第9話 彼女の残してくれたもの

 正樹は後ろに立つ中年女性は、桶に入れた水を地面に置くと、正樹をじっと見つめた。


「僕は添田正樹といいます。この墓に書かれている川端千夏さんと知り合いでして」

「私は千夏の母の川端歩美かわばたあゆみといいます」

「お母さん……ですか」

「あなた今、千夏と知り合いと言ったよね?どういう関係の知り合いなのかしら?」

「それは、その……」


 正樹は返答に困った。生き返った千夏と知り合い、付き合っていたなんて言っても簡単には信じてはくれないだろう。返答に窮している正樹を斜め横から見ながら、歩美はさらに問い詰めた。


「ねえ、あなた、自分の名前を正樹って言ったよね?」

「は、はい」

「ひょっとして……千夏の彼氏?」

「どうして知ってるんですか?」


すると歩美は突然正樹の方を向き、そっと手を振って手招きした。


「ねえ、ちょっとだけ時間をもらえる?」

「どちらに?」

「私の家に来てもらいたいの。あなたに千夏からの置手紙を見せたくてね」

「置き手紙?」

「こないだ、千夏の仏壇に置手紙があったのを見つけたの。一体どこの誰が置いたのだろうと思って筆跡を見ると、間違いなく千夏の書いたものなのよね……」


 そう言うと、歩美は早足で歩き出し、あっという間に鬱蒼とした森の中へと姿を消していった。


「ま、待ってくださいよ!」


 正樹は必死に歩美の背中を追いかけた。歩美は見た目の割に歩く速度が速い。正樹は見失わないよう、目を凝らしながら後をつけていった。

 大通りをしばらく歩くと、歩美は早足で細い道へと曲がり、入り組んだ住宅街をひた歩き、オフィスビルに囲まれた小さなバルコニーのある二階建ての家にたどり着いた。ここがおそらく、千夏の実家なのだろう。


「いいんですか、入って」

「どうぞ」


 歩美は正樹を応接間に案内すると、立派な籐編みの椅子を出してきた。正樹は椅子に腰掛けると、ちょうど真正面に仏壇と千夏の写真が目に入った。長い黒髪をなびかせ、ピースサインを出して微笑む千夏は、正樹が地下鉄で出会った千夏そのものだった。

 歩美は麦茶を出すと、正樹の正面に座った。その手には、薄紅色の封筒があった。


「これが仏壇に置いてあったの。読んで下さるかしら?」


 正樹は歩美から封筒を受け取ると、中に入っていた便箋を取り出した。


『こんにちは、千夏です。お父さん、お母さん、元気かな?実は私は、あれからまだこの世をさまよっています。身体は無くなったけれど、魂だけが残り、この世をふらふらと漂っているという感じかな?こんなこと書いたら驚いちゃうかもしれませんが、信じてもらえないならば、それでもいいです。

 今日、私はどうしても書き残したいことがあり、この手紙を書きました。

 今はこの世を漂っている私だけど、どうやらこの世から去らなくちゃいけない時が近づいているみたいです。この世を去る前に、一つだけお願いしたいことがあります。いつの日か、添田正樹さんという大学生くらいの男の人が私を探しに来ると思います。もし正樹さんに出会ったら。追い払おうとしないでください。なぜならその人は、私のこの世にやり残した思いを叶えてくれた恩人だから。そして、正樹さんにこう伝えて下さい。

「はじめて正樹さんに会った時、私のことを付け回してた人から逃げるために、ちょうど目についた正樹さんのことを勝手にダーリンに仕立てていたけれど、今は正樹さんのことを心からダーリンって言える気がするの。私、正樹さんに会えて本当によかったよ。大好きだよ、ダーリン」 千夏より』


 正樹は手紙を持つ手が震え始めた。やがてとめどなく涙が流れ出し、正樹は両手で何度も拭った。

 泣き崩れる正樹を、歩美は何も言わずじっと見守っていた。


「千夏、あなたのことを大好きだったみたいね」


 正樹は涙を拭いながら、軽くうなずいた。


「千夏はきっと喜んでいるわよ。あの子、ずーっと彼氏が欲しい、彼氏が欲しいって事あるごとにつぶやいてたからね」

「そうなんですか?」

「そうよ。千夏は中学まで海外にいたし、高校は女子高だったし、なかなか彼氏が出来なかったみたいでね。あの子がもし死んで心残りがあるとすれば、そのことかもしれないねってお父さんとも話していたわ。でも、この手紙を読んだら、そんな心残りもなくなったようね」


 歩美はそう言うと、仏壇の方を向き、口元に笑みを浮かべながら語りだした。


「千夏、あなたが好きだった彼氏が来てるわよ。あなたが居なくなって寂しいって泣いてるわよ。でもね、千夏はきっと嬉しかったよね。とうとう心から好きだと言える人に出会えてさ。もう思い残すことは何もないよね」


 その時、写真立てに写る千夏の顔が、微妙に照れ笑いを浮かべていたように感じた。もう千夏の気持ちを確かめることができないと思っていた正樹は、千夏の本心を知って、そして千夏が思い残すことなくこの世を去っていくことを知って、心の中のもやもやした気持ちがすべて払拭されたような気がした。


「ありがとうございました。寂しいけれど、彼女がこれで安心して天国に行ってくれたのなら、僕としても満足です。あ、この手紙はお返ししますね」


 正樹は手紙を歩美に手渡すと、歩美は手紙を正樹の手にそっと返した。


「あなたの方で大事にしまっておいてください。この手紙は私たち家族じゃなく、あなたに宛てた手紙だと思うから」


 歩美がそう言うと、正樹は申し訳なさそうな顔をしながらも、小さく「ありがとうございます」と言って受け取った。


「最後に、仏壇に手を合わせて行っていいですか?」

「どうぞ」


 正樹は仏壇の前に立つと、そこにはピースマークを出して微笑む千夏の写真があった。正樹は一度は収めたはずの涙が再びこみ上げてきたが、何とかこらえながら、両手を合わせて深く目を閉じた。

