16 別れと死
森から駆け出てきたのはザイルだった。
「きっと……ここに、いると……」
白髪交じりの髪を乱し、司祭服に焦げ跡をつけたザイルが息を切らして立っていた。その目は一度、崩れた崖の上に立つワイバーンに移り、すぐにタニシャに戻った。
「司祭さま」
「逃げろ」
「どういうことですか」
村から走り通しだったのだろう。ザイルは二の句が継げなかった。
タニシャが駆け寄って彼の身体を支えた。
「落ち着いてください。村で何が?」
ネイはぼんやりとその様子を眺めた。
頭の中がごちゃごちゃした。
自分がヨルを殴ったことが信じられなかった。自分が自制を失ったことに驚いた。自制を失わせるほどの何かが自分の中にあることに不安を感じた。その何かがなんであるのか分からないのが不快だった。自分が感じているものが理解できずに怖かった。
そう……まるで自分が傷つけられたような気がしたのだ。ヨルの頬を通して、自分で自分を打ちのめしたみたいに。
これはなんだ。
「法院の兵士が来た」
「それって……」
「異端狩りだ」
ザイルは荒い息で絞り出すように言った。
「おい、司祭! 兵士の中に飛竜乗りはいたか?」
彼の言葉に最初に反応したのはタニシャではなかった。大声で詰問するナザレに、ザイルは戸惑いと不審を綯い交ぜにした表情を向ける。
「いいから言え! 鱗の色は。乗り手は男か、女か。見た目は!」
怒声に眉をひそめながらザイルは答える。
「……緑、男だ。ホーミダル人」
ナザレは聞くに堪えない悪態をついた。
「お前ら全員ここから逃げろ。今すぐだ。殺されるぞ!」
先ほどまでこちらを殺そうとしていた者とは思えない言葉を吐くと、「トロットリード!」彼女は亜竜の腹を蹴立てた。ワイバーンは跳ねるように身を起こし、ほとんど垂直に空中に飛び上がった。頭上で身体をひねり、村の方へと飛び去った。
ナザレの行動は支離滅裂だった。ヨルを襲った彼女が法院から逃げるのはわかるが、揃って異端者のタニシャやネイはともかく、ヨルやザイルにここから逃げる理由があるわけもない。かといって、ヨルを見逃してまで異端者二人を庇う理由が彼女にあるとも思えなかった。
ネイが困惑する横で、タニシャが小さく言った。
「気づいていたんですね。わたしが『呪い憑き』だって……」
ネイは
「タニシャ……」
ザイルが呻くように言った。それが答えになった。
『呪い憑き』として目覚めたばかりのタニシャからは魔気が漏れ出している。これほど明瞭でなくとも、共に暮らすザイルにはその異質な魔気に気づく機会があっただろう。
そしてそれを押さえ込もうとした。
ネイが感じた違和感。タニシャからはかすかながら魔術の気配がしていたのだ。おそらくは『呪い憑き』としての覚醒を遅らせるため、ザイルが施した魔術がその正体だった。
「ザイル。タニシャのことは私たちに任せてくれ」
「あなたたちが?」
「うん。ヨルは法院の人間だ。ヨルが出れば一時的にもあちらは引き下がるはず」
ヨルは法院の秘蔵たる〈大地母竜〉の巫女だ。彼女が大法院への案内を頼めば、法院の兵士が断れるはずがない――そこまで考えてネイははっとした。庵から大法院までは長く見ても馬で五日ほど。そして庵を出発したのが十日前だ。当然今頃、法院は失踪した〈大地母竜〉の巫女を血眼になって探しているはずだった。
では、捜索のために法院が駆り出すのは誰か?
当然、最も信頼ができて優秀な兵士たちだ。機動力があるならなお良いはずだ。
「ねえ、ザイル。アンタは、どうやって兵士たちが異端狩りだと判断した?」
「それは……さっき言ったワイバーン乗りが、『敬虔』の紋章をつけていたからだ」
「それで誰かを探していた。だから、ソイツらが自分から『タニシャを探しに来た』と言ったわけじゃないんだ。違う?」
タニシャがヨルのほうを見た。
「ザイル、アンタは勘違いしたんだと思う。連中が探しに来たのはタニシャじゃなくてヨルなんだ。だってそうでしょ。『呪い憑き』として目覚めていなかったタニシャに、どうやって法院の連中が気づけるの?」
顎に手を当ててザイルはネイの言葉を咀嚼する。
「そう思えば奴らの動きはおかしかった。最初からタニシャが『呪い憑き』だと分かっていたなら、村で聞いて回るなんてことはせず、こちらに直行したはずか……」
理解が染み込むのを待って、ネイはザイルに詰め寄る。
「タニシャは私が責任を持って逃がすよ。だから後のことは頼んだ」
司祭はうろたえながらも頷いた。
「ヨル。アンタとはここでお別れだ」
ネイはヨルを見た。ザイルが割って入ってから初めて、彼女と目を合わせた。
「そういうことになるじゃろうな」
答えるヨルの声は、やけに平坦に響いた。見返すまなざしにも感情が欠ける。これまで見たことのない無感動な彼女の様子に、ネイはなぜだかひどく苛立ちを覚えた。
「これでアンタの目的は叶うんだ。ついでにタニシャも処刑から逃れられる――まあ、それはアンタにはどうでもいいんだろうけど。もっと喜んだらいいじゃないか」
「そうじゃな」
ヨルは笑みを作る。感情の欠落した微笑。
「うまく笑えておるか? どうも、ぬしに張られた頬が痛くての」
そう言って頬をさする。
「この……っ!」
「ネイさん!」
怒りに一歩踏み出したところでタニシャが叫んだ。二人の間に割って入る。
ヨルの顔にかすかに興味深そうな表情が浮かぶ。
「やめてください。わたしのために、ここでお二人が別れる必要はありません。お二人は最初の目的を果たしてください」
