ある少年の邂逅

賽藤点野

ある少年の邂逅

 僕の名前は猪熊いのくま鹿兎ろくと

 あだ名はジビエモン。

 母親は再婚で、二人目の父親とは上手くいってる。ところで最近は夫婦別姓が流行ってるそうだ。流行ってるそうだよ。

 雪に刺したピックを離し、体重を板に預けて坂を滑り出す。

 顔に寒風がぶつかり、吐き出す白い息は後方へ飛んでいく。

 スキー教室も最終日に至り、ようやくまともに滑れるようになった。

 今いる場所は初心者用コースで大した丘もカーブもない。しかしスキー経験は幼い時の一度きりだし、普段ろくに運動もしていないから、僕には十分すぎるステージだ。体育2を侮ってはいけない。

 コースで一番角度のある場所に差し掛かる。ここはポールとロープで囲われているとはいえ、両側は整備をしていない山中だ。もしコースアウトしたら良くて雪に埋もれるか、最悪一足先に特急で下山することになる。より慎重に身体を運び、

 前に誰かいる。

 突っ立ってる。コースの上に。

 何してるの? じゃない。止まらなくては。ブレーキ。ブレーキ、ブレッ、ブレェーッ!

「おぅわっ!?」

 コース上に突っ立っていた誰かに勢いよく衝突する。その子ともみくちゃになり、僕はポールをぶっ飛ばして豪快にコースアウトした。


「……いって、いてて……」

 至近距離から低い声が聴こえた。

 目を開くと、そこには眼鏡を掛けた端正な顔があった。顔の主は僕の身体に覆いかぶさっている。僕は雪に押し付けられた形だ。ニット帽を挟んで後頭部に冷たさを感じる。

「っ! ご、ごめん! ジビエモン!」

 彼も僕に気付き、慌てて身体から離れた。足にスキー板を装着しているため上手く立ち上がれないが、なんとか上体を起こして辺りを確認する。3mほど上にさっきまで滑っていたコースが見えた。コースには、事故を目撃した他の生徒達が集まって来ている。

「ジビエモーン! ハカセー! 大丈夫かー!?」

 生徒の一人が声を上げた。僕は手を振って無事を知らせる。

 ハカセ、とは僕がぶつかった男子のあだ名だ。本名は白瀬しらせさとる。クラスメイトの一人だ。

 生徒達の数人が坂を滑り、その場を離れる。先生かスキー場の職員さんを呼びに行ったのだろう。二名の同級生を見捨ててスキーを続行するような外道は居ないと信じたい。

「……ごめん、ジビエモン」

 隣でハカセくんが気まずそうに言った。僕は彼の方を見る。

「いや、ぶつかったの僕だし」

「だけど俺が突っ立ってたから……」

 うん、その通り。

「……なんで突っ立ってたの?」

 僕が尋ねると、ハカセくんは黙り込んだ。

 まいった。十中八九考え事だろうが、プライベートな問題だったかもしれない。それも深刻な。

 すると、ハカセくんは意を決したように顔を上げ、僕に言った。

「ジビエモン、お前は『雪女』を知ってるか」

「…………」

 心配して損した。

 ハカセくんは僕の反応を見てふっと笑った。心配して損した。

「まぁ、知らない奴の方が少ないよな」

「いーやまったく存じ上げませんが?」

 僕が怒気を込めて返答すると、ハカセくんはまた少し黙ってから口を開いた。

「……雪山で二人の人間が彷徨っていると、目の前に白装束の美女が現れる。女は一人を凍らして殺し、もう一人も殺そうとするが、お前はまだ若いからとその一人は見逃す。『私に会ったことを誰かに伝えれば、お前を殺す』と言い残して……」

 ハカセくんは、とても端的に「怪談」の雪女の話をした。

 雪女には地方や伝承により、お風呂に入ったら溶けて消える、子供達と一緒に雪の中で遊ぶなどのバリエーションがあるが、一般的に知られているのは上記の内容だろう。まったく存じ上げませんが。

