5 地図と水

 翌朝、日の出前から歩き始め、やがて川に出た。喉は雨水で十分潤せたものの、まとまった飲み水が手に入るのは有り難い。「水浴びじゃあ!」と全裸で駆け出していったヨルの服――ネイのものを一式貸している――を拾いながら、ネイは今後の予定を思案した。

 ホーミダル擁竜ようりゅう帝国南東の辺境地帯。法院発行の地図によればキレーネ山地というのが、ダミデウスの庵まで含む一帯の名称だ。太陽の位置からすると、今いるのは山地北側の裾野にあたる。帝都は北西なので、概ね正しい方向に向かっているようだった。

 しかしこの辺りの森がいくら豊かとはいえ、毎日毎食同じ炙った茸やトカゲ肉のくり返しでは気が滅入る、というのはヨルの談。息吹ブレスによる延焼を逃れて庵から持ち出せた物にも限りがあり、ネイとしても可能なら補充がしたかった。

「川沿いにたどって行けば村でもあるかな」

 地図を広げながらネイはつぶやいた。集落はたいてい水源近くに作られるものだ。

 紙面の右下には法院の紋章。法院はどの国家組織にも属さないため、彼らの作る地図は政治的に中立で、国家や領邦が勝手に発行するそれより正確だと言われる。炎を免れた唯一の地図もこうして法院のものだが、実際に使うと、ネイにも欠点がわかってきた。

 地図はおそらく、法院が豊富に抱える竜兵により空から描かれたものだ。ゆえに目立つ地形や街道は正確で偏向もないが、徒歩の利用者についてはまったく考慮していない。

 だから目の前の川も描かれていないし、辺境に点在するはずの小さな集落などは、ほとんど描き込まれていない。あくまで亜竜の乗り手が空や主要な街道を通じ、都市や町、大きなランドマークを点で移動するためのものなのだ。

 もしくは、法院が竜を中心とした「この世界」を把握するためのもの。彼らの世界には、辺境で暮らす人々も、ドヴェルグやアールヴのような少数民も、ダミデウスのような異端者も含まれていないのだ。

「なんじゃあ、紙きれなんぞじいっと眺めおって。水もしたたる母の美貌を拝める千載一遇のチャンスだというのに。ほれ、ほれほれ」

「ちょっと。水がかかるだろ」

 ぼたぼたと落ちてきた水滴から地図を庇う。オリゼビア共和国の中央部に巨大な湖が出現してしまった。袖で水を拭い、天災が他国にも及ばないように地図を脇に避難させる。

 ネイはため息と共に顔を上げる。全裸で堂々と仁王立ちするヨルの姿態は、白い肌に濡れそぼった髪がうねりながら貼りついて、たしかに自負に値する見映えだが、実態と言えばはしゃいだ仔犬と大差がないのだから、素直に感嘆してやるのも馬鹿らしい。

「はい拝んだよ。有り難いなあ、嬉しいなあ、眼福だなあ」

「ちぇー、つまらんのう」

 それだけ言って、ヨルはふたたび川に戻っていった。

「なんなんだよ」

 背嚢に地図を仕舞うと火打ち石を取り出した。早めの夕食が出来上がる頃にはヨルも戻るだろう。水面から出たり沈んだりしている白い背中を眺めつつ、ネイは火起こしをはじめる。

 薪に火が移った頃、物音を聞いた。

「誰だ!」

「なんじゃあ」と川の真ん中からヨルが頭を出した。

 川の対岸は低い崖になっており、ぎりぎりまで木がせり出している。その木立の暗がりに人の気配があった。ネイは木立からヨル、ヨルから自分までの距離を目測する。慎重に膝立ちになるが、相手が飛び道具を持っていればまず間に合わないだろう。

 あるいはこちらが陽動で、本命はワイバーンか?

 どちらにせよ、上空ばかり警戒していたネイの失策だ。

「どうしたんじゃ。そんなにいきり立って」

 無警戒にざばざばと川を渡ってくるヨル。

 聴覚に意識を割り振りつつ、ネイはじりじりと川岸に近づいていく。

「ちょ、ちょっと。待ってください」

 そう言いながら木立から姿を現したのはおさげ髪の少女だった。両手を頭上で交差させるのは非武装を示すポーズだが、手にはそれぞれ弓と矢が握られている。まだ、熟練の弓手ならネイのナイフが喉に届くより先にヨルを射殺できる距離だ。

「武器を足元に」

「はい。……置きました」

「矢筒も」

 少女は慌てて背中から矢筒を外して地面に投げた。しかし、まだ周囲にワイバーンを潜ませている可能性があった。完全に拘束するまでは信用できない。

「そこから飛び降りて、ここまで歩いて来るんだ――ヨル。早く」

「えっ……」少女は足元の崖を見る。

「こら。そんな乱暴なことを言うでない。いいんじゃぞお嬢ちゃん――」

 ばしゃん、と大きな水しぶきが上がった。

 少女が川に飛び込んだのだ。ここに至ってネイは過ちに気づいた。もしも彼女があのワイバーンの乗り手なら、この状況で川に飛び込むことは考えられない。

 つまり勘違いだ。

「ああー、もう。ぬしがあんなこと言うからじゃぞ」

 ヨルは川の中を戻っていった。ネイも慌てて川に踏み込む。水は対岸に行くにつれて深くなり、みぞおちの高さに水面が来たところで、少女を連れたヨルとかち合った。

「ばかもの!」

 結局、三人ともずぶ濡れになって河原に戻ってくることになった。

 最初から全裸だったヨルはいいとして、ネイと少女には着替えが必要だった。

「とりあえず乾くまではこれを」

 ネイは替えの下着を少女に差し出した。彼女の服は枝に干して焚き火に当てる。

「ありがとうございます」

 おさげのせいか小柄さのせいか遠目には幼く見えたが、よく見ればネイとそう変わらない年齢のようだ。ホーミダルではあまり見かけない赤毛で、鼻の頭にそばかすが散っている。

「貴女はどうするんですか?」

「このまま乾くのを待つよ」

「身体が冷えるぞ」

「いつまでも裸のアンタには言われたくないけどね」

「かはは。さては母の美貌に照れておるんじゃな!」

 ヨルは同じやりとりを飽きずにくり返す。

 ネイは無視したが、

「たしかにちょっと、恥ずかしいです、ね……」

「あ……す、すまんの……」

 少女が頬を染めて答えると、ヨルもつられたように顔を赤くした。なかなか見られないヨルの動揺と赤面は、整った顔だちも相まって見た目だけなら扇情的と言っていい。

「これはたしかに有り難いかもね」

「調子に乗りおってからに……」

 結果としてネイは当初の主張を固持し、濡れていない着替えは少女とヨルに配分されることになった。〈大地母竜〉様もこれを機に恥じらいを身につけてくれればいいのだが。

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