それはある日の悲劇 【翠編】




 それは、ある日の夜のこと。


「うーん、やっぱり挨拶がなぁ……」


 翠は自室でスマホと睨めっこをしていた。

 見ていたのは先日の生放送の動画。

 

 いくら生放送だとしても、何台ものカメラに囲まれていたとしても、始めの挨拶が疎かになってしまってはいけないのではないか?

 数日経ち、そんな疑問を持ってしまったのだ。

 そうして先日の動画を見返してみれば、あまりにも酷い自分の挨拶にがっかりと肩を落としてしまう。


 たかが挨拶。されど挨拶。

 でも、一番大事な事だ。


「何とかしないとな……」


 仕事な以上、自分が出来ることなら逃げずにやり遂げたい。

 それは、翠が星野を手伝うことを決め時に。さらには、仕事として請け負うことを決めた時に決心したこと。


 時々できていない時もあるけれど、それを言い訳にはしたくない。


「えーと、碧は……」


 部屋の壁へ視線を移す。

 その視線の先、壁の向こうは碧の部屋だ。

 それにアパートの壁は薄い。少し大きな声を出せば聞こえてしまうだろう。

 しかし、今は時間的に塾に行っているため一時間は帰ってこないはずだ。


「次は」


 今度は視線を反対側へ。


 耳をすませば、微かに聞こえてくる水の流れる音。

 この壁の向こうはお風呂になっているため、おそらく今は母が入っているのだろう。


「これなら大丈夫かな?」


 練習しているところを誰にも見られたくない。

 そして、今は練習するには最適なタイミングだ。

 幸い、撮影した後のため髪は綺麗なまま、メイクは落としているけれど挨拶の練習をするには問題ない。


 翠は立ち上がると、最近使うことが増えた姿見の方へ。

 そのまま姿身を持ち上げると、先程まで座っていた机の脇へ移動させた。


「よし!」


 座った後に深呼吸。

 一人で挨拶の練習をするのには恥ずかしさがあるが、それも吸って吐いてを繰り返せば落ち着いてきた。


 姿見に向き直り、短く息を吐き出す。

 そしてすぐに息を吸うと、ニッコリと笑みを浮かべ。


「スイです!」


 翠は練習を始めた。




 そこから少し経って。


「スイだよっ! うーん、やっぱり違うかな……?」


 星野の真似をしてみたり。


「スイです」


 落ち着いた雰囲気で試してみたり。


「皆さんこんにちは。『Water lily』のスイです!」


 自分一人で挨拶することを想定して、最初から言ってみたり。


 色々な形を試してみて、その度に自分なりに反省点を洗い出していく。


 星野の真似は違和感が凄かった。

 落ち着いた言い方は良いには良いが、どこか元気のない感じがしてしまう。

 一人での通しは星野がいない分、どこかが違う。


「うーん……なんだかなぁ」


 腕を組み、唸ってみても答えは出ない。

 そんなことは分かっているけれど、納得できない以上、どうしようもない。


「もっと色々と試してみるしかないかぁ」


 試してみるだけならタダなのだ。

 それならやらないと損だろう。


 翠は腕組みを解くと、キッと姿見を睨みつける。

 そして、すぐにその表情を笑顔に変えて。


「皆さんこんにちは! 『Water lily』の——」


 イメージは星野の挨拶。

 彼女の明るさを真似し、この後は自分の名前を——


「翠、お風呂あがったわよ」


「スイだよっ!」


 告げる一瞬前、扉が開き、母が顔を覗かせていた。


「…………」


「…………」


 固まる母。

 固まる翠。


「えーと、お母さんは何も見てないから……」


 そんな中、母はスウッと覗かせた顔を引っ込めると。


 ……パタン。


 ゆっくりとした動作で扉を閉じた。

 その数秒後。


「ちょっ!? 話を聞いてぇぇぇ!!」


 翠はすぐに母の後を追いかけた。




 *   *   *




「まあ、そうだったの」


「そうなの!」


 母を追いかけて事情を説明した翠。

 肩で息をしている翠に対し、母はおっとりとした様子で頷いていた。


 高宮 裕子


 翠の母であり、碧の母だ。

 彼女は翠と似た艶のある黒の長髪を揺らし、座っている椅子に寄りかかる。


「翠ってそっちの趣味なのかと思ったわ」


「そっちってどっち!?」


「そっちって、そりゃあねぇ」


 頬に手を当てて、少しばかり首を傾ける母。


「翠って昔は女の子の格好をしてたからねぇ」


「え゛」


 母の言葉に、翠は顔を引きつらせた。

 しかし、彼女は気にせずに言葉を続けていく。


「大きくなってくるとしなくなったけど、小さい頃はみんなが可愛い可愛いってかわいがってたからねぇ……だから翠もその気になってたのよ」


「嘘だろ……」


 小さい頃とはいえ、自分がそんなことをしていたとは……


 全く覚えの無い記憶に、翠は愕然として項垂れる。

 それも、まさか自分が小さい頃にはすでに女装を経験しており、さらには自分から進んで女装していたなんて……


「う、嘘でしょ……?」


「嘘じゃないわよ」


 震える声で問いかけてみても、その答えは変わらないらしい。

 翠が肩を落とすと、母は「それよりも」と少しだけ身を乗り出した。


「本当にそっちの趣味じゃないのよね? そうしたらお母さんも受け入れないといけないか——」


「違うって言ってるじゃん!」


「本当?」


 疑うような視線の母。

 しかし、翠としても疑われるのは嫌なわけで。


「本当だって! 女装させられてたのだって気付かなかったからだし……今もしてるのは、バレると一緒にやってる子に迷惑が掛かるからだから!」


 肩を大きく上下に揺らし、まくし立てるような弁明を終える。

 その勢いに母は目を閉じ、体を後ろにそらしていたが、やがて椅子に座りなおすとゆっくりと口を開く。


「それならいいんだけどね……ほら、翠ってあまりわがまま言わないでしょ? それに、アルバイトに家事もしてもらっちゃってるしね」


 申し訳なさそうに眉を歪める母。


「だから、新しい仕事を始めるって言われた時、少し心配だったけど、安心もしてたのよ?だって翠すごい嬉しそうに話すんですもの」


「母さん……」


 そんなことを思っていたなんて……


 優しい笑みを見せる母に胸が熱くなる。

 普段ゆっくりと話す機会があまり無かったけれど、今後は少し気にした方がいいかもしれない。

 翠がそんなことを考えていると、母はニコリと笑みを向けて。


「だから、お母さんは応援するわよ。だってあなたがやりたいって思ったことだもんね」


「ん?」


「さっきのも練習していたんでしょ? 大丈夫! お母さん分かってるから」


「んん?」


 どこか優しさを感じる母の声色に違和感を感じ、翠は首をかしげる。


 ……あなたがやりたい?

 ……分かってるから?


 嫌な予感が頭によぎる。

 そんな翠を他所に、母はポケットからスマホを取り出して。


「女の子の格好が好きだからって、翠は翠だもんね。大丈夫大丈夫……」


「だから違うって!?」


 スマホを手に持った母の姿に、ギョッと翠は目を剥く。


 ……いったい何をしようとしているのか?


 そんな疑問を母にぶつけようとするけれど、その前に——


「まずは碧に相談しないとね……あとはどうしたら……?」


「ちょっと待てぇぇぇ!!!」


 スマホの操作を始める母を、翠は必死になって止めた。

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