 ハカセくんは言い終わると、またふっと笑みを浮かべた。

「ここいらにも、雪女の伝承があるそうだ……そう考えると、どこからか雪女が出てきてもおかしくない雰囲気じゃないか」

「そうだねぇ、雪女が白装束の上にスキーウェアを着てたらだけど」

 僕が(それなりに冷めた目と声で)返すと、ハカセくんは真顔になり、口を閉ざした。大丈夫、怒ってないよ。

「……もしも、だ」

 ハカセくんが言った。

「もしも雪女が、怪談で語られるような恐ろしい所業を行わず、ただ単純に遭難した人物を助けたとする」

「……? うん」

 ハカセくん何を伝えたいのか分からず、僕は曖昧に返事をした。

「助けられた者……ある少年としよう。少年は命の恩人である雪女に感謝の気持ちを覚える。ただし、雪女と別れる際、雪女は少年にこう告げる。怪談と同じようなことを……」

 ハカセくんは一度言葉を切ってから告げた。

「私に会ったことを誰かに伝えれば、お前を殺す」

「…………」

「少年は、雪女に感謝をしている」ハカセくんは続ける。「だけど、それを誰かに伝えることは出来ない。周囲は少年が自力で雪山を生き残ったと勘違いする。少年はいたたまれない気持ちになる。彼女に申し訳ないと感じる……」

 ハカセくんは僕の目を見つめ、次のように尋ねた。

「その果てに少年は……何を望むようになると思う?」

 ハカセくんが何を伝えたいのか、僕は未だに分からない。

 しかし、彼の質問に関する答えは、何となしに浮かんだ。

「……もう一度、雪女に会いたいと思う。お礼を言うために」

 僕の言葉を聞くと、ハカセくんはふっと微笑した。

「やっぱり、そうだよなぁ」


 


 不意に、地面が揺れたように感じた。

 僕は咄嗟に立ち上がろうとするが、それはかなわない。

 雪が、ざざざざぁと滝のように流れ出す。僕とハカセくんはそれに巻き込まれる。

 ──ウソでしょ。こんなこと。

 僕とハカセくんの居た狭い場所にだけ「雪崩」が発生した。

 雪に飲まれ僕の意識は暗転した。



「──……もん……エモン」

 誰かの声が聴こえた。僕はゆっくりと目を開ける。

「ジビエモン! 大丈夫か!?」

 ハカセくんが顔を近づけて、僕の肩を揺すっている。僕は三、四回瞬きをしてから改めて辺りを見回す。

 なんてことだ。完璧に下山してしまっている。

 僕の背後には急な山の斜面がずっと続いている。ここを何m登れば元のコースに戻れるというのか。

「立てるか? せーのっ」

 ハカセくんが僕の手を引き、僕はその勢いで立ち上がる。結構な距離を滑落したはずなのに、お互いに怪我はないようだ。

 不幸中の幸い、と言われればその通りなのだが、とてもラッキーをお祝い出来るような気持にはなれない。状況は最悪だ。

「……とりあえず、ここは移動しようか」

 僕はそう言って歩き出そうとするが、「待った」とハカセくんが僕の手を取った。

「スキー板は外そう。このままじゃ歩きづらい」

 指摘された通り、足には板が付いたままだった。スキー教室、無念の早退リタイアである。

 そこから先は、二人徒歩で雪をかき分け行軍する。山中に道は無いが、僕が歩けばそこが獣道になる。そんな気休めにもならないことを考えながらひた進む。

「……雪女に出会った少年は、数年後、同じ山で雪崩に巻き込まれたかもしれない」

 歩きながら、ハカセくんがそんなことを呟いた。僕は黙って耳を傾ける。

「山道を歩きながら、少年は当時を思い出すかもしれない。

 少年は高校受験を控えていて、模擬試験の結果は芳しくなく、第一志望の学校を諦めたかもしれない。

 少年の両親は共に一流企業に勤めていたが、少年は両親程には優秀ではなかったかもしれない。両親はそんな少年を過度に期待し、期待にそぐわなければ激しく叱責したかもしれない。

