スイの料理教室 ③




「はい……じゃあ、ここからはレンにも参加してもらいます」


 手早く皮剥きを終えた翠は、包丁を置くと顔を上げた。


 野菜はキレイにまな板の上に並べられており、片付けの時のことも考えて、むいた皮もすでにキッチンの端に除けてある。

 つまり、あとは野菜を切るだけ。


 ……さすがの星野も野菜を横には切らないだろう。


 翠はまな板から離れると、彼女の方を見た。


「じゃあ、やってもらうけど大丈夫?」


「……はい」


 星野は若干しゅんとしていた。


 傍から見れば大人しく翠の作業を見届けていただけかもしれない。

 しかし、翠には活発な彼女の雰囲気に影が差し、元気の象徴のようだったポニーテールは力が無く垂れているように見える。

 その姿は撮影中だからと強がっているようだ。


 ……少し強く言ったのがそこまで効いてしまったのだろうか?


 ただ、先程の翠の注意は安全のために必要なものではあるのだ。

 とはいえ、ここまで落ち込まれるのは心苦しいわけで。


「えっと、さっきは強く言い過ぎた……ごめん」


「え!? いいのいいの、気にしないで!」


 翠が謝罪を口にすれば、星野は慌てたように笑顔を取り戻す。


「さっきのは完全に私が悪かったしね。ここからはちゃんとやるから……皆も見ててよ! ここからは本気だから!」


 気合を入れ、カメラに向かって笑顔を見せる星野。

 彼女はその勢いでまな板の前に立つと包丁を手に取った。


「よし! まずはジャガイモを切っていくよ!」


「はい、ちょっと待って」


「えー……」


 いざ開始というところで止められ、星野はジトっとした目を翠に向けた。

 彼女の表情は明らかに不満げだが、いま翠は教える立場なのだ。これを指摘しないわけにはいかない。

 翠は彼女の隣へ。


「その手の形じゃ危ないから。猫の手って聞いたことない?」


 ジャガイモを持つ星野の左手。

 押さえるためだとは思うが、彼女の指が伸ばした状態で切ろうとしていたのだ。

 このままだと自分の指を切りかねない。それを指摘すれば、彼女は「あっ」と思い出したかのように声を漏らした。


「そういえば聞いたことあるかも……こんなやつだよね」


「そうそう、それで合ってる。それで押さえて切るの……じゃあ、それでやってみて」


「わかった」


 翠が一歩下がったところで、星野がジャガイモへ視線を固定。

 押さえる手は翠の言った通りに猫の手になっており、翠が安心したのも束の間——


 ——ダンッ!


 野菜を切るには少しばかり激しい音が鳴り響いた。


「……レン、ちょっとストップ」


「えっ?」


 再び止めると、星野が顔だけを振り返させる。

 その表情は「何で止めるの?」と言わんばかりだ。


 ただ、ちょっと待ってほしい。

 翠にだってちゃんとした理由があるし、これは直した方が良いと思ったから止めたのだ。

 そもそも野菜を切るのにあんなに激しい音は鳴らない。それなのに鳴るということは、それだけ無駄な力を入れて切っているということなわけで。


 ……もし、手が滑ってジャガイモが転がってしまったら?


 丸いジャガイモだからこそ可能性は考えられるし、その時は大怪我をしてしまうかもしれない。

 とはいえ、口で言っただけでは感覚は掴めないだろう。


(星野には悪いけど……)


 翠は不満げな目で見つめてくる星野へ一歩近づくと、背後から彼女の両手を取った。


「ええっ!?」


「ほら、危ないから落ち着いて」


 驚いて動こうとする星野を抑え、翠は彼女の両手を操ってまな板の方へ。

 そのまま左手でジャガイモを押さえさせ、右手を動かして包丁をあてがう。


「切るときは下に向かって押すんじゃなくて、横にスライドさせる。そうするとスッと切れていくから」


 翠が右手を動かせば、室内にトンという音が響く。


「あとさっきは猫の手って言ったけど、別にそれにこだわらなくて大丈夫。大事なのは指を包丁と垂直にしないことだから」


 星野の手の甲に自身の手を重ねさせ、少しだけ指を広げると、その指でジャガイモを押さえさせる。

 そしてもう一度、トンと音を鳴らした。


「指は包丁と平行に……こうすればさっきより抑えやすいでしょ? まず怪我をしないことが一番だから」


 同じ要領で何度かジャガイモを切り、その度にリズミカルな音が広がる。


 ……これだけ繰り返せば感覚を掴めただろう。


 翠はジャガイモを一つ切り終えたところで、星野の手を離すと隣へ移動した。


「じゃあ、今度は一人でやってみて」


「…………」


「レン?」


「………………て…………られたぁ……」


「手?」


 顔を俯かせて何か呟いている星野。

 どうやら翠の声は聞こえていなかったらしい。

 翠も彼女の言葉は上手く聞き取れなかったが、顔を赤くしているその様子を見れば何かがあったのは明白なわけで。


「レン、何かあった?」


 翠は少しだけ顔を近づけさせて、横から覗き込むように星野の顔をうかがった。

 すると顔を近づけさせたおかげか、顔を俯かせている彼女の「え、やばいってぇ……」という言葉が聞こえてきて。


「何がやばいの?」


「えっ?」

 

 素直な翠の問いに、星野がついに反応。

 彼女はキョトンとした表情で、下に向けていた視線を翠へ移動させていき。


 そして、目が合った。


「ひゃあ!?」


「レン!?」


 可愛らしい悲鳴を上げ、俊敏な動きで後退あとずさった星野。

 包丁を持ったまま動き出した彼女に翠は目を剥くが、幸い彼女が手に持つ包丁は何も傷つけることは無かった。

 とはいえ、彼女の様子がおかしかったのは明らかだ。


「大丈夫?」


「だ、だ大丈夫大丈夫! ほ、ほら、早く続きをしよ!」


 声をかけるも、星野は慌てた様子で元の位置へ。

 そして、少しぎこちなくも翠の教えた通りにジャガイモを切り始めた。


 トン……トン……と、ゆっくりではあるけれど一定の間隔で音が響く。

 そんな彼女の後ろで。


(今は声をかけない方がいいかな)


 先程の理由は分からないものの、彼女の様子がおかしくなったのは翠が声をかけたのが原因だろう。

 それなら、余計なことは言わない方がいい。

 翠はそう判断すると、そっと彼女の調理を見守った。

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