14 罠
池の上空に現れたワイバーンは、その場で十秒ほどホバリングした後、垂直に降下してきた。
「なるほど。池を獲る気だ」
「どういうことですか?」
「見た方が早いよ」
二人の視線の先で亜竜は降下しながら器用に翼を動かし、その場で身体を旋回させ始めた
シゥ――
蛇のうなり。白熱した
「炎で逃げ道を塞いで、池で待ち受けるつもりなんですね」
「タニシャはセンスがある」
いえ、と照れるタニシャ。
前回の遭遇での再攻撃はもっと早かったのを考えると、この作戦の考案と
「悪くない手だけどミスがある」
「時間がかかりすぎたことですか?」
「それもあるし、
現実には地形もあり簡単にはいかなかっただろうが、判断ミスには違いない。
「この辺り全部を丸裸にするなら別だけど、それには〈大棘〉属では火力が足りない」
やがて亜竜は
燃える森の中心に陣取り、こちらが燻り出されるのを待つ体勢だ。
乗り手は前回と同じく
その様子をネイとタニシャは見下ろしていた。二人が潜む木陰は、ドラゴンの遺骸が埋まった崖の上だ。ここからだと射線も通らず、一方的に動きを観察できた。無差別に
「でも、本当に大丈夫なんでしょうか。ヨルさんを一人にして」
「問題ないよ。アイツは、ヨルに攻撃を当てないようにしてる。殺す気がないんだ」
「さっきは聞けませんでしたが、どうしてそうわかるんですか」
「あの倒木」ネイは池の反対側を示した。「ヨルの座っていた側だけ残ってるでしょ。私たち三人全員を殺すならもっと広範囲を焼けばいいのに、わざわざ
「そう言われると、たしかに不自然に見えますね」
一回目の襲撃からしてそうだった。ワイバーンの
「だから、ヤツは罠にかかる」
二人の見つめる先で、森からヨルが進み出てきた。両手を交差させて無抵抗を示しているが、いつもながら過剰に堂々とした態度で、挑発にしか見えなかった。
「本当ですね。攻撃する気がないみたい」
ヨルが現れても動かない亜竜を見て、タニシャがつぶやく。
「いたいけな娘になんの用じゃな。おぬしのお陰で一張羅が青くなってしもうたぞ」
「あの女はどこに行った?」
池の水で青く染まった服を示したヨルが話しかけると、思いがけず乗り手から返答があった。一張羅と言うがそれはタニシャの服である。タニシャが驚いたようにささやく。
「女の人です」
布でくぐもってはいるものの、ワイバーンの乗り手の声は若い女のものだった。
「腕力があまり関係ないから、竜兵にはそこそこいるよ」
乗り手自身も戦闘に加わりやすい騎竜はともかく、竜自身が強力で乗り手が戦闘に介入する余地のほとんどない飛竜においては、女の竜兵は世間が思っているよりも多い。亜竜から魔力供給を受ける竜兵の多くが魔術の使い手であり、肉体的な差異が戦闘力に大きく影響しにくいためでもある。
「逃げた、アー。逃げたようじゃなあ」
ヨルは相変わらず嘘が下手だった。
「囮だな」
乗り手は鼻を鳴らし、
「トロットリード」
ワイバーンの首がぐるりと崖をふり返った。亜竜の眼が捉えた先にはタニシャ。
即座に
〈大棘〉は
シゥ――
二秒で到達する絶息の炎。
「けど、それでも足りない」
その二秒間でネイの仕掛けた罠が作動する。
『空気は魔素の絶縁体だ。だから魔術を発動させるためには体内の魔素を魔力に変換しなければならない。俺たちが蛇のうなりと呼んでいるのはその変換工程で火袋から出る音だ。そいつが鳴っている間、竜は無防備になる』
つまるところ、正しく言うならば、罠とは二秒間の空白そのものだ。
「クソッ」
ワイバーンに遅れてふり返った乗り手の悪態はそれを理解していたゆえだ。
最初の奇襲で
二秒間の空白に動いたのはヨルだった。意識がタニシャに向いている間に懐から取り出した
ランビヤックの金鎖
古代ドヴェルグの名工が王のために作った狩猟具は、めぐりめぐって〈殺竜〉ダミデウスの「狩り道具」のひとつになった。持ち手の意志に従って自在に伸びる不壊の鎖に括られれば、どのような飛竜も逃げ出すことができない。
再度乗り手が悪態をつくと同時、タニシャに
彼女が帯びた『呪い』は