 別れを惜しむかのように、二人の思い出が走馬灯のように脳裏をよぎった。

 千夏と一緒に過ごしたのはほんのわずかな時間だった。しかしその間、正樹は人生で一番幸せだったのかもしれない。正樹は千夏の思い残したことを叶え、千夏は正樹に束の間の幸せな時間を与えてくれたのだ。


 やがて正樹は目を開けると、目の前の写真を見つめながら白い歯を見せた。


「ありがとう、千夏さん。俺も君のことが大好きだよ」


 ☆☆☆☆


 正樹は千夏の家を出て、地下鉄の駅へと続く大通りを歩き出した。千夏の気持ちが分かって胸をなでおろした一方、独りぼっちになったことへの寂しさもあった。一人寂しく大通りをとぼとぼと歩いていた正樹の目に、ちょうどマクドナルドの看板が飛び込んで来た。以前千夏がアルバイトをしていた店で、先日千夏と一緒に食事した場所である。


「あっちこっち歩いてるうちに腹減ったな。ちょっとだけ食べていこうかな」


 正樹は店内に入ると、レジは思ったほど混雑しておらず、すぐ自分の順番が回ってきた。


「いらっしゃいませ」


 正樹の目の前にいたのは、この店で一番のスマイルを見せてくれるというまりえだった。

「こんにちは、こないだはどうも」

「こんにちは……」

「今日もてりやきマックバーガー食べに来ました」

「わかりました。てりやきマックバーガーをおひとつですね……」


 まりえは心なしか声が小さく、いつもよりも動きがぎこちなかった。顔を赤らめ、何か言いたそうな顔をしているが、心の奥につかえている物があるのか、なかなか言い出せないように見えた。

 まりえはやがて注文した物をトレイに載せて正樹の前に姿を見せた。その時も浮かない顔で、正樹の前に無言でトレイを置いた。


「どうもありがとうございます。あ、そうそう、今日はスマイルはないんですね?」


 するとまりえは、胸の辺りを押さえながら何度もうなずき始めた。そして、正樹の顔を見据え、まるで全身をふりしぼるように声を出した。


「私、こないだお客さんに言われた言葉が嬉しかったんです!」

「はあ?」

「私のスマイルが最高だって言ってくれたこと」

「あ……そ、そうですね。確かそう言った記憶がありますね」

「私、嬉しくって嬉しくって。あの日、ずっと気持ちがふわーって浮き立ってるみたいでした。私、自分のスマイルにそんなに自信がなかったけど、あれ以来、すごく自信が持てるようになったんです」

「は、はあ……」


 正樹はまりえの迫り来るかのような声と雰囲気に圧倒され、どう反応していいか分からずひたすら頭を掻き続けていた。


「あの、お客さんがもし嫌じゃなかったら、またこのお店に来てくれませんか?私、学校があるから、週末しか出勤していませんが、いつもこの時間にここにいます。だから……だから、お願い!またこの店に来てくださいっ!」


 言葉の最後で、まりえは勢い余って叫ぶかのように思い切り声を張り上げた。その瞬間、他の店員や客の視線が一斉にまりえと正樹に降り注がれた。

 正樹はまりえの言葉と降り注がれる視線に驚き、しばらく何も言い返せなかったが、ようやくまりえの言わんとしていることが把握できた。


「そ、それって……ひょっとして」

「……また会いたいから」


 まりえはそう言うと、深々と頭を下げた。

 正樹は千夏との思い出がまだ脳裏に残っており、新しい出会いを受け入れていいのかどうか、戸惑いを感じていた。

 しかし、まりえはもう思い残すことなくこの世から去り、正樹は一人取り残されていた。いつまでも思い出に耽り、思い出の中で生きていては、ずっと一人のままである。

 正樹は胸に手を置くと、恥ずかしそうに顔を紅潮させながら正樹を見つめるまりえと目を合わせた。


「ありがとう。じゃあまた来週ここに来ますよ。まりえさんのスマイルをもっと見たいから」


 正樹がそう言うと、まりえはこわばった表情が崩れ、満面の笑みを見せながら何度も頭を下げた。


「嬉しいです!待ってますから。絶対来てくださいね」

「うん、絶対来ますよ。あ、今日はずーっと表情硬かったけど、やっとスマイルを見せてくれましたね」

「え?そうですか?やだ、アハハハハ」

「やっぱり最高ですよ、まりえさんのスマイル。また見に来なくちゃね」


 すると、周りで二人の様子を見ていた他の客や店員達がざわつき始め、どこからともなく拍手が沸き起こった。拍手はやがて店内全体に広がり、驚いた表情を見せ店内を見回す二人を包み込んでいた。それはまるで、二人の恋の始まりを祝福しているようだった。


「え?俺たち、みんなから拍手されてる?」

「たぶんそうかも。皆私たちを見ながら拍手してるから」

「まりえさんの声が大きすぎたからじゃない?」

「そ、そうだったかも。ハハハハ」


 思い返すと、正樹がまりえと話すきっかけを作ってくれたのは千夏だった。あの時千夏がまりえのスマイルのことを話してくれなければ、この恋は始まらなかったかもしれない。千夏が残してくれたものは、幸せな思い出だけではなかったようだ。

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