14 罠

 池の上空に現れたワイバーンは、その場で十秒ほどホバリングした後、垂直に降下してきた。

「なるほど。池を獲る気だ」

「どういうことですか?」

「見た方が早いよ」

 二人の視線の先で亜竜は降下しながら器用に翼を動かし、その場で身体を旋回させ始めた

 シゥ――

 蛇のうなり。白熱した息吹ブレスが亜竜の旋回に合わせて森の木立を舐める。池を中心としたおおよそ直径四百メートル程度が炎の壁によって囲われた。

「炎で逃げ道を塞いで、池で待ち受けるつもりなんですね」

「タニシャはセンスがある」

 いえ、と照れるタニシャ。

 前回の遭遇での再攻撃はもっと早かったのを考えると、この作戦の考案と再充填リロード自体に時間を使ったのだろう。亜竜の息吹ブレスは一般に、火袋と呼ばれる臓器に集めた魔素を魔術に変換することで成立する。そのため、再充填リロードの時間は威力や放出時間に比例して長くなる。

「悪くない手だけどミスがある」

「時間がかかりすぎたことですか?」

「それもあるし、息吹ブレス再充填リロードの間も私たちの様子を見ているべきだった。あの炎までなら、走って逃げていれば十分間に合う距離だ」

 現実には地形もあり簡単にはいかなかっただろうが、判断ミスには違いない。

「この辺り全部を丸裸にするなら別だけど、それには〈大棘〉属では火力が足りない」

 息吹ブレスに特化した属ならともかく、これほど密生した木々を広く焼き払うのは、いかに亜竜の最大の武器といえど難しい。「燃焼」を押しつける魔術といっても、燃えないものは燃やせないし、燃えにくいものは燃やしにくい。それなりの大きさの生木となれば簡単にはいかない。

 やがて亜竜は息吹ブレスを終えて池に降下する。水しぶきが上がり、岸には青い水が押し寄せた。

 燃える森の中心に陣取り、こちらが燻り出されるのを待つ体勢だ。

 乗り手は前回と同じく竜鱗りゅうりんを急所に貼った飛行服という、竜兵としては平凡な格好だ。特筆するなら、兜とゴーグルの下に布を巻いて覆面していることくらい。所属を示す物を身につけていないことからも、素性を隠したがっているのがわかる。

 その様子をネイとタニシャは見下ろしていた。二人が潜む木陰は、ドラゴンの遺骸が埋まった崖の上だ。ここからだと射線も通らず、一方的に動きを観察できた。無差別に息吹ブレスを放たれれば危険だろうが、ネイには敵がそうしないことに確信があった。

「でも、本当に大丈夫なんでしょうか。ヨルさんを一人にして」

「問題ないよ。アイツは、ヨルに攻撃を当てないようにしてる。殺す気がないんだ」

「さっきは聞けませんでしたが、どうしてそうわかるんですか」

「あの倒木」ネイは池の反対側を示した。「ヨルの座っていた側だけ残ってるでしょ。私たち三人全員を殺すならもっと広範囲を焼けばいいのに、わざわざ息吹ブレスを絞った――つまり、ヨルに当てないようにしたってことだ」

「そう言われると、たしかに不自然に見えますね」

 一回目の襲撃からしてそうだった。ワイバーンの息吹ブレスは庵の上部だけを焼いた。あの高さは、小柄なヨルを避けるためではなかったか。尾を攻撃に使わなかったのも、ヨルに当てないためだったとしたら。そもそも、殺すだけならヨルが庵に逃げてくる前に息吹ブレスを使ったはずだ。

「だから、ヤツは罠にかかる」

 二人の見つめる先で、森からヨルが進み出てきた。両手を交差させて無抵抗を示しているが、いつもながら過剰に堂々とした態度で、挑発にしか見えなかった。

「本当ですね。攻撃する気がないみたい」

 ヨルが現れても動かない亜竜を見て、タニシャがつぶやく。

「いたいけな娘になんの用じゃな。おぬしのお陰で一張羅が青くなってしもうたぞ」

「あの女はどこに行った?」

 池の水で青く染まった服を示したヨルが話しかけると、思いがけず乗り手から返答があった。一張羅と言うがそれはタニシャの服である。タニシャが驚いたようにささやく。

「女の人です」

 布でくぐもってはいるものの、ワイバーンの乗り手の声は若い女のものだった。

「腕力があまり関係ないから、竜兵にはそこそこいるよ」

 乗り手自身も戦闘に加わりやすい騎竜はともかく、竜自身が強力で乗り手が戦闘に介入する余地のほとんどない飛竜においては、女の竜兵は世間が思っているよりも多い。亜竜から魔力供給を受ける竜兵の多くが魔術の使い手であり、肉体的な差異が戦闘力に大きく影響しにくいためでもある。

