第8話 廊下で
「つかれた……」
「だからごめんって」
衣装の選び直しに予想以上に時間がかかってしまい、『スイレン』の廊下を翠は重い足取りで歩く。
対照的なのは蓮華だ。
彼女は翠に対して謝りながらも、その顔はホクホク顔で。
「なんか多いなって思ってたんだよな……」
「あははは……『スイレン』に通う回数が減るかなって」
蓮華のマンションの撮影部屋。そこのクローゼットに翠の衣装を置かせてもらっているのだが、今回のために蓮華は一緒に置いていた機材等を片付けたらしい。
そのおかげというべきか、そのせいでというべきか、翠が社長に呼ばれたのを良いことにちょっと魔が差してしまったというのが彼女の言い分だった。
たしかに、『スイレン』に行くには電車代もかかる。
翠としてもいくらお金は戻ってくるとはいえ、何度も交通費をかけるというのは気が重いものがあったので問題はない。それどころか助かるともいえる。
けれど、スイの女装衣装がスカートに変わるという事を天秤にかけられるはずもないのだ。
「…………」
「ごめんなさい」
ジトっとした視線を向ければ、蓮華が両手を合わせる。
本音を言えば複雑ではあるが、ずっと不機嫌でいるわけにはいかない。翠は軽く息を吐くと表情を弛緩させた。
「もういいから、今度はもう止めてくれよ?」
「あはは、分かったよ!」
「本当に?」
「う、うん」
スッと逸らされる視線。
「……なんかさ」
「ん?」
「蓮華って、恭平に少し似てきた?」
「え゛」
少女には似つかわしくない濁った声が漏れる。
前から思ってはいたのだ。
なんかこう、色々とやらかしてもどうにか許してくれるんじゃないか——そう思われているのではないかと。
一緒に動画投稿を始めて約半年。当初から少し強引なところはあったけれど、最近は強引というよりは事後承諾のような事が増えてきているのだ。
「今回の件も恭平がやりそうな手口だったし……もしかして、あいつに何か言われてる?」
もし、恭平が裏で手を引いているのであれば、それは怒らなければいけない。
ノートを写させるどころか、宿題を写すことを拒否するくらいはしなくてはいけないのだ。
「う、ううん、別に何も言われてないけど……」
「本当?」
「う、うん」
「…………」
翠はじっと蓮華の瞳を見つめる。
もしもあのバカに口止めされているならば、彼女が嘘をついている可能性があるからだ。
重なる視線。しかし、その眼差しから些細な変化も見逃さないように、翠はわずかに茶色の混じった黒目を見つめていって——
「ちょっ……」
「なんか言われたの?」
「ちょっと、近いって……!」
「へ?」
止まる。
よく見えるのは困ったような、それでいて慌てているような蓮華の瞳が横へ向く瞬間。そして、化粧がされている頬が僅かに朱を差した瞬間で。
「あっ、ごめん」
「…………」
すぐには慣れて謝るも、蓮華からの返答はない。
顔を俯かせ表情が見えなくなる彼女に翠は何と言っていいのか分からず、気まずい沈黙が漂う。
とはいえ、ずっとこのままでいるわけにもいかない——そう翠が口を開こうとした時だった。
「ほら励! 今日も配信するんだから早く!」
「ちょっと待ってよ……」
聞こえてきたのはどこか聞き覚えのある声。
わずかにくぐもったその声に、翠だけでなく蓮華も声の出どころへと目を向ける。
直後、翠たちの進行方向にある扉が開いた。
「まだ準備終わらないの!? カバン持つだけじゃない!」
「そう言ったって、お姉ちゃんが色々と広げたんじゃないか」
「あー聞こえない!」
扉が開かれたことで良く聞こえるようになった声に、翠は記憶に新しいその姿を思い出した。
同時に、扉によって隠れていた姿が徐々に露わになって。
「「あ……」」
二人の声が重なった。
固まる両者。翠の隣で視線を往復させる蓮華。
「知り合い……?」
「えっと……」
まさか朝に「キモイ」と言われた人なんて言えるわけもなく、翠は言葉を濁らせる。
当然、蓮華は不思議そうに翠を見るが——
「ああすいません、騒がしくしてしまって」
翠が答える前に、扉から出てきた少女がニコリと可愛らしい笑みを浮かべた。
「ここに所属している人ですか? というかそれ、うちの制服ですよね? まさか学校の先輩がここでの先輩になるなんて思っていませんでした」
「え、えっと……」
「あっ、すいません。ここにいたら邪魔でしたよね? 私たちはもう少し準備してから帰るんで、今度お話を聞かせてください」
「ぁ——」
「それじゃあ失礼しまーす」
——パタン。
流れるような言葉と動作で少女が扉の向こうに消える。
しんと静まり返った廊下で残されたのは固まった翠と、じっと翠を見てる蓮華の二人だけで。
「……翠くん、あの子知り合い?」
「えーっと、今朝会った子なんだけ……ど」
翠は蓮華へと視線を移すと、続く言葉を途切れさせた。
ニコニコと笑みを浮かべている蓮華。その笑みはいつもと変わらない彼女らしい笑みだ。
しかし、なぜだろう?
何とも言えない不安が翠の中を渦巻いてしまう。
「ふーん」
「………蓮華、何か怒ってる?」
「別に……さっきの子、可愛かったねって思っただけ」
そう言うと、蓮華は翠を置いてスタスタを歩き出した。
そんな彼女を翠はすぐに追って。
「ちょっと待ってくれよ。俺なんかした?」
「べつにー……」
結局、蓮華はマンションの前で分かれるまでそのままだった。
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