2 喪われた記憶
「記憶がない?」
焼け跡からまだ使えそうな物を見繕いながら、ネイはおうむ返しに言った。軽くむせ込む。家の中はあちこちが燻っており、一帯には黒煙と焦げ臭さが立ちこめていた。
「む。疑っておるのか」
「師匠のことは覚えてたじゃないか」
「あちこち虫食いになっているんじゃよ。これも
「
女によれば、
「いまの母は、儀式を完遂しておらん。だから〈大地母竜〉の記憶が一部だけしか戻ってきていないんじゃろうな」
〈大地母竜〉ヨルネルは千年前の『人竜大戦』の際、巨人たちにより
女が語るのは、およそ竜にまつわるあらゆる知識を師匠から授けられたはずのネイにも初耳の話ばかりだった。しかし筋道は立っており、頷ける部分も多い。
法院の対応もそうだ。法院は『人竜大戦』以前を生きたドラゴン――古竜たちを祀る組織である。その古竜信仰の中でも、すべてのドラゴンの産みの母たる〈大地母竜〉ヨルネルは最上位の神格であり、彼女の死後、大陸には知性なく力でも劣った「出来損ない」のドラゴン――亜竜しか生まれなくなった。
だが、もしも彼女の魂が不滅であったなら?
その権能が、死せる古竜でも、出来損ないの亜竜でもない、真の竜を新たに生み落としたら?
竜が治めるこの大陸はそれだけでたやすく転覆するだろう。平和と均衡を掲げる法院が千年にわたって魂の継承を秘匿してきたのも当然だった。
竜殺しに冷静さは欠かせない。徹底的に叩き込まれた教えがあってすら、師匠の「狩り道具」を引っ張り出す手は震えた。道具に
「じゃあ、今のアンタは巫女と〈大地母竜〉のどっちなんだ」
「……難しいことを聞くのう。母には巫女の娘としての記憶も、〈大地母竜〉としての記憶もはっきりとは残っておらんのでな。どちらとも言いがたいというのが正直なところじゃ」
「儀式が完了すれば?」
「どうじゃろな。すべて〈大地母竜〉の意識になるのかもしれん。む。そうすると、今の母はいなくなるということか? それはすこし嫌じゃな……」
一人称が「母」の女がそうそういるわけがなく、明らかに彼女の意識の一部は〈大地母竜〉の神格なのだろうが、とはいえ神代の存在としての威風にも欠けていた。ネイはうんうん唸る女に目をやった。
「儀式はどうやったら終わるの。それは覚えてる?」
「覚えとるぞ」
「そこに向かう途中でアイツに襲われたってことか」
「うむ。目覚めた途端、小僧っ子のことを思い出してな。ここまで逃げてきたわけじゃ」
「アイツの所属に思い当たりは――ないだろうな」
「そうじゃなあ!」
「返事だけ良くてもね」
ホーミダル、リウグノッグ、リッツガドル、オリゼビア――南から時計回りに国名を思い浮かべる。あるいは四国いずれかの貴族家、国家に属さない辺境の領邦。それとも別の集団や組織だろうか。ことは〈大地母竜〉だ。何が背後についていても驚きはなかった。
「それじゃあ、目指すのは帝都、ホーミダルの大法院か」
そうして当初の予定を全うし、儀式を完成させる。
「来てくれるんじゃな」
「まあね。家もなくなったし、行くアテがあるわけじゃない。アンタと行くよ。大法院が〈殺竜〉の弟子を歓迎してくれるとは思えないけどね」
家もなくなったを強調してみたが、案の定、女は意に介さない。
「ダミデウスの弟子が供とあらば母も安心じゃ。大竜の背に乗ったつもりでおるぞ!」
「勝手に乗らないでくれるかな」
「では母の背に乗るか?」
「やめとくよ。泥舟って感じだし」慣用句の使い方を知らない女に続ける。「アイツがあれで諦めたとも思えないし、またアンタを襲ってくるはず。一度助けるって決めた相手を途中で放り出したら、師匠に顔向けができない」
追っ手の狙いは巫女の身柄ではなく、そこに宿った魂だ。持ち帰るのは死体でもよい可能性もあり、躊躇のない
食糧や武器など、めぼしい品物を詰めて重くなった背嚢を担ぎ上げる。
「襲われたのはこの近くなんだよね」
「見に行っても無駄じゃぞ」
何も残っていない、と言外に女は告げた。
巫女を大法院まで連れて行く都合上、供回りや護衛がいただろう。亜竜はこの辺りを飛ぶのを嫌がるので、おそらくは馬車を使ったはずだ。
この庵――ダミデウスは自宅をそう呼ぶのを好んだ――がそうであったように、亜竜の
人体などは考えるまでもなかった。
「わかっているけど、弔いくらいはしてやりたい」
思いがけない答えだったのか、女は目を丸くした。
「律儀なもんじゃのう」
――人間は。そう言外に加えられたような女の言葉は、まとった竜の匂いや、頓狂きわまりない言動以上に、彼女が彼女の名乗る通りのものであることをネイに信じさせた。
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