「逃げた、アー。逃げたようじゃなあ」

 ヨルは相変わらず嘘が下手だった。

「囮だな」

 乗り手は鼻を鳴らし、

「トロットリード」

 ワイバーンの首がぐるりと崖をふり返った。亜竜の眼が捉えた先にはタニシャ。

 即座に息吹ブレスの準備に入る亜竜を見て、ネイは感嘆を覚える。

〈大棘〉は息吹ブレスの連発が利かない。辺り一円を焼くほどの息吹ブレスではなおさら再充填リロードに時間が要る。そう読まれると見越した上で、再攻撃までの長い時間はこの一発の余力を残すため。

 シゥ――

 二秒で到達する絶息の炎。

「けど、それでも足りない」

 その二秒間でネイの仕掛けた罠が作動する。

 息吹ブレスは魔術だ。だから「蛇のうなり」とは亜竜の「息」ではない。

『空気は魔素の絶縁体だ。だから魔術を発動させるためには体内の魔素を魔力に変換しなければならない。俺たちが蛇のうなりと呼んでいるのはその変換工程で火袋から出る音だ。そいつが鳴っている間、竜は無防備になる』

 つまるところ、正しく言うならば、罠とは二秒間の空白そのものだ。

「クソッ」

 ワイバーンに遅れてふり返った乗り手の悪態はそれを理解していたゆえだ。

 最初の奇襲で息吹ブレスが直撃したはずのタニシャが生きて射線にいる。つまりタニシャには息吹ブレスが通用せず、この一発が空撃ちになるとわかったのだ。『呪い憑き』と対峙した経験のある『敬虔』ならではの俊敏な反応だった。

 二秒間の空白に動いたのはヨルだった。意識がタニシャに向いている間に懐から取り出したかぎを投擲する。根元に細い金の鎖がつながったそれは、ネイが事前に渡していたものだ。鎖はどこまでも伸び続け、空中に金色の軌跡を描く。乗り手が気づいて翼をはばたかせた時には、鎖は片翼の付け根に何重にも絡まっていた。

 ランビヤックの金鎖かぎ

 古代ドヴェルグの名工が王のために作った狩猟具は、めぐりめぐって〈殺竜〉ダミデウスの「狩り道具」のひとつになった。持ち手の意志に従って自在に伸びる不壊の鎖に括られれば、どのような飛竜も逃げ出すことができない。

 再度乗り手が悪態をつくと同時、タニシャに息吹ブレスが直撃する。魔力の足りない息吹ブレスはすぐに尻切れとなり、後に残ったのは、焼け焦げた木々を背に平然と立つタニシャの姿だった。

 彼女が帯びた『呪い』は息吹ブレスがもたらす余波すら完全に防いでいた。『人竜大戦』後に大陸じゅうに広まったドラゴン系統と違い、巨人たちのヨトゥン系統魔術は失われて久しい。それを裏付けるように、タニシャが放っている魔気は他系統とは異質なものだ。

 ネイは木陰から出て、タニシャの隣に並んだ。

「そのワイバーン、もう魔素切れでしょ。それじゃ飛ぶことだってできない。投降してくれるなら痛めつける気はないよ。どうする?」

「片翼を縛ったぐらいでのぼせ上がるなッ。トロットリード!」

 乗り手は吠え、亜竜を崖に向かって突進させた。亜竜は肩口から崖に体当たりし、ネイとタニシャの足元を激しく揺さぶった。張り出した岩がガラガラと池に落ちるが、二人の足場を崩せるほどではなかった。木に結ばれた金鎖によって、牙も崖の上までは届かない。

