19 妹と姉

 シアーシャ・ハートレイク。

 それがヨルの巫女、あるいは「器」としての名前だ。

 シアにはひとつ歳の離れた妹がいて、それがナザレだった。

 併合からほどないリウグノッグ邦。熱心な信徒夫婦の間に生まれた二人は、幼い頃から比べられて育った。聡く従順で美しいシアは、誰もが夢見るような完璧な女の子だった。勝ち気で口の悪い妹は、彼女の出来の悪い付属品として見なされた。

 当然のようにナザレは姉を嫌った。姉のほうではそうでなかったことも、彼女の怒りをさらにかき立てた。野生の獣のようなナザレを子どもたちの輪に入れようと姉が気にかけるたび、彼女はその手に噛みついた。それでもシアはやさしく微笑んだ。姉の笑った顔は自分と鏡写しのようで、それがますますナザレを惨めにして、少女は笑わない子どもになった。

 ある時、二人は大法院から呼び出しを受けた。デルイース辺境戦争の半年前、ナザレが六歳の時だ。ホーミダルの大法院には二人と同年代の少女が集められていた。

 巨大な礼拝堂いっぱいの少女たち。見た目はさまざまで、リウグノッグ人だけでなくリッツガドルや辺境人らしき姿もあり、全体ではどれほどの数になったのかも分からない。

 ともあれ、何らかの手段でその中からひとりが選ばれた。

 別室に連れられていくと、そこには幼い少女ですら知っている法院の中枢が顔を揃えていた。法院の権威たる最高司祭をはじめとした高位司祭、リッツガドルの聖女と呼ばれる若い女、生ける聖人たち。見慣れないのは一人の老婆だけだった。護衛として脇を固めているのは、『敬虔』と呼ばれる法院の精鋭兵とその亜竜だ。

 少女の目を釘付けにしたのは彼らではなかった。

 その背後で開け放たれた壁いっぱいの窓。その向こうのバルコニーに姿があった。

 司祭や信徒のあやつる魔術の根源であり、法院に属する者全員が、一生に一度その御姿を仰ぐことを望む存在。生ける神の一柱。

〈至善〉のアルカイッテ。

 銀色の鱗。ほっそりと女性的な四肢。氷細工のような水晶質でかたどられた八枚の薄い羽根が陽光にかがやき、細く長い尾は風にたなびいている。現存する中で唯一〈騎手ライダー〉を持たない気まぐれな竜が、バルコニーの床に身を横たえ、アメジストのひとみでナザレを見ていた。

 老齢の今代に代わり、次代の〈大地母竜〉の器として選ばれたのはナザレだった。

「ヨルが嘘をついたってこと?」

 ネイが尋ねると、「違う」ナザレは用意された茶に口をつけた。司祭はグクマッツを迎えに出て行き、ネイは食卓でナザレと向かい合っていた。

「問題はそこからだ」

 喉を落ち着けたナザレはさらに話を続けた。

 当時二人は、両親と共に宿を取って帝都に滞在していた。両親は法院からの招集に喜色満面で、まして「娘を法院の高位司祭候補として取り立てたい」と言われれば、有頂天になるだろうと想像できた。

 高位司祭候補――法院の幹部たちはナザレに、両親にも真実を告げるなと言った。

 手の着けられない悪童だったナザレも、法院への信仰心は篤かった。まして自分がそのような大役に姉を差し置いて選ばれたのだ。大法院からの帰り道、興奮と誇らしさでいっぱいになった彼女は、つい〈大地母竜〉のことを口にしてしまった。

 反応は劇的だった。シアは色を変え、法院の申し出を拒むように妹に言い聞かせた。

 彼女にもう少し分別があれば、当時のナザレがそれをどう受け止めるかは予測できただろう。彼女もまだ子どもだったのだ。ナザレは姉の反応を、初めて自分よりも注目された妹への嫉妬だと思い込み、ここぞとばかりに嘲った。

 帝都の路地でナザレは姉が泣くのを初めて見た。

 涙とともに言い募られる言葉は、頭には入ってこなかった。ただ、彼女の涙が彼女自身のためでないことはナザレにもわかった。わかってしまったから何も言えなくなった。

 気まずい沈黙を引きずりながら宿に戻った二人を待っていたのは、息絶えた両親の骸だった。最初は眠っているだけだと思ったほどの鮮やかな手際。

 恐慌して宿を飛び出た二人を待っていたのは、燃えあがる帝都だった。

 街は赤と黒で描かれた地獄だった。そこらじゅうに火をつけて回る者がいた。燃え盛る店から商品を奪う者がいた。逃げ惑うだけの者がいた。そのすべてを亜竜が踏み潰し、焼き払った。乗り手の胸を矢が貫いて、魔術が亜竜の翼をねじり切った。

