4 トカゲと竜
追っ手の目を避けるため、木々が密集した場所を選んで森を進んだ。
大陸南部に位置するホーミダルの森は、雨期を抜けきっていないこともあって湿気が多く、飛び回る羽虫たちがうっとうしさを煽った。枝を払いながらではないと進めない道なき道は、体力には自信のあるネイですら辟易とさせた。
やがて庵から持ってきた食糧が尽きると、ネイが手近な獲物を仕留めることになった。
「特に葛藤はないんだね」
日沈前、夕食を摂りながらネイは言った。下草に敷いた防水布に座ったヨルは、昼に捕まえた青色のトカゲを頬張っている。頭胴長はネイの前腕ほどだが、なかなか俊敏な獲物だ。
「はふ、あにはじゃ?」
「呑み込んでから喋りなよ」
育ての親がそういう男だったから、ネイは食事を「補給」以上に思ったことがない。それに比べてヨルの食欲は驚くほど旺盛だ。食糧が予定の半分も持たなかったのは彼女のせいだった。
「一切衆生の母だというと、そのトカゲだって
ヨルは目を丸くした。手に持ったトカゲを見下ろし、首をひねって、またかぶりつく。
「ほ、んなことは、んぐ、考えたこと、あむ。なあったのう」
「そうか」
倒木に腰掛けたネイは手に持ったトカゲの足を眺めた。炙った腿からうっすら湯気が立つ。残り五本はすでにヨルの腹の中だ。根元に噛みつき、骨からこそぐように肉を食いちぎる。
噛む。脂に乏しく、味気のない肉だ。とてもじゃないがヨルのように嬉しそうに食べることはできなかった。ネイは義務として咀嚼を続けながら手に残った骨をもてあそんだ。
「なんでそんなことを思いついたんじゃ?」
最後の一口をごくりと呑み込むと、ヨルが尋ねてくる。
「……師匠の買った本に、トカゲと竜は近縁だっていうアールヴの学説が載ってたんだ。こんなものはなんの役にも立たないって、師匠は中身をよく見ずに買ったのを後悔してたけど、私にはけっこう面白かった」
アールヴはドヴェルグと同じく大陸辺境に住む少数民で、人間より長い寿命と独自の魔術体系を活かして、魔術や自然の研究に取り組む者が多い。
辺境の少数言語で書かれた書物には法院の検閲も及ばないため、ダミデウスは決まった行商人にそうした本を集めさせていた。独自の言語に習熟してさえいれば、竜の生態や魔術の知識を学ぶのにアールヴの書ほど便利なものはなかった。
「それは面白いか、ぐむ。もしれんのう」言うと、ヨルは最後の一匹に取りかかった。
「〈大地母竜〉は何か知らないの」
「忘れてしもうたわ!」
「飛んでるって」
ヨルの食べかすと唾が焚き火でじゅうと音を立てる。
ネイを拾ったダミデウスが庵に落ち着いてからは、二人が遠出することはなかった。ダミデウスが患ってからはなおのことで、だから、行商の男から伝え聞く話がネイにとっては世界のすべてだった。久しく顔を見ていないが、アイツはどうしているだろうか。とりとめなく考えをめぐらせつつ、ネイは話を続けた。
「話を戻すけど。だから、もしもあの学説が正しいなら、ヨルがトカゲを食べるのは、法院が定めた禁忌に二重に触れていることになると思ったんだ。それだけだよ」
「んも、んぐ。
「正確にはヨルは見てただけだから、殺してはいないけど」
トカゲを見つけたヨルが涎を垂らして指をさし、ネイが投げナイフでそれを仕留めた、というのが実際に起こった出来事だ。
「んぐ、ごく。そうじゃな。葛藤がないかと言われれば、ないのう」
ヨルは焚き火にしゃぶり尽くした骨を投げ込むと、ネイに向かって肩をすくめた。骨の脂が火の中でパチパチとはぜた。
「法院が禁忌を定めたのも、それが生き物に広く共通する特徴だからじゃろ。誰もやらんことを禁止しても仕様がないからの。新しく群れの主になった
ヨルが挙げる例には聞き覚えがないが、人間についてはネイも知っていた。生まれた子を水に沈めることは貴族から庶民までありふれた行為だ。死者の脳を美食とする文化があって、飢餓にかられての同胞食らいも、おおっぴらには語られないだけだ。
ネイが納得したのを見てか、ヨルはふふん、と胸を張った。
「そもそもな。母を崇めるための法院が、母に禁忌を課すというのが出過ぎた話じゃろ!」
焚き火の光が得意げな顔を下から照らしている。
「それはどうかと思うけどな。自分が崇めている相手だろうと、たとえ
ぐぬ、と唸るヨルを横目に、ネイは枝で焚き火をかき混ぜた。日も地平線に沈み、辺りには闇が忍び寄ってきている。幸い〈大棘〉属のワイバーンは夜目が利かないが、火を残したままでは上空から目立つだろう。
「……言うではないか。たしかにそうじゃな」
素直に非を認められるヨルはそう悪くない「母」なのかもしれないとネイは思った。
ダミデウスは反省は大事だとよく言った。老いと死に追われる短命の人間が不老長命の竜を打ち倒すためには、彼らよりも何倍も反省し、過去を顧み、自己を変革し続けるほかないと。
「だが母は母が間違っているとは思わんがの!」
前言撤回。フン、と顔を背ける姿は、まったく子どものそれだ。
「私もヨルが間違っているとか、法院が正しいとか言いたいわけじゃない。師匠なんか法院から見れば、これ以上ないくらい正しくない存在だろうし。私もね」
希代の大罪人。〈殺竜〉とはそういう忌み名で烙印だ。その大罪人によって養われ、蓄えた技術と知識を教え込まれた弟子もまた、まったくもって正しくないに違いなかった。
「だけど、私たちは正しいことだけをして生きていくわけじゃないでしょ」
「それは師の受け売りか?」
「どうかな。そうかもしれないし、違うかも。師匠の言ったことと私の思ったこと、どっちがどっちって分けられるほど、整理ができてないよ」
正直な答えだった。老いと病の果てのダミデウスの死は突然ではなかったが、それでもそれは、物心ついてからのネイが初めて出会った、特別な死だったのだ。
「だからぬしは竜を殺すのか? 師が言ったから」
ヨルの問いかけにネイは返答を迷った。風にざわめく葉ずれと家路を急ぐ鳥たちの声、薪の燃える音とが順に遠くなり、自分を見つめるヨルの目だけが意識の中に残った。
「たぶん……」ネイは言葉を選ぶ。「私にはそれしかないからだ」
「ふむ」
「だからヨルには感謝してるんだ。アンタは私に目的をくれた」
無意識に口にした言葉だったが、口にしてみるとしっくりきた。こういうこともあるものか、とネイは思った。一方のヨルは、ネイの見たことがない奇妙な表情を浮かべていた。微笑んでいるのに、足の痛みを堪えているようにも見える、そんな顔だ。
師と行商人の男と、ほとんど二人の人間しか知らずに育ったネイにとって、他人の表情を読み解くのは難しいことだった。まして相手が出会って数日の、それも〈大地母竜〉の魂を身に降ろされた巫女というのではなおさらだ。
それきり会話は途絶え、ヨルは「寝る」とだけ言って丸くなった。焚き火に土を被せて倒木にもたれ、湿った土が焼ける匂いを嗅ぎながらネイも眠りに落ちた。夢は見なかった。
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