「何言ってるんだ。私たちのことはいいんだ」
ネイは戸惑う。戸惑いながらも言い募る。
「元々、大法院に用があるのはヨルだけなんだ。大丈夫、私ならタニシャを逃がしてやれる。大丈夫だ。『呪い憑き』の力を制御する方法だって必ずあるはずだ」
「ネイさん」
「まずは辺境でアールヴの集落に行こう。心配しなくても私に当てがある。『呪い憑き』の本を書いた研究者がいるんだ。そうしたら、ほら、リッツガドルにも行ける。雪だ。見たいって言ってたでしょ。〈北鎮祭〉も。今年は間に合わなくても来年だってある。その次だってある。生きてたらいつまでだって機会が来る。楽しみになってきたでしょ」
「ネイさん」
タニシャの声にはたしなめるような響きがある。
ネイが混乱しながらザイルを見ると、彼は静かに首を振った。
「なんだよ……ザイルまで。私がおかしなことでも言ってるみたいに」
「ぬし。それくらいにしておけ」
「アンタは……っ!」
「ネイさん」
タニシャに肩を掴まれる。躱すのもはね除けるのもたやすかったが、ネイはそうしなかった。されるがままふり向かされると、ごつん、とタニシャが身体を預けてきた。胸にタニシャの頭の重みを感じた。服がぎゅっと握りしめられる。
「わたしも行きます。ネイさん。大法院に行きましょう。わたしたち三人で」
ネイは息を飲む。
「……自分が言ってる意味、わかってるの」
「わかっています」
法院の大敵である『呪い憑き』が大法院の扉をくぐる。
そこに待っている結末は一つだ。
「どうしてなのか聞かせて」
「わたしは、わたしが信じるものを最後まで信じたい」
そんなことで、と切り捨てられなかった。目の前のタニシャの手が震えていたからだ。
彼女はたぶん恐怖と戦っていた。今だけではない。『呪い憑き』として目覚めてからの間、ずっとそうだったのだ。それは死の恐怖であり、それ以上に、自分が自分の信じるものにとって最も憎むべき存在であるという恐怖だ。
「やっぱり、私はアンタとは違うんだな……」
告げながら感じた痛みの正体が、自分を苛むものが何であるのか、ネイには分からなかった。分からないものばかりだった。次から次へとやってくるどれもこれもが、ネイにはあまりに難しすぎた。溺れた時のように息が苦しくなった。
「いいんです。願いはひとつ、叶いますから」
いつか彼女が行きたかった場所。大それた夢。
「わかった」重い扉を閉めるようだった。「じゃあ、私たちと行こう」
「はい」
どさ、と湿った音がした。
ネイの目は音のしたほうを何気なく追い、
そこには人体が落ちていた。
赤黒く染まったそれは一見して死体とわかった。血は放射状に飛び散り、それが空から落ちてきたことと、そのだいたいの高さを教えた。およそ六メートル。その高さから落ちただけで人体がこれほど損壊することはないから、落ちる前から既に死体だったと分かる。
同じくそれを見たタニシャの悲鳴をぼんやりと聞きながら、死体の格好から、ネイはそれが誰であるかを悟った。
革の飛行服――ナザレだ。
しかしネイにとって最も不可解なのはナザレの死体ではなく。
どうしてコイツに気づかなかったのか。
「お取り込み中に失敬」
声が頭上から降ってくる。
およそ、六メートル。ちょうどその位置に、濃緑の竜と、その背にまたがる男がある。
「逃げ出した巫女に村の司祭殿。裏切った兵士――の死体。それになんと『呪い憑き』と来たか。これはなかなか変わった顔ぶれだけど、悪くない。まったくもって悪くないよ」
男と目が合った。
「……後は……そうだね。誰だい、キミは?」
ネイは腰の得物に手をかける。
「シャダータング」
突然、全身が重くなった。舌は口蓋に貼り付いたかのようで、視線の移動すらじれったい。指一本を動かすのに満身の力が要る。限られた視野と聴覚でネイは男と亜竜を観察した。
男。二十代前半のホーミダル人。『敬虔』の紋章をつけた法院の飛行服を身につけており、声には貴族ふうの響き。ザイルから聞いてナザレが色を変えた相手に違いなかった。
「自己紹介が遅れたね。俺はルマン。ザルエリ家のルマンだ」
却下――使えない情報。
亜竜。二肢二翼のワイバーン、いや、竜角がない。
ワイバーンの属――不明。だが知りたいのはワームのほう。
「効くだろ。
アハハ、と男は笑った。その声がひどく歪み、耳の中で反響する。
眼筋にも毒が回ったのか、視線も動かせなくなってきた。視界が泥に沈むみたいに黒ずんでいく。その泥の中にザイルが倒れる。ヨルも青白い顔でひざまずいている。『呪い憑き』のタニシャだけには
その光景すら遠くなる。呼吸筋が止まったらしく、少し前から息もできていない。世界がまるごと闇の中に退いていく。自分の体の形をした棺桶に入れられたようだ。
だがそれでも、ネイの中にはいかなる病毒にも冒されない場所がある。
ダミデウスの庵だ。懐かしい我が家に足を踏み入れると、天井まである書架の前に立ち、一冊の本を取り出した。師から受け継がれたぶ厚い書籍のページをめくった。そこから目の前の亜竜にもっとも近しいものを探していく。目を動かす。
これではない。棚に戻す。次を抜き出す。それもめくる。これでもない。
違う。これでもない……
――見つけた!
その瞬間、ネイの心臓は止まった。
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