第6話 いらぬ誤解は伝わらない




 授業を終え、放課後。

 翠は蓮華と共に『スイレン』を訪れていた。


 撮影ではない。撮影は基本的に蓮華のマンションでおこなう形に変わっていて、『スイレン』で撮影するときは彼女のマンションに機材が無い場合に限られている。

 ただ、撮影の際に必要な翠の衣装——女装するため買い揃えた衣装をマンションに置くわけにはいかず、また、スペースも無いので『スイレン』の衣装部屋に置いてあるのだ。


 とはいえ、毎日通うわけにもいかないので、数着ほど彼女のマンションに置かせてもらっている。

 定期的に衣装部屋から衣装を持ち出し、交換する。

 今日はそのため『スイレン』に訪れていたのだが——


「……失礼します」


 扉を開け、閉める。

 それだけのはずなのに、やけに緊張してしまって気が重い。


 ただ、衣装部屋から衣装を選んで、蓮華のマンションに行くだけ。

 今日の予定はそれだけだったのだ。それが、一本の電話で変わってしまった。


「呼び出してしまってすまないね」


「いえ……大丈夫です」


 申し訳なさそうな声音に、翠は大丈夫だと笑みを作ってみせる。

 その視線の先、対面して座ることが出来るソファには星野 剛——『スイレン』の社長であり、蓮華の父が座っていた。


「どうぞ座って」


「——失礼します」


 促されるままソファに腰掛ける。

 その正面。ゆったりと座っている社長は、穏やかな雰囲気とよく似た優しい笑みを浮かべていた。


「えっと……ご用件というのは……?」


「ああ、その前にコーヒーでも入れようか」


 社長は腰を上げると、部屋の隅に置かれたコーヒーメーカーへ歩いていく。


「砂糖とミルクはどのくらい必要かい?」


「えと、ブラックで大丈夫です」


「分かったよ」


 機械が淹れる特徴的な音が響き、少しするとコーヒーの香ばしい匂いが翠の鼻に届く。

 だが、翠にはその香りを楽しむ余裕なんて無かった。

 社長からの呼び出し……それも、直接『来てくれないか?』と言われて、平常心でいられるはずもないわけで。

 

