気まずい食卓④ 【蓮華編】
「大丈夫か? はい水」
「んん……あ、ありがとう」
渡された水を飲んで一息つくと、水の冷たさが痛みを麻痺させて、少しずつ痛みが引いてきた。
すると、同時に燻っていた翠への不満も落ち着いてきて、周囲の状況が見えてくるようになる。
「ふふふ……」
「…………」
笑みをみせている母と黙ったままの弟。
しかし、その表情に微笑ましいものを見ているような……そんな様子を感じるのは気のせいだろうか?
翠を見るも、彼は気が付いていないようで心配そうに蓮華の事を見ていた。
「ふぅ……」
……一度、心を落ち着けよう。
蓮華は少しだけ長く息を吐き出すと、あわせて目をゆっくり閉じる。
結局のところ、蓮華が一人で慌てているだけなのだ。
「今度から晩御飯はうちで食べるようにしたら?」と言われて時も。
「あなたたちって……名前で呼び合ってるのね?」と言われた時も。
それに、翠に「それだけだよ」って言われた時も……。
蓮華が一人で動揺して、そのせいであらぬ誤解を招いているかもしれなくて。
誤解されるのが嫌じゃないというか、誤解じゃない関係性を望んではいるのだけれど、今はそうじゃないのだ。
今までの自分の勇気の無さを恨みながらも、蓮華は心を落ち着けようと試みた。
(落ち着け私……テンパってるのは私だけ……翠くんも普通だし……今は碧くんに動画の事がバレないようにしないといけないから……)
その間、三秒程。
そうして蓮華は目を開くと、ごく自然体を装って翠に微笑みかけた。
「うん、ありがとう。落ち着いた」
「そう? なら良かった」
「ふふふ、慌てなくていいからね。ご飯はいっぱいは——無いかもしれないけど、蓮華ちゃんがお腹いっぱいになるくらいはあるから」
「だから母さん。それは俺のセリフだって」
翠の微苦笑。
「そんな固いことはいいでしょう? 今は蓮華ちゃんにうちでご飯食べるか聞いてるの。で、蓮華ちゃん? うちでご飯食べるお話はどう?」
両手を合わせ、少しだけ首を傾ける翠のお母さん。
蓮華としては嬉しい提案であり、これをきっかけに翠との距離も縮まるかもしれないので万々歳だ。
だが、一つ懸念点がある——それは、碧のこと。
一緒にご飯を食べるということは、それだけ彼に翠と一緒にいる姿を見られるということである。それは、翠=スイというのがバレてしまう可能性が高まってしまうということだ。
蓮華が無意識に碧へ視線を動かせば、それを察した母が「ああ」と何か納得したかのように手を叩いた。
「そういえば、碧に聞いてなかったわね? どう? 碧は嫌?」
「…………別に、いいけど……」
少し詰まったような声音の碧。
その様子に、蓮華はやっぱりバレてる? と不安になるが、その答えを探る前に翠の母が口を開いた。
「そう? よかったわ」
嬉しそうに微笑む。
続いて向けられるのは期待が込められた眼差し。
「で! どーお?」
「…………」
身を乗り出して、キラキラと輝かせて蓮華を見る眼差しに、蓮華はスッと視線を逸らした。
(どうって言われても……)
本音は「はい! お願いします!」と頷きたいのだ。
でも、やっぱり碧がスイという存在を知ってしまっているというのがネックなのである。
(っていうか、なんで私だけこんなに悩んでるの……?)
そもそもだ。
一番正体がバレたくないのは翠なのではないだろうか?
当の本人は自分の作ったご飯を口にしていて、今の状況をキチンと理解しているとは思えない。
(翠くんがバレたくないんだよね? ちょっと迂闊すぎない?)
蓮華がいるから大丈夫だと思っているのか。それとも、完全に失念しているのか。
前者であれば信頼の証とも取れて少し嬉しいかもしれないが、蓮華としては苦労が絶えないわけで。
(あー! もう! バレても仕方ないんだから!!!)