 普段がその有様だから、模擬試験の結果が返ってきた時は酷い言葉を吐きかけられたかもしれない。

 だから少年は、死のうと思ったかもしれない。

 死に場所に選んだ山で、少年は『雪女』に会ったかもしれない。

 そこで少年は、初めて、誰かに優しくしてもらったかもしれない。

 そして少年は数年後──」

 開けた場所に出る。僕の足が止まる。ハカセくんの足も止まる。

 僕達の目の前には、もう何年も放置されているだろう、小さな古い山小屋が見えた。

「彼女の家を……見つけてしまったかもしれない……」

 ハカセくんの声が震えた。

 山小屋を前にして、僕とハカセくんは黙って立ち続ける。お互いに考えてることがあるのだろう。

 やがて、ハカセくんは意を決したように山小屋に足を進める。僕もそれに続き、

「お前は来るなっ!」

 ハカセくんに怒鳴られた。

「……と、少年は連れの者に言うかもしれない」ハカセくんはふっと表情を戻す。「あの家がならば、あそこに入るべきは『秘密』を知る者だけがいい……そう考えるかもしれない」

 ハカセくんはそれだけ告げると、一人、山小屋へ進んで行った。

 そして、山小屋に入っていった。

「…………」

 さて、僕がすべきことはなんもない。

 ただハカセくんを待つだけだ。その間、雪に「SOS」と大きく書いてもいいし、スキー板を紛失した言い訳を考えてもいい。すべきことは結構あった。

 しかし、いずれを実行する間もなく、ハカセくんは山小屋から姿を現した。時間にして1分も経っていない。

 ハカセくんは先程とは変わらない調子で、サクサクと雪を踏みながら僕の所へ戻って来た。

 僕は視線を彼に向ける。

 彼は黙って頷いた。

 その表情は、どこか満足げな様子だ。ハカセくんが口を開く。

「……よし。じゃあ頑張って戻るとしようか、ジ──」


 ガチャッ。


「え」

 背後から聴こえた音に、ハカセくんは反射的に振り向く。彼のクラスメイトも同様に。

 山小屋の扉が開かれ、中から冷たい風が激しく吹き付けた。小屋の中にあったであろう書類や雑貨が風に飛ばされ、雪の上に散らばる。強風が顔に当たり、クラスメイトは思わず目を瞑る。

 クラスメイトが再び目を開くと、山小屋の入口に白装束を着た女の姿が見えた。

 細い筆を用いて描かれた日本画のような、現実離れした美女。

 女はこちらに向かって歩いて行き、一歩毎にカラン、コロン、と下駄を鳴らす。

 ──違う。下駄の音じゃない。

 女との距離が縮まり、その姿がより鮮明になる。

 筆で描かれた美女、ではない。女は実際に

 紙にではなく、氷の上に。

 女の身体は、一辺が3cmくらいの氷の立方体が何個も集まって出来ていた。氷の六面それぞれに違う模様が描かれていて、その模様が並んで白装束の女の絵を形成しているのだ。