「…………」


 言いようのない不安を抱えながら待つこと数分。

 永遠にも感じられる時間の末に、社長は翠の正面に再び腰を下ろした。


「どうぞ」


「いただきます」


 カップに口を付ける。

 本来であればコーヒーの苦みを楽しむことが出来るはずなのだろうが、あいにく今は味を感じられない。

 しかし、味がしないなんて言えるはずもなく「美味しいです」と告げてカップを置けば、同じようにカップを置いた男はようやく重い口を開いた。


「……最近はどうだい?」


「……どう、とは?」


「いや、蓮華のマンションで撮影をするようになって数ヶ月経つだろう? 慣れてきたのかなと思ってね」


 控えめに目を逸らした社長に、翠は疑問符を浮かべてしまう。

 本音をいってしまえば拍子抜けもいいところだ。


 直接電話を貰って来てみれば、聞かれることは最近の調子の確認だった。

 散々身構えて、覚悟してきたのに、聞かれたことは……たったそれだけ。

 今日は別に撮影も無いが、夕食の準備など翠にだって予定はある。しかし、そのことを言えるはずもないわけで。


「おかげさまでだいぶ慣れてきました。ほんと、いつも星野さんには助けられていまして」


「そうかい? それなら良かった……」


 安堵の笑みを浮かべる社長。

 彼は、浮かべている笑みに困ったような感情を加えて。


「毎週、蓮華からは連絡を貰っているけれど、やっぱり一人暮らしは大変だからね。蓮華から言ってきたことだし、なるべく口を出さないようにしていたんだけど……」


 一息つき、コーヒーを一口。


「やっぱり心配なところもあるし、親だからこそ言えないこともあるだろう? 新学期も始まったことだし、君に様子を聞いておきたかったんだ」


 毎週連絡を取っていることは知っていたが、どうやら詳しい話はしていなかったらしい。

 とはいえ、翠だって撮影の時しか彼女の家にはいかないわけで、あまり詳しいわけではないのだ。

 唯一、翠が知っていることといえば——


「俺……じゃなくて、僕が知っている限りですけど……ちゃんとしていると思いますよ。家に上がらせてもらっていますけど、きちんと片付いています」


 やはり、一人暮らしをしている以上ある程度の家事は必要だ。

 掃除や洗濯……いままではしてもらっていたことも、一人となれば自分でやらなくてはいけなくなる。

 その点、彼女の家は普段から家事をしている翠から見ても片付いている。もちろん、彼女のプライベートなスペースには入ったことは無いのだが。


「食生活も問題ないですし……」


「そうかい……ん?」


 ふと、社長が声を漏らす。


「なんで蓮華の食生活まで知っているんだい?」


 突然変貌したかのように優し気な目を細く変えて、彼は翠のことを見据えた。

 同時に、翠は自身の失敗を悟る。


「えーと……」


「別に怒ってるわけじゃないんだ。ただ、蓮華が心配なだけだよ?」


 笑みは浮かべているが、翠を見つめる目は笑っていなかった。

 どうやら、蓮華は翠の家で食事をしていることを両親に伝えていないらしい。

 かといって、いまさら誤魔化すことなんて出来ないし、お世話になっている人に嘘をつくのも忍びないわけで。


「星野さん……食事は俺の家でしているんですよ。一人暮らしを始めたって聞いた母さんが誘って……俺も三人分が四人分になってもそう大変じゃないし、星野さんにはお世話になっているので……」


「そう、か……」


 ……怒られる。


 重々しく呟かれた言葉に、翠はわずかに身を固くする。

 人様の娘を勝手に家に招待していたのだ。怒られても仕方が無いかもしれないが、翠にとっては巻き込まれたという心情に近い。

 しかし、何も言わないでいたという事実もあるため、翠は続く社長の言葉を待つことにした。


「大丈夫……怒ってはいないよ」


 苦笑と共に届いた声。

 その声にわずかに下げていた視線を上げれば、社長は困ったように微笑んでいた。


「もちろん、蓮華には後で話は聞かないといけないけど……君は蓮華のためを思ってやってくれたことだと思うからね。そんな君を怒るわけにはいかないよ」


「そうですか……」


 ホッと一息。

 しかし、安心したもの束の間、社長は再び表情を引き締めた。


「……でも、蓮華の食事の面倒を見てくれてるなら、その分の金額を払わないといけないね」


「俺は問題ないですよ」


「そうはいかない。娘の我が儘に君の家を巻き込むわけにはいかないからね。そうだな……毎月の給料に上乗せしておくとしようか」


「……すいません」


「うん、こんな娘だけど、よろしくお願いするよ」


 社長の表情から断れないと察して頷けば、彼は満足そうに笑みを見せた後一礼する。

 翠としては目上の人に頭を下げられるのは落ち着かないが、これも礼儀なのだろうと無理やり納得することにした。


「——っと、そろそろ時間がまずいかな? すまないがここまでにしよう。こちらから呼んでおいて申し訳ないけれど……」


「いえ、大丈夫です」


 時計を確認して申し訳なさそうに眉を下げる社長に、翠は笑みでもって応えた。

 こう言ってしまうのは申し訳ないが、社長と二人きりというのは意外と胃に悪いのだ。


「それじゃあ、失礼します」


 一礼して席を立つ。

 そして、部屋を出ようと扉に向かう途中。


「あと一ついいかな?」


「はい?」


 背後からかけられた声に、翠は一度足を止めて振り返る。

 すると、声をかけた本人は翠のことをまっすぐに見つめていて。


「……あまり二人きりだからって、羽目を外しすぎないようにね?」


「……? 分かりました」


「よろしい」


 安心したように笑みをこぼす社長。

 そんな彼に翠は再び一礼して、部屋を後にした。


 そして、扉を閉めた後で——


「勉強を疎かにするなってことだよな……? でも、なんでいきなり……?」


 社長の言葉の意図が分からず、首をかしげるのであった。

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