13 夢、祈り、その終わり
ネイの内心など知るはずもないタニシャが、いいなあ、とこぼした。
「その後はどこに行かれるんですか? リウグノッグはホーミダルから近いから、きっとすぐに行けますね。オリゼビアには『海』があって、魚も川のとはぜんぜん違うんだって聞きました。いつか食べてみたいな」
「ワシもおぬしの魚料理を食べてみたいのう」
ネイの相づちに、タニシャは微笑む。
「ふふ、ありがとうございます」
それから口元の微笑は静かに冷めていき、目は遠くを見るように細められる。
「それに、やっぱり聖地を訪ねてみたいです。リッツガドル――リッツガドルには雪が降るんですよ。雪って知っていますか? 氷みたいに冷たくて、でも綿みたいに柔らかいんだって。それに〈北鎮祭〉――今年はあと四日ですね。……いつか、いつか行ってみたいなあ……」
タニシャは夢見るように口ずさんだ。夢が夢であると知っている者のまなざしが、ここではないどこかに向けられていた。ホーミダルの帝都か、リッツガドルの聖王都か、あるいはもっと、ずっと遠いどこかへと。
だから、
「私たちと行こうか」
ネイは思わずそう口にしていた。ヨルの咎める視線を感じる。
「いえ。わたしは行けません。司祭さまを裏切ることになってしまうから」
そうやって悲しげに笑うタニシャを見てネイは気づいた。
「タニシャ、もしかしてアンタ」
ザイルのことも、全部わかってて……
言葉が形になる前に、
シゥ――――――
気を抜いていた。不覚だった。だから間に合わなかった。
リミットは二秒。だから一人しか間に合わなかった。ネイは隣の女の腰を抱えて走った。
黒い影が差しかかる。
来る――!
頭から飛び込んだ。深く、もっと深く。水面を必死で蹴る。ぶ厚い水の壁を通して、飛び散ったしぶきが蒸発する音が聞こえた。炎に炙られた池の水が沸き立ち、水面ぎりぎりを巨体が飛翔する轟音を聞いた。後足の鉤爪が
けれど、タニシャの悲鳴は聞こえなかった。夢も、感傷も、祈りの有無も問わずに、竜の炎は触れるものを焼き尽くす。自らを崇める者にもそれはけして容赦をしなかった。
ヨルを抱えたまま水面を破ると、ネイは竜が通り過ぎた方向を見た。
ぐるりと空を見回しても影は見当たらない。おそらく森の梢の向こう、こちらから死角となる位置で
鼻と口からゲホゲホ水を噴き出すヨルを引きずって岸まで上がった。
「おい、立って――」
頬を叩きながら周囲に目を巡らせ、
「……っ」
絶句した。
焦げた地面にタニシャが倒れていた。
あり得なかった。ワイバーンの放つ
なのに――
あまりのことに棒立ちになったあと、ネイは彼女のそばに駆け寄った。息があるのを確認し、安堵と困惑を同時に覚える。横たわるタニシャの身体には熱傷ひとつさえなかった。
「無事じゃったか」
「アンタも」
頭を押さえながらヨルがやってきた。獣のように身体を振って辺りに水を飛び散らかす。
「やれやれ。挨拶もなしとは、やはり失礼な輩じゃ」
「アイツも初対面で人ん家のドアを叩き壊すヤツに言われたくないでしょ」
「二回目なら良いのか?」
「良いわけないだろ」
「……これはどういうことじゃ」
タニシャのことだった。ネイは「私が聞きたい」と言いかけてやめる。すでに大方の予想がついていたからだ。しかし、ため息が漏れるのは抑えきれない。
「……たぶん、タニシャは『呪い憑き』だ」
「その『呪い憑き』とやら、司祭とも話しておったが、何なんじゃ?」
「『呪い憑き』を知らないって?」
ネイは眉を寄せた。記憶こそ失ってはいるが、ヨルは一般常識を失ったわけではない。もちろん非常識な女なのは間違いないが、法院の虎の子である〈大地母竜〉の巫女であり、古竜ヨルネル自身でもあるのだ。法院自ら「最大の敵」と宣言する『呪い憑き』について聞いたこともないというのは異様だった。
だが、知らないと言うならそうなのだろう。周囲を警戒しつつ、『呪い憑き』の説明をする。
「『呪い憑き』には魔術が効かぬと――それでタニシャは助かったわけじゃな」
「そうだ。効かないっていっても、厳密にはドラゴン系統だけなんだけど」
模倣や干渉により自然物から力を引き出すアールヴとドヴェルグの二系統には『呪い憑き』の効果は及びにくい。とはいえ、現在大陸で行使されている魔術のほとんどすべてはドラゴン系統に属しており、法院のそれも例外ではないため、実質上は似たようなものだ。
「『呪い憑き』はこの百年生まれておらんという話ではなかったか?」
「それは、公式に数えられている『呪い憑き』の出現が百年前ってだけ。『呪い憑き』を誰かが見つける前に捕まえて、殺せば、ソイツははじめから現れなかったことになる」
百年前、十分に力を蓄えた『呪い憑き』が「発見」されてしまったのは、法院にとって大きな失敗だった。『人竜大戦』により根絶されたはずの邪悪な力が、今も生き延びて人々を蝕んでいる。そんな『呪い』への不安は古竜信仰の地盤を大きく揺さぶった。「双子は呪いが憑きやすい」などという迷信は、百年後の今も続くその余震なのだろう。
『呪い憑き』とは法院にとって、かように恐るべき大敵なのだ。だからこそ彼らは古来より、それを誅するための異端審問部隊を組織してきた。
「『敬虔』――異端狩りの竜兵は、〈殺竜〉ダミデウスの生涯の敵だった」
「ふむ。それでそんなに確信があるわけじゃな」
相互不可侵の約定を取り付けるまで、ダミデウスは絶え間なく法院の尖兵による襲撃を受け続けたが、なかでも手こずったのが、彼ら『敬虔』だったという。
『おかげで亜竜の殺し方も戦術も山ほど覚えられたがな』
法院が誇る選りすぐりの乗り手も、師の前ではよき教材でしかなかったようだが。
「ん……」
「おっと、起きたようじゃな」
タニシャは身を起こしながら、焦げついて湯気を立てる地面、濡れみずくになった二人を順に見回し、最後にネイと目を合わせた。その瞳にはすでに理解の色が滲みはじめていた。
「あれが私たちの追っ手だ。殺さなければ、殺される」
どんなに耳と反応が優れていても、距離を取って
説明することはできたが、そうしないことが誠実さだと思った。
聖地への憧憬を語る横顔。もしかすると、あの時すでに彼女は、自分をその場所から隔てているのが、単なる距離だけではないと知っていたのかもしれない。だとしたら、そのまぶしさを――あるいは覚悟を、どんな形でも裏切ってはいけないと思った。
「私たちにタニシャの力を貸してくれ」
「はい」
タニシャは差し出された手を取った。ネイは手を引いて彼女を立たせた。握り返す手には力があり、目には意志があった。三人は木陰に移動した。
「作戦を説明する」
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