悩むのが億劫になってきて、蓮華は心を決める。
(翠くんがいけないんだからね! 私は悪くない!)
蓮華はいまだに身を乗り出して答えを待つ翠の母と目を合わした。
「じゃあ、お言葉に甘えさせてもらいます」
「そう! よかったわぁ! これからよろしくね!」
「あはは、こちらこそよろしくお願いします」
凄く嬉しそうな翠の母に、蓮華は小さく頭を下げる。
そう、これは仕方ないのだ。
ここまで期待されてしまうと断りにくいとか。
碧が了承してしまったからとか。
翠が断らないのがいけないだとか。
(私が翠くんとご飯食べたいっていうわけじゃ——ない!)
これは仕方ないこと。
もし、毎日一緒に食事して翠との距離が縮まっても。
もし、一緒に買い物に行くことになったりしても。
もし、それがクラスメイトに見られて噂になってしまっても。
それは、翠や翠のお母さんが誘ってくれたからであって、蓮華が悪いわけではないのだ。
そう自分の欲望をねじ伏せて、蓮華は止めていた箸を伸ばす。
「み、翠くん、これからよろしくね?」
「ん、わかった」
口に入れた煮物は、ちょっぴり味がしなかった。
「うん、ここまでで大丈夫だよ」
「そう?」
気まずくなったり、恥ずかしくなったり、緊張した夕食を終えて。
夜の道を二人で歩いていた蓮華は笑顔で振り返った。
「うん、送ってくれてありがとう。マンションももうすぐだし、ここまでで大丈夫」
「そっか……でも、短い距離でも気を付けろよ? この辺りは街灯が少ないから、車とか来ると危ないし」
「あはは! ありがとう、気を付けるね!」
もともと蓮華の引っ越してきたマンションは翠の家のすぐそばだ。
それなのに、彼はここまで送ってくれて、さらには心配までしてくれる。
そんな翠の温かさに、蓮華は頬をわずかに染まっていた。
「じゃあ、明日から夕飯が出来たら連絡するから。そしたらうちに来て」
「うん……」
「それじゃあ、俺は戻るよ。蓮華も気を付けて」
「……分かった、ありがとう」
フッと柔らかな笑みをみせた翠は踵を返すと、ゆっくりと歩き出す。
カツカツとアスファルトを叩く音が響き、翠の背中が遠ざかっていく中、蓮華は意を決して口を開いた。
「み、翠くん!」
「うん? どうしたの?」
「えっと、えっとさ……」
視線を彷徨わせながら……悩む。
言ってしまっていいのだろうか?
断られないだろうか?
そんな不安が蓮華の口を重くして、続く言葉を出無くしてしまう。
けど、言葉にしなければ始まらないのだ。
不思議そうに首をかしげる翠。
彼に見つめられながら悩んでいた蓮華は、一度大きく息を吐き出して心を落ち着かせる。
そして、再び意を決した。
「買い物に行く時さ、一緒に行っていい? ……ほら! 一人暮らし始めたから色々と必要な物も出てくるだろうし」
……我ながら決意が弱い。
続いて出てしまった言い訳のような言葉に、蓮華は心の中で涙を流す。
「……どうかな?」
「…………」
若干の上目遣いで翠を見れば、数少ない街灯で照らされていた彼は少し驚いたような顔をしていて。
「なんだ、そんなことか」
「え?」
「なんか畏まってたから、悩みでもあるかと思ったよ」
フゥと、心底安心したように笑みを浮かべた。
「そんなの全然大丈夫だよ」
「ほんと?」
「うん」
翠は頷くと蓮華に背中を見せる。
「じゃあ、買い物に行くときは連絡するから」
そう言い残し、翠は家へと帰っていく。
そして、彼の姿が見えなくなるまで見届けていた蓮華は——
「やった!」
そう、小さくガッツポーズをした。
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