 七年前に併合されたリウグノッグ国民による蜂起。

 後に帝都大火、またはリウグノッグの大火と呼ばれる大暴動の始まりだった。

 両親を失ったと同時に暴動に巻き込まれた姉妹を助けたのは、同じ宿の老人だった。彼は共に帝都を出ようと提案し、縋るもののない二人は一も二もなく頷いた。

 彼は帝都の裏道に詳しく、東門まではあっという間だった。そこにはナザレたちと同じように、帝都を捨てることを決めた膨大な人々が集まっていた。群衆の中で押し詰められながら、姉妹と老人は炎に追われ、市壁の外を目指して歩いた。

 ナザレには生き延びることしか考えられなかった。巫女に選ばれた喜びも、姉の涙も、何もかも忘れて一心不乱に前に進んだ。群衆に押しつぶされないように必死で足を動かし、体をねじこみ、進んだ。気づいた時にはとっくに市壁を越えていた。

 ふり向けば誰もいなかった。

 自分を助けてくれた老人も、

 そして、姉も――

 逃げのびたのは自分だけだとナザレは悟った。

 暴動は四日で帝都の三割を焼いた。炎の大半は業を煮やした〈燼灰〉によるものだったが、帝国の公式見解は今もなお、「そうしなければ我々はすべてを失っていた」だ。

 以来、ホーミダルによる属国リウグノッグ邦への弾圧はいっそう激しいものになり、そのひとつの帰結として、反乱への支援を疑われた辺境領邦との間で戦争が起きた。デルイース辺境戦争は、反逆者をけして許さないという帝国の敢然たる意志と冷酷さを示すものになった。

 その推移を、落ち延びた先の街でナザレは他人事のように眺めた。

 幸い街では、法院が帝都の難民に向けて門戸を開いていた。ナザレはそこで、大嫌いな故郷も過去も捨て、法院の兵士としての道を選んだ。〈大地母竜〉の巫女について知るのは法院でも限られた者たちだけだ。ただの信徒に手が届くものではなく、誰かに話して狂人扱いされるのも恐ろしかった。あの部屋にいた者たちの中で、ナザレにとって最も可能性があるのは『敬虔』の兵士だった。なんにせよ、いずれは使者が迎えに来ると信じていた。

 法院が孤児に与えた名はナザレスカーク。ありふれた名前だった。

 かくしてナザレはナザレになった。

 最初の数年はそうして過ぎた。その頃にはナザレも、自分以外の少女が器に選ばれたのだろうと考えるようになっていた。自分に亜竜乗りとしての才能があることに気づき、十年が経って成人を迎える頃には、もはや巫女など遠い憧れの記憶でしかなかった。

 正式に『敬虔』として配属されたナザレは、いくもの任務をこなして頭角を現し、やがて〈大地母竜〉の秘密を明かされ、器となる娘と引き合わされることになった。〈大地母竜〉の魂が『人竜大戦』の戦場からひそかに逃がされたこと、その魂を人間の娘を器として代々受け継いできたこと。どれもあの大火の日に、ナザレが姉に得意げに話して聞かせた内容だった。

 しかし、ひとつだけナザレが知らなかった――疑問を持たなかったことがあった。

 魂を受け継いだ巫女がどうなるのかということだ。器となった少女の魂は、心は、意識は、その人格はどこに行くのかという問いだ。

 答えは簡潔だ――それらすべては失われる。

「姉さんはそれに気づいて、だから私を止めようとした。姉さんは受け入れなかった――自分の妹が妹ではなくなる、それどころか、法院の道具になるなんてことはな」

「道具?」

 ネイは思わず訊いていた。ナザレにとっては複雑な思いを抱く存在だとしても、〈大地母竜〉の巫女を「道具」と呼ぶのは違和感がある。ナザレは不思議そうな顔をした。

「巫女から聞いてないのか。人間が竜の魂を受け止められるわけがない。だから巫女は魂降たまおろしを終えると、人間でも竜でもない意志のない道具になる。〈大地母竜〉なんておこがましい、出来損ないの竜を生み出すための『産む機械マテル・エクス・マキナ』だ」

「『産む機械マテル・エクス・マキナ』……」

「そうだ。法院の連中はそう呼ぶ。勿論そこまでわかっていたはずはない。だけど、姉さんはあの時、自分から帝都に戻ったんだ。私の名前を騙って巫女のふりをした。そして……」

 そこでナザレの視線は食卓に落ちた。

「私は姉さんを完璧だと思っていた。何も欠けることのない女の子……でも、姉さんの涙を見た時にわかった。姉さんは完璧ではないこと――だけど、そうならなければならなかったことが。私が悪態をつくたび、人を殴って唾を吐くたび、そのたび私は姉さんから、そうする可能性を奪ってきた。完璧な、欠けることのない少女であることは、何もかも奪われることだ。かつての私も、その略奪者のひとりだった。だからこそ、私が姉さんを取り戻さなきゃならない。私は私に、姉さんから魂を奪わせることを許すつもりはない」

 卓上に沈黙が降りた。

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