1年目
3話、人肌程度とは
家の前まで戻って来ると、外からでも捨て子の泣き声が聞こえてきた。やはり相当うるさい。早く泣き止ませないと、魔物や獣が群がって来そうだ。
扉を開けてみれば、そのやかましさが倍増した。より鮮明に耳に入り込んでくる。中に入って扉を閉めると、より一層うるさくなった様な気がした。
「とりあえず粉ミルクを作らねば」
腹が満たないと何をしても泣き止みそうにないので、捨て子をあやす事なく無視をする。
買ってきた物をテーブルに並べるついでに、赤ん坊を育てる順序が記された本に目を通す。
ひとまず粉ミルクを与えないといけないので、それが記された箇所を開く。ざっと流し読みしてみると、下準備から細かく書かれていた。
「器具の煮沸消毒、か」
本の指示通り、煮沸消毒を始める為の準備をする。鉄の大釜を二つ用意し、一つは煮沸消毒用。もう一つは粉ミルクを作る用に分け、水を流し込んでいく。
煮沸消毒用の大釜に器具を全て放り込み、指を鳴らして魔法で炎を灯す。温度は約百二十℃ぐらいにしておけば、問題ないだろう。
その間に粉ミルクを作らないといけないので、念の為に温度を確認する。人肌程度の温度だとは知っていたので、約三十六、七℃だろうと予想するも、本は私の予想を裏切る温度を記していた。
「約四十℃だと? 獣人族ならまだしも、並の人間だと死にかねない温度じゃないか。……獣人族用の本じゃないだろうな?」
本の表紙を確認してみると、人間の赤ん坊の絵が描かれている。なら、間違いない。八十年もの月日が流れたせいで、人肌の温度も変わってしまったのだろうか?
早々に出鼻をくじかれるも、粉ミルク用の大釜にも同じ様に炎を灯す。四十℃ピッタリだと心許ないので、四十二℃程度にしておく。
火加減は感覚で分かる。新薬を開発する際にも、一℃の誤差で薬の効果がまるで変わってしまうので、一番気を付けている所だ。
そう言えば新薬の副作用により、肌で温度を感じ取れなくなってから、七十年以上も経っている。
今まで特に困りはしなかったものの、これから色々と四苦八苦するかもしれない。
いや、そこまで捨て子を育てるつもりはないんだ。余計な考えはやめておこう。どうせ長くない命。半月も持つまい。
水面が落ち着いている大釜を気に掛けつつ、未だに泣いている捨て子に目を向ける。私が見つけてから此の方、一度も泣き止んでいない。
このまま放置していたら、ずっと泣き続けているのだろうか? 誰にもあやされる事なく、未来永劫、死ぬ瞬間まで。
捨て子に近づいて顔を覗いてみた。大粒の涙を流し続けていたせいか、顔はビチャビチャ、元から着ていた服も濡れている。
別に可哀想だとか同情する気は一切ないが、顔を清潔な布で拭き、購入した替えの服に着せ替える事にした。
「動くな、ボタンが外しにくい」
前に留めてある六つのボタンを外そうとするも、捨て子がうねうねと動くせいで、やたらと外しにくい。まだ動く元気があれば、粉ミルクは必要ないんじゃないだろうか。
やっと全てのボタンが外れたので、捨て子の体を風魔法で宙に浮かし、サッと服を脱がす。
そのまま木のカゴに戻し、糞尿をしていないかも確認する為、おしめを取り外した。
「む。お前、女か」
おしめを取り外した事により、やっと性別の判別が出来た。店では適当に言ってしまったが、どうやら当たっていたみたいだ。
糞尿はしていないが、購入した物を使いたかったので、ついでにおしめも変える。この時もうねうねと動いているせいで、それなりに苦戦した。
おしめを変えて、服も変えた。だが一向に泣き止まない。新しい服を汚したくないので、溢れ出てくる涙を、また清潔な布で拭き取る。
「こんなに小さな体から、どれだけの涙が出てくるんだ?」
私が捨て子を拾ってから、既に二時間以上は経過している。そろそろ脱水症状でも起こすかもしれない。捨て子を目で捉えながら、二つの大釜がある所に歩んでいく。