ネイは木陰から出て、タニシャの隣に並んだ。
「そのワイバーン、もう魔素切れでしょ。それじゃ飛ぶことだってできない。投降してくれるなら痛めつける気はないよ。どうする?」
「片翼を縛ったぐらいでのぼせ上がるなッ。トロットリード!」
乗り手は吠え、亜竜を崖に向かって突進させた。亜竜は肩口から崖に体当たりし、ネイとタニシャの足元を激しく揺さぶった。張り出した岩がガラガラと池に落ちるが、二人の足場を崩せるほどではなかった。木に結ばれた金鎖によって、牙も崖の上までは届かない。
こちらを睨む乗り手を見下ろしながら、ネイは短く唱える。
「『
亜竜の背中が跳ねた。全身の筋肉が強制的に収縮し、ワイバーンの身体を引きつらせる。
「クソ……がっ」乗り手も亜竜の背で苦悶の声を上げた。
雷撃だった。『
「だから言ったのに」
こちらの発言をブラフと思ったか、単に考えなしなのか。
「……なぜだ」
「質問が曖昧でよくないな。私も師匠によく怒られた。私がドヴェルグ系統以外も習得しているとは思わなかった? まあ、竜兵だとドラゴン系統しか知らなかったりするかな」
「どうやって、ここまで当てた……」
「あ、そっちか。諦めて投降してくれるなら教えてもいいけどな」
乗り手の答えは沈黙だった。肩をすくめ、ネイは手のひらを相手に向けて振って見せた。
ネイの中指に嵌められた金環には、細い金鎖がどこまでも繋がっている。
空気は魔素の絶縁体であり、電流の絶縁体でもある。だから離れた相手に雷撃を当てるためには、魔素を魔力に変換し、それによって雷という自然現象を引き起こす必要がある。つまるところ『
しかし、金鎖が二者を直接繋いでいるなら話は別だ。金鎖
「なるほど。そういう仕掛けか」
乗り手がつぶやくと同時、亜竜が首をもたげた。その口には白い骨が咥えられている。
「ぐう……ッ!」
乗り手が電撃に呻く。『
骨はかみ砕かれた。あふれ出した魔力は火袋を介さず、亜竜の喉でほとんど即座に
今の
修正された動きは――
「タニシャ!」
ネイが叫ぶと同時、縛めを融かしたワイバーンが飛翔した。青い水を全身から振りまきながら、宙に躍り上がる。ふり向いたタニシャがこちらに走った。ワイバーンが空中で身体をひねる。
走るタニシャ。風切音と共に亜竜が縦に回転する。
間に合わない――
ネイは地面に手をつくと叫んだ。
「『
タニシャの背後に土壁がせり上がり、莫大な遠心力を溜め込んだ尾が、轟音と共にそこに叩きつけられた。足元がぐらつく衝撃と立ちこめる土煙の中、ネイはタニシャに駆け寄った。
「大丈夫?」
「はい。なんとか……」
半ドーム状の『
「すぐに次が来る」
ネイがタニシャの手を取ったと同時、風が土煙を吹き飛ばした。ワイバーンの羽ばたき。こちらを発見すると、亜竜は即座に姿勢を変えて飛び込んでくる。胸は
ずず、と震動が響いた。突然の浮遊感に声を上げる間もなく崖が崩れはじめる。
「離れないで――」
ネイはタニシャの身体を引き寄せ、傾いでいく足場を駆けのぼった。間に合うわけはなかったが、このままでは土砂の下敷きになる。二歩、三歩。そこまで地を蹴ったところで、抗えずに滑り落ちる。青空が視界を埋めた。逆光の中、急制動をかけるワイバーンの姿がいやにゆっくり動いて見えた。直後、激しい衝撃が背中を叩いた。
ほんの一瞬意識を失ったが、腕の中のタニシャに起こされた。赤毛が顔の周りでたゆたっている。彼女は仕草だけで岸と思われるほうを示した。ネイは頷く。
土砂で黒く濁った水中を、ネイはタニシャと並んで必死に泳いだ。この濁りなら上空からも位置がわからないはずだった。二人を追いかけるように次々と沈んでくる岩塊――ひとつでも当たれば終わりだ――その合間を縫うように泳ぎ、岸を目指す。
胸の奥が圧し潰され、四肢の筋肉が灼けるように熱くなる。落下の衝撃で、ネイの肺にはほとんど息が残っていなかった。体が鉛のようだった。かきわける水がどんどん重くなる。
苦しい。苦しい。頭が白む――
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