第3話 目も合わせず




「ただいま……」


 両手にエコバックを携えて、翠は『スイレン』から帰宅した。


 翠が『スイレン』で何をしていたかといえば、社長である星野の父に「二か月程続けてきてどうだい? 蓮華に無茶ぶりされてないかい?」と聞かれ、それに答えただけだ。

 質問の真意は分からないながらも「だいぶ助けてもらってます」と返したが、彼は「そうかい」と嬉しそうに頷くばかり。

 後で来ると言っていた星野とも会えず、謝ることが出来ないまま帰宅することになってしまった。

 何事かと不安に駆られていた翠の時間を返してほしいほどだ。


(なんか上手くいかないな……)


 何かモヤモヤとしたものを抱えながらリビングへ向かう。

 すると、リビングを仕切る扉の磨りガラスから光が漏れていた。


(母さんかな?)


 母が帰ってくるのには少しばかり早い時間だが、今日は早く上がれたのかもしれない。

 そんな風考えながら翠はドアノブを回す。

 隙間から流れ出てくる空気は暖かく、どうやら照明を消し忘れたわけではないようだ。

 そうして、翠が扉をくぐると——


「「あっ」」


 二つの声が重なった。


 一つは、男子なのに少し高めな声——翠だ。

 そしてもう一つは、翠よりも低めだが一般よりは少し高い——碧の声。


 お互いに存在の知覚し、認識もする。

 しかし、その眼差しは重ならない。


「「…………」」


 何も告げることなく、翠はキッチンへ。

 そして、碧もスマホへ視線を落として何も発さない。


 いやな沈黙が漂う中、買ってきた食材を冷蔵庫にしまう翠。

 続いて夕食の準備を始め、その途中で。


「ただいまぁ」


 少し間延びした声が扉の向こうから響いてきた。

 その後、トテトテといった音が近づき、扉が開かれる。


「たーだーいーまぁー」


 さらに間延びした声。

 その声の主である母——裕子は、リビングの現状にキョトンとした表情を見せると、次第に困ったような笑みに変える。


「まだ二人とも機嫌悪いの? 兄弟なんだから仲良くしなくちゃだめじゃない」


「「…………」」


 二人とも無言。

 すると、彼女の優しそうな瞳が細められた。


「へぇ、そういうことするんだ……」


「ぼ、僕は勉強があるから……」


 母の雰囲気が変わった直後に席を立つ碧。

 彼はすり抜けるように彼女の横を通り抜けていく。


「……ご飯は後で貰うよ」


 そう言い残し、リビングの扉が閉じられた。

 その様子を見届けた裕子はため息。


「まったく……で? 朝は時間が無くて聞けなかったけど、なんで朝から喧嘩してたの?」


 腰に手を当て、翠を見つめる母。

 有無を言わない真っ直ぐとした眼差しに、翠は深く息を吐き出して。


「えっと——」


 調理する手は止めず、一つ一つ話し始めた。




「ふー……あの子ったら」


 話を終えた翠が調理に専念し始めると、裕子はため息と共に肩をすくめた。


「でも翠も悪いよ。あの子だって頑張ってるんだから、あまり重りになることはしちゃダメ」


「分かってるよ」


「いいや、分かってない」


「だから分かってるって! あっ……」


 思わず出てしまった大声に、翠は気まずくなって目を伏せる。


 朝と一緒だ。

 意図していないところで人を傷つけてしまう。


 再び自己嫌悪に駆られ、翠は視線を彷徨わせる。

 そして、伺うようにその視線を母に向けると。


「もう、翠は真面目すぎ。そんなに頑張ってたら疲れちゃうでしょ?」


 彼女の表情は仕方ないと言わんばかりに笑っていた。

 叱られても仕方が無いはずなのに、裕子は翠を叱ることなく座っていた椅子に寄りかかる。


「ほどほどに力を抜かないと。碧だって息抜きは必要だよ?」


「母さんはのんびりしすぎなんだよ……」


「ふふふ、それが私の長所だからね」