二つ共指定した温度まで上がった様なので、指を鳴らして炎を消した。煮沸消毒した器具を魔法で浮かせて冷ましつつ、粉ミルクを作る作業に入る。
その前に、正確な粉の量が知りたかったので、再び本に目を戻した。
「四杯から八杯程度……。やけに曖昧な量だな」
本に記されたあやふやな指示に従い、冷めてきた器具を清潔な布で水気を取り、粉状の乳を四杯入れる。
そして、約四十℃まで下がったであろうお湯を三分の二まで注ぎ、蓋をした。
「振って粉を溶かし、更にお湯を足し、粉ミルクの温度を確認してから飲ます、か」
当たり前の事しか記されていないが、最後の温度確認だけはどうにもならない。新薬の副作用のせいで、肌で温度を感じ取れなくなってしまったから。
ここだけは仕方ない。やや熱いか、温い物を飲ませるしかないようだ。多少の誤差なら問題ないはず。
粉が完全に溶け切った事を目で確認し、更にお湯を注ぎ足し、蓋を閉めれば粉ミルクの完成だ。さっさと飲ませて泣き止ませよう。
「飯だ、飲め」
粉ミルクが入った容器を捨て子の前に持ってくるも、反応するどころか泣き止む気配すら見せない。
無暗やたらと口の中に突っ込むのもどうかと思い、口の中に一滴だけ粉ミルクを垂らした。
「ふぇ……」
「飲め」
粉ミルクに気が付いて泣き止んだ捨て子が、早く寄こせと言わんばかりに、粉ミルクが入った容器に両手を差し伸べてきた。
口元まで飲み口を近づけると、両手で容器を掴み、必死に飲み始めた。やはり腹が減っていたのか、ものすごい勢いだ。
「一気に飲むな、むせるぞ」
一旦容器を離そうとするも、捨て子は絶対に離さない意思を見せつけ、逆に容器を引っ張ってくる。相当飢えていたのだろう。
容器を離すのは諦め、捨て子がミルクを飲んでいる様を見続ける。結局、飲む勢いを維持したまま、二分も経たないで飲み干してしまった。
捨て子がやっと容器から手を離すと、私は空になった容器に目を移す。
「全部飲んだか。次はどうすればいいんだ?」
空の容器をテーブルに置き、本を覗いてみる。項目には『ゲップをさせる』と記されていて、背中を下から上に軽く摩り、空気を吐かせるとまであった。
「ゲップ……。手間がかか―――」
「けぷ」
「む?」
ボヤいてる途中、背後から聞き慣れない音が聞こえてきた。後ろを振り向いてみるも、泣き止んだ捨て子しかいない。まさか、捨て子がゲップをしたのだろうか?
「いま、ゲップしたのか?」
「けぷ」
捨て子にゲップで返答されてしまった。癇に障るが、私の手を煩わせなかっただけでもよしとしよう。後は、容器を全て洗えば終わりだ。
念の為、もう一度だけ煮沸消毒しておこう。そう決めて、使った容器を全て水洗いする。
また魔法で炎を灯した大釜に容器を放り込んだ後、捨て子の元へと近づいていく。
顔を覗いてみると、腹が満たされて満足したのか、捨て子はスヤスヤと眠りに就いていた。
今までずっと泣いていたんだ。疲れも溜まっていたのか、口をだらしなく開けている。
「ようやく静かになったか。そのまま寝てろ」
疲労の篭ったため息を漏らす私。こいつのせいで、今日一日がやたら長く感じてしまった。今は夕暮れ時、朝まで起きないだろう。
確か人間は、朝、昼、夜、この時間帯に飯を食べるはず。七十年以上も飲み食いをしていなかったから、記憶は曖昧だが。
当然、赤ん坊もそうだろう。三食あげれば充分。そう思いつつ、赤ん坊を育てる順序が記された本を読んでみると、思わず目を疑う文章が記されていた。
「さ、三時間に一度、粉ミルクか母乳を与える、だと……?」
完全に予想外だった。そんなに間隔が短いと、ロクに新薬、新しい魔法の開発に手を掛けられない。
今日は厄日じゃない。とんでもない疫病神を拾ってしまった、あまりにも最悪な日だ。
捨て子にゆっくりと目を送ると、捨て子は安心し切った表情で眠っていて、また「けぷ」とゲップをした。
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