 氷の面が変わると、女のポーズや表情も変わる。カラン、コロン、という音は氷が一斉に動く時に発される音だ。


【……おぉやぁ?】


 絵の女がどこからか声を発し、顔の部分の氷がカラン、コロン、と動いて微笑んだ。

【そこに居る子供は誰かなぁ? サトル……】

 女に名前を呼ばれ、ハカセくんの顔が蒼白する。

「……いや……こいつはっ……」

【サトル】

 絵の女の目がハカセくんを睨んだ。

【──教えたねぇ? 私の居場所を】

 女がそう言った瞬間。


 ハカセくんの身体に、ピシィッとが入った。

 クラスメイトは彼の身体に手を伸ばそうとしたが、遅かった。

 ハカセくんの身体は一瞬で凍り付き、そして数百個分の立方体に分解され、空中に浮かんだ。


 空中に浮かんだ氷は女に向かって飛んでいき、そのまま女の身体に取り込まれる。

 女の身体中の氷が激しく動き、新しい氷の面にも模様が描かれる。

 模様が並んで、再び女の姿を描き出した。女の身体は、一回り大きくなった。

【私に会ったことを誰かに伝えれば、お前を殺す。お前は言いつけを破った。だからこうして、私の身体の一部とさせてもらった】

 カラン、コロン、と氷が動き、描かれた女の絵が身体をさすった。

 ──これが、雪女。

 雪女は、一人残されたクラスメイトに目をやる。

【サトルのお友達か……お前は特別に見逃してあげよう。ただし】

 カラン、コロン、と音を鳴らして、雪女はクラスメイトの眼前にまで近付いた。

 尋常ではない冷気がクラスメイトの顔に当たる。前髪に霜が付く。

【私に会ったことを誰かに伝えれば……サトルのように氷にして殺す。いいね?】

 氷が動き、雪女の顔が歪んだ。

「……約束は、守る」

 冷気に唇をかじかませながらクラスメイトは言った。

「……だけど、僕が約束を守るということは、ハカセくんとの約束もちゃんと守るべきだよな」

【…………?】

 クラスメイトの発言に、雪女は首を傾げた。

 クラスメイトは続ける。

「分からないのか? ハカセくんは約束をちゃんと守っていた。お前はそれを無視して彼を氷にしたんだ」

【……なにをバカな】

「バカじゃない」

 クラスメイトは雪女にそう告げると、足下に落ちている「ある物」を拾い上げた。

 それは一枚の写真。山小屋の中から飛ばされてきたものだ。上部が縦に裂けているため、壁かコルクボードに画鋲で止めてあったのかもしれない。写真には両親と小さな子供が写っている。両親は笑顔だが、子供は仏頂面だ。

 クラスメイトは仏頂面を指差し、雪女に見せた。

【は────】

 雪女が言葉を詰まらせた。

「十年以上前。この小屋がまだ使われている時、僕は家族とスキーに出かけ、ここで写真を撮った。これがその写真だ。僕の言うことが分かるか?」

 写真を持ったまま、クラスメイトは雪女に詰め寄った。

「僕はここに小屋があると知っていた。だからここまで辿り着けたんだ。ハカセくんが僕をここに連れてきたんじゃない……僕が彼をここに案内したんだ」

【──】

 雪女が何かを言おうとした、その刹那。

 雪女の身体から、数百個の氷が分離した。

 氷は雪の上に落ちると、溶けるように変形を始める。

 やがてそれは、一人の男子高校生の身体に変わった。否、戻った。

 カラン、コロン、と音を立てて雪女の身体が動き、出会った時と同じ背丈を描き出した。

【……餓鬼めが】

 雪女から低い声が漏れた。山鳴りのような声だった。

【だが……お前が私を見たことは事実……私のことを誰かに伝えれば、その瞬間お前は氷になるのだ……それを忘れるな】

 雪女の身体から、より一層強力な冷気が放たれる。クラスメイトは前髪に付いた霜を払いながら雪女に答えた。

「ご心配なく。僕はお前に恩など感じていないので」


 気が付けば、山小屋の前には誰も居なかった。

 そこには僕と、しゃがみ込むハカセくん、雪の上に散らばるガラクタのみがある。

 僕はふぅっと息を吐いた。その時、耳にバラバラバラという音が聴こえた。下駄の音でないことは確かだ。

 空を見上げると、遠くの方で一台のヘリコプターが飛んでいるのが見えた。

 次にハカセくんを見た。彼は黙って項垂れている。

「……帰ろっか。ハカセくん」

 そう言って手を伸ばすと、ハカセくんは顔を上げた。

 端正な彼の顔は、涙と鼻水と霜でぐちゃぐちゃになっている。

 僕を見つめるその目から、激しい後悔と謝罪の気持ちが受け取れた。

 僕はハカセくんの手を引き、立ち上がらせる。ふらつく彼に微笑み掛けると、彼は目を丸くした。

 雪女に出会った少年は後悔したかもれないが、少年の連れはそこまで後悔してないかもしれない。

 巻き込まれただけのものは手に入ったからまあいいや、ぐらいの気持ちかもしれない。僕は手に持った写真をポケットに仕舞った。

 感謝を伝えたくても伝えられない相手というのは、何も雪女に限った話じゃない。

 二人目の父親とは上手くいってるのだから。

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ある少年の邂逅 賽藤点野 @Dice-Daisuki

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