 少し大きめな胸を張り、ドヤ顔の母。

 その気の抜ける雰囲気に、いつの間にか翠は毒気を抜かれてしまう。


「翠が頑張ってるのは分かってるから……碧も頑張ってるのは分かってあげて」


「それは俺も分かってるよ」


 喧嘩の理由は些細なことだ。

 それは、碧のテストの点数が下がっていたから。


 碧も中学二年生……嫌でも受験を意識しないといけない。そして、碧には良い学校に行って、良い将来を掴んでほしい。

 翠だって頑張っているのは知っているのだ。


 もっと友達と遊びたいだろう。

 もっと趣味の時間が欲しいだろう。


 それでも、翠が勧めたからという理由だけで塾に通い、少し前の文化祭で会った時のように、進学校を目指して頑張ってくれている。


(どうかしてたな……)


 日々の忙しさに、少し神経質になっていたのかもしれない。


(後で碧の謝ろう)


 そう心に決めたところで、翠は夕食の準備を終えた。

 あとはテーブルに並べるだけだ。


 翠が振り返ると、その表情を見た母が笑みを見せる。


「分かってくれたみたいね」


「もう分かってるみたいに言うのは止めてよ——ん?」


 ふと違和感を感じて、翠はその正体を探るため母の元へ。


「母さん、少し顔が赤くない?」


「えっ?」


 驚いたような顔をする母。

 しかし、勘違いではない。


 暖房が効いていたので帰ってきた時には気づかなかったが、母がリビングに入ってきてからそれなりに時間が経っている。

 それでいて、いつもより顔が赤いのだから——


「風邪? 熱は? 調子悪くない?」


「えー、少し頭が痛いけど、大丈夫だから」


 近づいていく翠に対し、母は微苦笑で返す。

 だが、これで分かった。


「やっぱり体調悪いじゃん。ダメだよ休んでなくちゃ……食欲は? おかゆでも作ろうか?」


「そこまでは大丈夫だから」


「そう? なんかあったら言ってよ? とりあえずご飯はできてるから、食べたら薬飲んで休んで。後の事は俺がやっとくから」


「ごめんねぇ」


「いいんだって。家族なんだから」


 翠は振り返ると、出来上がった料理を運び始める。

 そして、並べ終わった後は、母の看病に努めたのだった。




 夕食を終え、母が部屋に入るのを見送った後。


「ふぅ……これで終わり」


 食器を片付け終え、手の水気を拭き取った翠はキッチンに背を向けた。


 目に入るのは、テーブルの上に置かれた夕食。

 ラップがかけられたそれは、碧の分の夕食だ。


 結局、碧は夕食に顔を出さず、翠と母の二人の夕食になってしまった。

 そのことに不満は感じるものの、喧嘩をしてしまった翠が悪い。

 そう考えることにして、翠は自身の心を納得させる。


「よし、じゃあお風呂に入って勉強でもするかな」


 次にやることを決め、リビングを出る。

 そして自室に向かって歩いていると、廊下の最奥、碧の部屋の扉が開いた。


「「あっ」」


 再び重なる声。

 しかし、先程とは違う。


 翠は自分の考えを改め、碧に謝ろうと決めているからだ。

 お互いに歩みを進めたところで、翠は声をかけようと手を持ち上げる。


「碧、朝のことなんだ——」


「…………」


 気付いた時には碧が翠の隣を通り抜け、リビングの扉が閉められていた。


「け……ど…………」


 足音が消えた廊下で、翠は上げかけていた手を落とす。


 ……これも全部俺のせい?

 ……碧に悪いところはないのか?


 自分の心に湧いたどこか黒い感情。

 それは、家族に向けてはいけない感情だ。

 それどころか、誰にも向けていいものじゃない。

 

 翠は息を吐き出して気持ちを整えると、何度も頭を振る。


「……お風呂入ろう」


 一人だけになった廊下でポツリと呟いた。

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