くように、人間たちの移動路が掘られている。徹頭徹尾、君主のためにあつらえられた空間は、たしかに「帝城」の名には相応しいのだろう。
「あっちだ」
二人は竪坑の底を渡ると、さらに帝城を進んでいった。
やがて、三本目の竪坑に入った瞬間だった。
ネイは踵を返すと、ナザレを廊下へと押し戻した。
「な、」「……いる」
小声でネイは言った。その時にはナザレの目にも入っていただろう。
竪坑の上方に赤い影があった。側面に口を開けた横穴のひとつで竪坑へと尾を垂らし、とぐろを巻いているのは、〈燼灰〉オロトエウスだった。
垂直距離で十メートル以上離れているとはいえ、人間がここまで竜に接近するなど滅多にないことだ。可能なのは各国の四人の君主と、法院の中枢部くらいのものだろう。
その距離だからこそ、ネイにはよく分かった。〈殺竜〉の師にあらゆる知識と技術を叩き込まれたネイだからこそ、それがまざまざと分かった。
――あれには絶対に勝てない。
その一挙一動が人間にとって百万の死に値する、あれはそういう怪物だ。
「戻るか?」と訊いてくるナザレの声音には珍しく心配の色があった。自分の顔が蒼白になっていることはネイも自覚していたが、「ダメだ」と首を振った。
「匂いがするんだ」
「匂い?」
ナザレは〈燼灰〉を見たが、そうではなかった。嗅ぐだけで恐怖を呼び起こす彼の匂いに混じり、しかしもうひとつ、拭いきれない悪臭が竪坑の向こうから漂ってきていた。
「あの右から二番目だ。あそこから――血とはらわたの臭いがする」
ナザレが息を飲む。「地下牢か」
ネイは頷いて目測する。向こう側まではさしわたし二十メートルほど。
眠っているのか、〈燼灰〉はおそらくまだこちらには気づいていないが、十メートルの距離など竜にとっては存在しないのも同じだ。加えてここは閉鎖された空間。〈燼灰〉の名の由来たる灼熱の炎から逃げるすべはなかった。
かといって、引き返しても迂回路が見つかる保証はない。
「行くしかない、か」
ナザレの言葉にネイは一瞬ためらい、わかった、と答えた。
「行こう」
二人は横穴から進み出た。一歩一歩に全神経を集中させ、物音を消すように歩く。頭上からは竜の魔気が滝のように降ってきて、両肩へと重くのしかかった。
火の上に張られた綱を歩いている気分だった。もし一歩でも足を踏み外せば、そこに待っているのは万物を灰にする〈燼灰〉の業火だ。あまりにも工夫のない比喩。
汗がネイの顎を伝った。
冷静になれ――冷静に――冷静に――
足元の火から目を逸らすため、祈るようなくり返しで頭の中を埋め尽くす。
喉がひくひくと痙攣する。
そして竪坑の中央、ちょうど道のりの中間まで来たとき、ネイは足を止めた。
「何やってる!」声には出さずナザレが訴えてくる。目には焦りと混乱が渦巻き、額にはネイと同じく汗が噴き出しているのが見えた。
ネイは首を振った。
――もう見つかってる。
首を上げなくとも、竜の眼がこちらを見ているのが分かった。それだけで身体が発火するように思えた。全身が、今すぐここから逃げ出したいと叫んでいる。
なのに一歩たりとも動けなかった。
永遠と思える一瞬の後で、〈燼灰〉が口を開いた。
《新しい虜囚か?》
遠雷のような竜の発音は言語としてネイの脳に理解される。
竜は人語を解すと言われる。だがそれは表層的な意味でしかなく、実際には、かれらは一定以上の知的存在すべてに自由に意思を伝えられる。その能力を〈完全言語〉と呼ぶしかないのは、「ことば」に縛られた人間の限界にすぎなかった。
しかしそうして意味が通じても、ネイには返す言葉がなかった。彼の口にする話題が分からなかったし、口を開いた瞬間に炎が自分を包む想像が頭の中から拭い去れなかったからだ。
