第2章 帝都ホーミダル

17 ナザレ

 胸に鈍痛を感じた。目を開けると女の顔があった。短い髪に黒い目。

「……っ」

 女は小さく声を上げて後退した。

「ヨル……?」

「あいにく人違いだ」

 ネイは呻きながら身を起こす。「ナザレか……なんで生きてる……」

 胸以外にも全身のあちこちが軋むように痛んだ。倒れた時に打ったせいもあるだろうが、一度死んだのだ、こんなものかもしれなかった。

「それはこっちが聞きたいね」ナザレは不快な虫でも見るかのようだ。「シャダータングの毒を喰らって生きてる奴なんて見たことがない」

 そう言う彼女も無惨な有様で、飛行服は黒ずみ、髪には凝血と泥がこびりついている。他人の蘇生に口を出すのが烏滸がましいくらいには、ナザレの見た目は死体そのものだった。

 ネイは状況を整理しがてら、ナザレに説明をする。

「血清を体内に『錬金シンセシス』したんだ……亜竜の毒息ヴェノムには固有の解毒剤がある。でないと法院が制御できなくなるから……アイツの私以外は殺さないってのはそういうことだ。でも間に合わないから一度、心臓は止まる。……私の心停止を発動条件にした『軽雷ショック』で心臓に電流を流して、動くようにした……『賦活ヴィタル』」

「おい!」発動した魔術にナザレが飛び退く。

「良くなった。今のが攻撃だったら死んでたね」

 治癒魔術が奏功し調子が戻ってくる。すくなくとも、今のネイを見て生命活動がしばらく停止していた直後の人間だとは誰も思わないだろう。

「ふざけるなよ。お前が寝てる間に殺しても良かったんだ」

「寝てたんじゃなくて死んでたんだよ。死体を殺そうとするヤツはいないでしょ。それに、私が起きてからも殺す機会は沢山あったはずだ。だけど、アンタはそうしなかった。というか、したくてもできなかったんだ。違う?」

 ネイは周囲を見回した。本来なら主人のそばでこちらを警戒しているべき亜竜の姿はなかった。あの男が乗り手の死んだ亜竜を回収したのだろう。

 ナザレが黙り込んでいる間にネイは立ち上がる。

「ここは辺境――オロトエウスの支配域外だから、アンタは亜竜が居なければ魔術が使えない。どうもアンタは法院の熱心な信徒ではないみたいだし」

 竜や巨人のように生まれながらに魔術を操る者たち。あるいは自然から力を借りるアールヴやドヴェルグ。彼らと異なり、人間は魔術には向かない生き物だ。

 だからドラゴンの力を借りることにした。その由緒は遠く『人竜大戦』に遡り、初めて竜にまたがった彼ら〈騎手ライダー〉こそが、人間の中に生まれた最初の魔術師だ。

 大陸四国が国家であり、辺境領邦が辺境領邦でしかないのはそのためだ。竜を主君と仰ぐかぎり、臣下たちは領土において魔術を行使し、その恩恵のない辺境領邦に対して大きな優位を得られる。各国家の領土とは、言い換えればある竜の魔術的支配域なのだ。

 そのため彼らが辺境で魔術を使おうとすれば、ナザレのように亜竜から直接力を借りるか、信仰によって繋がった法院の竜を魔術の拠り所とするかの二通りしかなかった。

「一応、生き返らせようとしてくれたのは感謝してるよ。痛い思いはしたけどさ」

 ネイは胸をさすった。既に痛みはなくなっていたが、ナザレがネイの心臓を動かすために努力したことは最初から分かっていた。

「結局は自力で助かったようだがな」

 ネイは肩をすくめる。「どうして私を助けようと?」

「不愉快だがお前の言ったとおりだ。亜竜を失った私には魔術が使えない。だが、お前もルマンのことを知らないはずだ。だから私たちは協力できると思った。巫女を――お前がヨルと呼んでいる女だ――取り戻すためにな」

「それって協力を申し出る相手にする顔かな?」

 ナザレのひどい渋面にネイは苦言を呈する。ずいぶん嫌われているようだが、そんな相手の救命を試みるほどには追い詰められた状況なのだろう。ナザレの申し出は本意からと信じてよさそうだった。その上でネイは尋ねる。

「アンタはなぜヨルを追いかけてる?」

「協力のために私の事情が必要とは思わないね」

「黙秘か。それはアンタが『敬虔』だってこと?」

 あの男の「裏切り者の兵士」という言葉からの推測だが、ナザレは表情を変えなかった。

「でもそれだけじゃない、と」

「――返事は?」

 ナザレはそうはぐらかしたが、実質的には肯定だった。

 だがネイにとっての問題はその先にある。そもそもあの男はナザレの行動の何を「裏切り」と呼び、殺しまでしたのか。その如何によっては、ヨルに追いついた時、ナザレとふたたび対立することになる。その時自分は勝てるのだろうか。ナザレはこれまで二回も死ななかった。まだこちらの知らない手札があると考えるべきだった。

 もっと重要な問いもあった。

 ――自分はヨルを追いかけたいと思っているのか?

 最後のやり取りを思い出す。タニシャを『呪い憑き』と切って捨てた言葉。記憶に抜けがあるにせよ、以前の言動と〈大地母竜〉という立場からして、彼女が法院の信徒でないのは確実だ。だからあの言葉は信仰ではなく、彼女の本心だったはずだ。

 魂だけになって器を乗り継ぎ、千年を生きてきた竜は、世界を見る視点も、世界を測る尺度も、どうしたって人間とは違うのだ。そう思うと頭の中がまたごちゃごちゃしてきて、ネイはいちばん容易い選択をした。

「わかった。アンタの目的に協力するよ」

 ナザレは探るような目をこちらに向けた。しかしすぐに興味を失ったか、「……ならいい」と無愛想に言った。

「追うために足が必要だ。お前は当てがあるか?」

「そうだね……」ネイはすこし考える。「村まで戻ってザイルに聞いてみよう」

「あの司祭か。信用はできるのか?」

「アンタよりは。多分ね」

 ナザレは舌打ちする。「減らず口が」

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