 こちらを睨む乗り手を見下ろしながら、ネイは短く唱える。

「『軽雷ショック』」

 亜竜の背中が跳ねた。全身の筋肉が強制的に収縮し、ワイバーンの身体を引きつらせる。

「クソ……がっ」乗り手も亜竜の背で苦悶の声を上げた。

 雷撃だった。『軽雷ショック』は自然現象を模倣するアールヴ系統の高位魔術で、腰まで水に浸かった上でのそれは、小規模であっても激烈な効果を与えた。

「だから言ったのに」

 こちらの発言をブラフと思ったか、単に考えなしなのか。

「……なぜだ」

「質問が曖昧でよくないな。私も師匠によく怒られた。私がドヴェルグ系統以外も習得しているとは思わなかった? まあ、竜兵だとドラゴン系統しか知らなかったりするかな」

「どうやって、ここまで当てた……」

「あ、そっちか。諦めて投降してくれるなら教えてもいいけどな」

 乗り手の答えは沈黙だった。肩をすくめ、ネイは手のひらを相手に向けて振って見せた。

 ネイの中指に嵌められた金環には、細い金鎖がどこまでも繋がっている。

 空気は魔素の絶縁体であり、電流の絶縁体でもある。だから離れた相手に雷撃を当てるためには、魔素を魔力に変換し、それによって雷という自然現象を引き起こす必要がある。つまるところ『軽雷ショック』は敵が遠ければ遠いほど顕著に威力が落ちてしまう。

 しかし、金鎖が二者を直接繋いでいるなら話は別だ。金鎖かぎの使い手はあくまでネイで、ヨルに渡していたのは延長された鎖の先のかぎにすぎない。金鎖が『軽雷ショック』による電流を亜竜と、ついでに池の水まで伝導したというわけだ。

「なるほど。そういう仕掛けか」

 乗り手がつぶやくと同時、亜竜が首をもたげた。その口には白い骨が咥えられている。

 竜遺物レムナント――さっきのはそれが狙いか!

「ぐう……ッ!」

 乗り手が電撃に呻く。『軽雷ショック』で阻止しようとしたが、一歩間に合わなかった。

 骨はかみ砕かれた。あふれ出した魔力は火袋を介さず、亜竜の喉でほとんど即座に息吹ブレスに変換される。ネイが崖の縁から飛びすさったのと同時、業火が吹き抜けた。しかしそれはネイが予測した方向ではなく、ワイバーン自身の片翼に向けられていた。

 今の息吹ブレスは攻撃のためではない。片足で着地しながらネイは予測を修正する。

 修正された動きは――

「タニシャ!」

 ネイが叫ぶと同時、縛めを融かしたワイバーンが飛翔した。青い水を全身から振りまきながら、宙に躍り上がる。ふり向いたタニシャがこちらに走った。ワイバーンが空中で身体をひねる。尾棘びきょくが大きな弧を描く。

 走るタニシャ。風切音と共に亜竜が縦に回転する。

 間に合わない――

 ネイは地面に手をつくと叫んだ。

「『築泥ウォール』――!」

 タニシャの背後に土壁がせり上がり、莫大な遠心力を溜め込んだ尾が、轟音と共にそこに叩きつけられた。足元がぐらつく衝撃と立ちこめる土煙の中、ネイはタニシャに駆け寄った。

「大丈夫?」

「はい。なんとか……」

 半ドーム状の『築泥ウォール』は、ワイバーンの尾棘びきょくによってえぐり取られながらも、うずくまるタニシャをかろうじて守っていた。

「すぐに次が来る」

 ネイがタニシャの手を取ったと同時、風が土煙を吹き飛ばした。ワイバーンの羽ばたき。こちらを発見すると、亜竜は即座に姿勢を変えて飛び込んでくる。胸は息吹ブレスを溜めて微光している。庵の時と同じ轍は踏まないだろう。

 ずず、と震動が響いた。突然の浮遊感に声を上げる間もなく崖が崩れはじめる。

「離れないで――」

 ネイはタニシャの身体を引き寄せ、傾いでいく足場を駆けのぼった。間に合うわけはなかったが、このままでは土砂の下敷きになる。二歩、三歩。そこまで地を蹴ったところで、抗えずに滑り落ちる。青空が視界を埋めた。逆光の中、急制動をかけるワイバーンの姿がいやにゆっくり動いて見えた。直後、激しい衝撃が背中を叩いた。

 ほんの一瞬意識を失ったが、腕の中のタニシャに起こされた。赤毛が顔の周りでたゆたっている。彼女は仕草だけで岸と思われるほうを示した。ネイは頷く。

 土砂で黒く濁った水中を、ネイはタニシャと並んで必死に泳いだ。この濁りなら上空からも位置がわからないはずだった。二人を追いかけるように次々と沈んでくる岩塊――ひとつでも当たれば終わりだ――その合間を縫うように泳ぎ、岸を目指す。

 胸の奥が圧し潰され、四肢の筋肉が灼けるように熱くなる。落下の衝撃で、ネイの肺にはほとんど息が残っていなかった。体が鉛のようだった。かきわける水がどんどん重くなる。

 苦しい。苦しい。頭が白む――

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