沈黙をどう捉えたのか、〈燼灰〉は《……まあよかろう》と言った。
《二度と『巨人還り』のような汚物に我の閨の門をくぐらせてくれるな。貴様に母上を連れて来た功績があろうとも、次はないと思え、『敬虔』の兵士よ》
突如として金縛りが解けた。
ずずず、と音を立てて、横穴の向こうへと急速に〈燼灰〉の気配が遠ざかっていく。
詰まっていた呼吸を取り戻してネイはあえいだ。脚の力が抜けて、その場にしゃがみ込んだ。膝が笑っているのがわかった。
隣のナザレも似たようなもので、白い肌に脂汗を滴らせていた。二人はしばし放心したように顔を見合わせていたが、それからようやく状況への理解が追いついてきた。
「助かった……」
「ああ」
ネイは震える膝をぴしゃりと叩いて、立ち上がった。ナザレも同じように立ち上がる。
「『敬虔』の兵士か……〈燼灰〉の奴は私をルマンと間違えたらしい」
「たぶん。性別まで間違えるとは思わなかったけど」
とはいえナザレは飛行服の兜を被っており、一見では男に間違えてもおかしくはない。〈燼灰〉はおそらく、その飛行服だけでナザレをルマンと判別したのだろう。そして彼が連れているネイを新しい囚人だと理解した。
「連中から見れば、人間なんてどれも似たり寄ったりだろうな」
「オロトエウスは特に人間に興味が無いタイプだろうね」
それにしても、とネイは竜の言葉を思い返した。
「『巨人還り』っていうのはどういう意味かな。タニシャのことだと思うけど、『呪い憑き』じゃなくて『巨人還り』っていうのは……」
「さあな。〈完全言語〉も完全ではないんだろう。重要なのは『呪い憑き』が地下牢にはいないってことだ。あの言い方なら帝城にもいないな。ルマンがどこかに連れ出したはずだ」
ネイは頷いた。帝城に居ないのであれば、タニシャを助け出す機会はもう、明日の処刑のタイミングしかなくなってしまった。ナザレはこちらの落胆には頓着せずに続ける。
「それに『母上』だ……思ったよりも〈燼灰〉は母親想いらしい。たとえ人間の器に入ったままだとしても、その大事な母上を囚人といっしょに地下牢に放り込んでいるとは思えないな」
ネイもその推測に同意したが、念のため二人は階下に降りた。充満した血の臭いに顔をしかめながら檻を覗いて回るが、朽ちた骨や元の姿を想像したくもない何かが散乱している以外には、地下牢に人間の気配はなかった。
「どうする」
尋ねてくるナザレから目を逸らしてネイは答える。
「……ヨルの居場所は『
沈黙の後、ナザレは低く訊いた。
「……それは最初からか?」
頷く。激しい衝撃と共に、ネイは鉄格子に背中から叩きつけられる。ちょうどあの路地の再現だった。息がかかるほどの距離で、ナザレの目が怒りに燃えていた。
「クズが」
吐き捨てるとナザレは手を離した。
「連れて行け」
「わかった」
ネイは地下牢の階段を登った。後ろからナザレがついてくる。
盗難と紛失防止のため、ネイは自分の持ち物すべてに『
まさか帝都まで来て自分の下着を追いかける羽目になるとは思わなかったが、彼女がどこに捕らえられているかは、『
しかし、もしもまっすぐにヨルの居場所を目指せば、ナザレはタニシャを助けるのに協力しなかっただろう。ナザレの目的は姉を救うことだけだからだ。
それが分かっていたから、ネイは真実を告げなかった。
タニシャとヨルのどちらも助け出せず、すべての計画が破綻する可能性もわかった上で、ネイは〈燼灰〉の前を歩いた。賭けさせていることを告げずにナザレに命を賭けさせた。
ネイは一度も嘘はついていなかった。
それでも自分は、ナザレの言うとおりの人間だと思った。
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